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流浪の防人  作者: まいたけ
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橋上の闘い(3)

 想像以上の流れであった。

 追い詰められやむなく荒れる川へと飛び込んだ。川幅は広く、水深も深いため、水中の岩に叩きつけられる心配はなさそうであったが、流れはまるで水底をさらうようにうねっており、泳ぐなどということは到底不可能であった。この場合、もがくよりも流れに身を任せた方が助かる可能性が高い。

 幸いスサは意識を失っているようであった。

 意識があればおそらく溺れまいと暴れていたであろう。そうなれば流れに身を任せるどころではなかった。

 奔流ほんりゅうに揉まれながらおよそ四里(約15キロメートル強)ほど下流に流れ着いた。かろうじて流れの緩やかな支流に入ることができたのは、まったくの幸運であった。

 身を切るほどに冷たい川の流れに冷やされて萎えきった身体を、それでも力を振り絞り川から這い上がったとき、スサが呼吸をしていないことに気がついた。水を飲まぬようにと鼻と口を抑えてはいたが、激しい流れの中でスサの身体を離さない、それだけに必死であった。

 急いで蘇生術そせいじゅつを施す。

 気道を確保、人口呼吸をし、懸命に胸を押す。

 胸を押すたび、左肩に激しい痛みが走る。

 飛刀ひとうが深々と突き立った肩から流れる血が肘を伝い、スサの衣をみるみる赤く染めていく。

 (頼むから、戻ってきておくれ!)

 祈るような思いで施術せじゅつを続けた。

 やがて、ごぼ、という音とともに水を吐き、数度咳込むとスサは呼吸を取り戻した。

 アイラは深い安堵の溜息をつくと、左肩に突き刺さった飛刀を抜いた。

 「っつ……!」

 うめき声が漏れる。

 腹に刺さった飛刀は抜かない。止血帯のない今の状況で抜いてしまえば、恐らく失血による死はまぬがれまい。

 (とにかく火をおこさないと……)

 スサはなおも意識を失ったまま、かちかちと歯を鳴らしている。このままでいれば凍え死んでしまう。

 そう思ったとき、ふっと意識が遠のいていくのを感じた。

 おびただしい出血と、体温の低下によるものであろう。

 アイラのまとっていた胴衣どういは腹部が真っ赤に染め上げられ、水で濡れているのか血で濡れているのか、にわかには区別もつかぬほどであった。

 さらに視界がぐにゃりと歪み、天と地が混ざり合い、その境が分からなくなっていく。胸の奥が燃えるように熱くなり猛烈な吐き気を催した。

 (あの投剣……毒が塗ってあったのか)

 凶器に毒を塗っておく。暗殺の常套手段じょうとうしゅだんといえるであろう。

 身を隠すこともなく二人して意識を失えばどうなるか。

 身を隠す場所を探すため、懸命に意識を繋ぎとめようとしたが、冷えと失血、さらに毒に犯された身体がそれを許さなかった。

 目の前が暗くなっていく。

 (せめて……スサだけ……で……も……)

 薄れていく意識の中、最後に聞こえたのは、何かが下生したばえをかき分け近づいて来る音であった。



 先に意識を取り戻したのはスサであった。

 その始めはまだ夢の中で、まるでぬるい水の中を深く深くゆっくりと沈んでいくような、どこか心地よささえ感じるような感覚であった。

 遠くのほうでなにか音が聞こえる。

 目を覚まし、薄暗い景色の中にぼんやりと天井のはりが浮かんできたとき、その音が遠くのものではなくごく近くから発せられているものであることに気付いた。

 それはかたわらの囲炉裏いろりの中で赤々と燃える炎にあぶられた薪のぜる音であった。

 静寂の張り付いた部屋にぱちぱちと薪の爆ぜる音が響いている。

 スサは懸命に状況を理解しようとしたが、まるで頭の中が霞がかっているかのように思考が千切れてまとまろうとしない。唯一理解できたのは、どうやら自分がまだ生きているらしい、ということであった。

 仰臥ぎょうがしたまま部屋の中を見回すと、それはまるで都でならず者に追われているときに飛び込んだ小さな小屋にそっくりであった。

 居間には小さな箪笥たんすと囲炉裏があり、土間があり、土間には流しと台所がある。

 ただひとつ違っているのは、囲炉裏を挟んだスサの真正面の壁に暖簾のれんがかけられていることであった。奥に部屋があるのであろう。

 それにしてもなぜこのような場所にいて、あまつさえ布団に寝ているのであろうか。確か都を離れ、山の中を歩いていたはずである。

 スサはもう一度思い返そうと目を閉じて頭の中をもやを払おうとした。

 タルクの町を出て国境の町へ行くために風抜き山を越えていたはずであった。途中雨に降られ、雷が鳴り響いていた。翌日には空は晴れ、山間の渓谷に架かった吊り橋を渡ろうとしたところで見知らぬ二人の男に襲われ、アイラが身を挺して守ってくれた。そうしてアイラが自分を抱えて荒れる川へと飛び込んだ――

 そこまで思い出したとき、はっと息をのんだ。

 ――アイラは?

 慌てて身を起こし周りを見渡す。

 アイラはすぐ側にいた。スサの隣に敷かれた布団に眠っていたのである。思考がまとまらなかったうえに気が動転していたために気付かなかったのであろう。

 ともあれスサはアイラが無事でいることに深い安堵あんどの溜め息をついた。

 ところがどうにも様子がおかしい。

 アイラの呼吸はとても眠っているもののそれとは思えないほどに激しく、額には大粒の汗を浮かべている。ときおり歯を食いしばり苦痛に耐えるようなうめきをもらすのである。

 「アイラ? アイラ!」

 スサはアイラを起こそうと必死にその身体を揺すったが、アイラは眉根をよせ、荒い呼吸を繰り返すだけであった。

 スサの心臓は激しく鳴り、頭の奥で痛いほどに響いていた。

 「どうしよう。どうしたら……」

 何もできない己の無力さと、何も分からない己の無知に歯噛はがみする。

 助けてもらうことしかできない不甲斐ふがいなさと悔しさに、涙すら零れた。

 ――アイラに死なれたくない。

 それは助けてくれるものがいなくなる、という打算的ださんてきな感情ではなかった。

 人と人とが情を通い合わせるのに最も必要なものは時間的な長さではなく、相互における関係性の深さであろう。

 血を分けた肉親でさえ、ときに血みどろの争いを演じることがある中で、見ず知らずの子供である自分を身命をなげうってまで守ろうとしてくれたアイラの姿が、スサに言いようのない親しみと温もりを感ぜしめたのだとすれば、出会ってまだ数日にしかならない人間に、心底からの情を感じるというある種の滑稽こっけいさも、あるいは理解することができるであろう。


 ともかくアイラの様子は尋常じんじょうのものではない。が、スサにはどうすることもできないのである。

 そのとき、囲炉裏の炎の向こう側、暖簾の奥から一人の男が姿を現した。

 上背はそれほど高くはないが熊のようながっしりとした体格をした男であった。

 あごも口周りも髭に覆われており、眉は太く髪もぼさぼさであった。そのくせ目だけがぎょろりと光を放っている。

 左手にはなにやら器を持っているが、その手があまりに大きいため、手元の器がまるで小鉢にしか見えない。

 男はスサを見とめていながらなお無言のままのそり、のそりとと近づいてくる。

 囲炉裏で揺れる炎が男の不気味さをより一層引き立たせていた。

 スサは男とアイラの間に両手を目いっぱいに広げて立ちふさがった。アイラを守ろうというのであろう。

 スサは男を見上げ、男はスサを見下ろす形で向かい合う。もしも男がその気になれば、小柄なスサなどひとたまりもないであろう。

 スサもまた、それを理解していながらなお、男をにらみ据え、アイラを守ろうという気概きがいを示している。

 アイラはスサの背後で今なお呼気荒く、苦しげに喘いでいるのである。

 一瞬沈黙が走った後、男の手がスサに向かってぬう、と伸びていった。

 スサからみれば、男の手は視界いっぱいに広がって迫ってきているであろう。その景色はスサの目にどのように映っているのであろうか。

 翼を広げた大鷲が、その鋭い爪を獲物に向かって伸ばしている様か、それとも巨大な蛸が不気味な触手を広げ、獲物を絡め獲ろうとする様か。

 迫る大きな手を前にスサは目を固く閉じた。

 男の手はスサの頭を掴むと、まるであやすように撫で、次いでその小さな肩をぽんぽん、と叩いた。

 スサは開いた目を丸くし、ぽかんとした表情で男を見つめる。

 男はアイラのそばに腰を下ろすと、右手をアイラの頭と枕の間に差し挟み、そっと頭を持ち上げた。

 左手の小鉢――あくまで男の手の中で見ればであるが――はなにやら得体の知れない緑色の液体で満たされている。

 小鉢の縁をアイラの唇にあて、ゆっくりとその液体を流し込んでいく。

 するとどうであろう。先ほどまであれほど苦しげな、ほとんど喘ぐようであったアイラの呼吸が、にわかに落ち着きを取り戻したのである。

 男はアイラの頭を枕に下ろすと土間に降りた。小鉢を流しに置き、かめからおけに水を汲む。そうして再びアイラのもとに戻ると掛け布団を剥ぎ取った。

 アイラは白い寝巻きを着せられていた。大汗をかいたのであろう。寝巻きはしとどに濡れそぼっている。

 男は寝巻きの帯を解くと手早く脱がせた。左肩と腹には包帯が巻かれていた。

 完全に意識を失っているのであろう。あらわにされた乳房や秘部を、隠そうとする様子もない。

 男は桶に張った水に布を浸すと絞り上げ、丹念に汗をぬぐい始めた。

 布を水に浸し、絞り、身体を拭う。淡々と繰り返される動作は、その外見からは想像もできないほど優しく、また手馴れていた。

 スサは言葉もなく男の動きを見つめている。

 やがてアイラの身体を拭い終えると、男は箪笥から新たな寝巻きを取り出しアイラに着せた。そうして布団をかけると、最後に絞った布を額に乗せた。

 スサが意を決したかのように声をかける。

 「あの……アイラは助かる……?」

 先ほどまであれほど苦しげであった呼吸が、男が緑色の液体を飲ませただけで落ち着きを取り戻したのである。――きっともうすぐ目を覚ます。そんな希望的観測がスサにはあったのであろう。

 ところが男の口から発せられた言葉は意に反したものであった。

 「……分からん」

 ややくぐもった低い声であった。

 「腹の傷が深い。血を流しすぎてる上に毒にもやられてる」

 とにかく今夜がヤマだろうという。

 男は桶を流しに戻すと暖簾を掻き分け奥へと戻っていった。

 スサはしばらくその場に座していたが、やがて自分の胸に手を当て、ひとつ大きく深呼吸をした。そうしてアイラの眠る布団のそばに端座たんざし、そっとアイラの手を握った。


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