16
「王女殿下、申し訳ございません。すぐに下がらせま……」
「その手を離しなさい。今すぐによ」
父の言葉は可憐な声に遮られた。
ナタリアの腕を掴み部屋から引きずり出そうとしていた使用人に向かって、王女はまだ涙の見える顔ながら、はっきりと命じた。少女らしい高くて可愛らしい声にも関わらず、その声は上に立つ者の威厳に満ちていて、人を従わせる力があった。
使用人がハッとしたようにナタリアの腕を離す。その勢いでナタリアはよろけ、床に手をついた。
王女はナタリアの前まで進み出ると、自分から膝をついた。それにまた小さくざわめきが起こる。
金の瞳がナタリアの目を覗き込んだ。
初めて会ったはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がした。なぜか懐かしい感じがするのは、セシリオと同じ色の瞳だからだろうか。
「ナタリア、なのね?」
咄嗟に声が出なくて、肯定するために何度か頷く。王女は「……あぁ」と呟いてから、また涙を一筋流した。セシリオがそっとハンカチを王女に差し出す。
「フラン、今は泣くときじゃない」
王女は小さく頷くと素直にハンカチを受け取り、軽く顔に押し当てる。一度自分を落ち着かせるかのように長く息を吐いてから立ち上がった。目を閉じてもう一度深呼吸して、ナタリアを見下ろす。その目がなぜか愛おしそうなものを見ているようだったのは、ナタリアの気のせいだろうか。
「わたくしはフランシスカ。テジェリア国第二王女として、あなたの挨拶を受け入れます」
「ありがとうございます」
ナタリアはすぐに立ち上がれないまでも、軽く体勢を立て直してお礼を述べた。
「さて、伯爵代理?」
とりあえず挨拶を受け入れてもらえてホッとしたのも一瞬のことだった。温かく感じた王女の目は、一気に冷たい光を帯びた。王女らしいといえばそうなのだろう。一切の偽りを許さないような、そんな目だ。フランシスカがその目を父に向ける。
父は一瞬嫌そうな顔をした。彼は爵位を持てないことに劣等感を抱いている。普段ならば絶対に伯爵代理などとは呼ばせない。
「なんでしょうか」
それでも父はすぐに切り替えたらしい。フランシスカにニッコリと外向きの笑顔を作った。対するフランシスカに笑顔はない。
「『コレ』とはどういうことかしら?」
「コレ、ですか?」
「今言ったでしょう。『すぐにコレをここから連れ出せ』って。まさかナタリアのことをコレと呼んでいるの?」
父は目を丸くした。状況が理解できていない様子で、フランシスカとナタリアを交互に見る。
「伯爵代理、ナタリアはあなたの娘ではなかったのかしら。娘をコレ呼ばわりした上に、ここから連れ出せと?」
「で、ですが殿下、なにか殿下に対して不敬なことがあったのではないかと……」
「見ていたでしょう? ナタリアはわたくしに挨拶しただけよ。ずっと頭を下げていたナタリアに何ができたというの。何があったのか確認もしないで、なぜナタリアのせいだと思ったの?」
「それは……」
フランシスカに睨まれた父は口ごもったまま答えない。いや、答えられないのだろう。実際にナタリアは、何もしていない。王女に述べたのは挨拶の言葉だけ。頭を下げていたのだから睨んだりすることもできなければ、当然触れてもいない。強いて言うならばこのようなひどい恰好で姿を現したというくらいだし、父だけでなく部屋にいる皆が見ていたことだ。
「どういうことなの、伯爵代理?」
フランシスカは父を睨みながら、伯爵代理を少し強調して言う。
父は口をムッと引き結んで顔を赤くする。
王女という身分があり、護衛もいる。だけど父はフランシスカよりも大きく、当然ながら力もある。その父に向かって、フランシスカは全く物怖じせずに向かっていく。ナタリアはハラハラしながらそれを見ていた。
フランシスカは答えない父をしばらく睨むように見たあと、ミゲラに目線を移した。
「ミゲラ夫人、だったかしら。あなたもナタリアのことを『おまえ』って言ったわね。あなたはナタリアの継母だと聞いていたのだけれど、違ったのかしら。一体どういうこと?」
ミゲラも目を丸くする。そして非常に都合が悪い、という顔をした。
「ええと、それは……、殿下のお顔に急に涙が見えましたので、わたくしたちも慌ててしまいましたの。殿下に何かあっては大変ですもの、咄嗟にそのように言ってしまったのかもしれませんわ」
「へぇ、そうなの。わたくし、あなたがナタリアに『早くご挨拶なさい』と言って背を強く押したのも見たのだけれど、それもわたくしのためなのかしら?」
「え、ええ、もちろん。ナタリアは背を押さなければ挨拶もしませんので……」
ミゲラは自分の両手を擦りながら、口端を無理に上げている。
「ではこのナタリアの恰好は何?」
「その服が好きなようでして、その他は受け付けませんの。我儘がひどくて、少しでも気に入らないと癇癪を起こすものですから仕方なく」
「わたくしのお母様ならば、わたくしがおかしな恰好をしていたら泣き叫ぼうと癇癪を起こそうと、それを正すわ。侍女にも『主を正せないのは無能』っていつも言っているわね」
フランシスカはわからないというように手を頬に当てて首を傾げた。
「どうしてミゲラ夫人もナタリアの侍女も、このままにさせているの? 無能なの?」
容赦のない物言いに、セシリオがそっと「フラン」と声を掛けた。フランシスカはハッと顔を上げた。
「あぁ、なるほど。ナタリアのほうが立場が上だものね。言い出せないこともあるかもしれないわね?」
フランシスカの声色は静かだ。だけど部屋の空気がピンと張っている。
フランシスカだけはそれに気が付いていないのか、ナタリアのほうを向いてニコッと笑った。
「ごめんなさい、ついいろいろと気になってしまって……。わたくし、思ったことをすぐに口にするなとよく叱られるの。会えて嬉しいわ、ナタリアと呼んでもいいかしら? それともルシエンテス伯爵と呼んだほうがいい?」
「なっ」
反応したのはナタリアではなく父とミゲラだ。パウラも驚いた顔をしている。
フランシスカの隣に座っているセシリオが苦笑して、窘めるように言った。
「フラン、ナタリアはまだ爵位をもっていないよ」
「それは知っているけれど、もうあと一年もすれば伯爵になるのでしょう?」
「そうだけど、今はまだナタリアでいいんじゃないかな。ね?」
セシリオがナタリアに視線を送ったので、ナタリアは大きく頷く。父がいる前で「伯爵」などと呼ばれたら、確実に気分を害してあとが大変だ。
「ではナタリアと呼ばせてもらうわ。わたくしあなたに会えるのを楽しみにしていたの。口に合うかわからないけれど、城の料理人に作ってもらった焼き菓子を持ってきたのよ。王都から茶葉も持ってきたの」
フランシスカは楽しそうに笑った。まるで父やミゲラがこの場にいることを忘れているかのように、ナタリアだけに話しかける。
「王都で流行っている柑橘の風味のするお茶でしょ、それから王室御用達の上級品、それに美容に効くっていう紅茶もあるの。王宮ではお母様が『フランにはまだ早い』って飲ませてくれないのよ」
フランシスカは少し口をすぼめてむくれた顔をする。そうしていると、七歳という年齢らしく見えた。
「だからこの機会に、次期伯爵に適当な物は贈れないわ、ってナタリアを言い訳にいろんな種類をたんまりと持ってきたの。一緒に飲んでくれるでしょう?」
まずはどのお茶がいいかしら、とナタリアとお茶をする前提で話し始めるフランシスカに、ナタリアは困惑した。ナタリアはどう見ても場違いな恰好をしている。普通ならば少し頭がおかしいと思われて遠巻きにされるだろう姿だ。それにも関わらず、フランシスカの目にはナタリアしか映っていない。
別の場所から冷気を感じて、そっと父に目線をやる。余計なことは話すなと厳命されているし、父やミゲラからすればナタリアが王女と一緒にお茶をするなど許せることではないだろう。
父は目が合うとナタリアを軽く睨んでから、フランシスカに笑顔を向けた。
「殿下、お茶でしたらミゲラとパウラがご一緒いたします。歳が近い方が話も弾みましょう。まずは、ぜひパウラと」
父が手を揉みながら言うと、にこやかだったフランシスカの目がまた急に冷気を帯びた。
「なぜ?」
「なぜ……ええと、ナタリアは殿下とお話しできるような教養を持ち合わせておらず、礼儀もなっていないので、きっと不快にさせてしまうと思います。その点、パウラは教師たちからの評判もよく、お話を楽しめるはずですよ」
父はパウラを褒め、パウラはそれに応えるようにニコッと笑って胸を張った。フランシスカはチラリとだけそれを見ると、小さく溜息を吐いた。
「そういう話はしていないのだけれど……」
フランシスカは困ったように首を傾げてセシリオを見た。
「お兄様、わたくし、侮辱されているのかしら?」




