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ここから3話、セシリオサイドの話です。
セシリオがルシエンテス伯爵家に来て一月ほどが経った日。
夜も深くなった頃、セシリオは滞在している部屋で、わずかな灯りを頼りに手紙をしたためていた。
昼の間は常に誰かに見られている。こっそりと書けるのはこの時間しかなかった。
さらさらと流れていたはずの文字にインクの染みがつき、両手に力が入りすぎていることに気が付いた。一度手を止めて深呼吸する。落ち着かなければならないのはわかっているのに、苛立ちが止まらない。
自分がこの国を離れている間に、まさかここまでナタリアを取り巻く状況が悪化しているとは思ってもいなかった。セシリオが国に戻ったら、きっとナタリアはいつもの笑顔で迎えてくれると思っていたのだ。
知っていたところで何かができたわけではない。セシリオにも見張りが付き、簡単に動くことができなかったから。だけど悔しくてたまらない。
初めてナタリアに会った時のことを、セシリオは覚えていない。三歳か四歳か、そのくらいの小さい時だったからだ。だから気が付いた時には一緒にいたし、セシリオにとってはルシエンテス伯爵家を訪れるということはナタリアに会うということだった。
セシリオの母はルシエンテス伯爵家の当時の当主夫妻、それからナタリアの母と仲が良かった。伯爵家に滞在していたのはそれが大きな理由だけど、セシリオをナタリアに会わせる目的もあったのだろうと、後から考えるとそう思う。
セシリオの生まれは少々複雑だ。
セシリオはビセンテ公爵家の三男だ。母はビセンテ公爵夫人であり、それは間違いない。父は名義上はビセンテ公爵ということになっていて、セシリオは公爵のことを父として慕っている。だけどセシリオの実の父親はビセンテ公爵ではない。
母であるビセンテ公爵夫人は海を隔てた隣国オグバーン王国の出身だ。彼女はオグバーン国王の弟の娘で、すなわち王とは伯父と姪の関係だった。
オグバーンとこちらの国であるテジェリア王国は以前から仲が悪く、長い歴史を見ると何度も戦を繰り返している。ただ、幸いなことに近年は戦が起こっておらず、争い続けるよりは仲良くするほうがお互いにとっていい、という方向に変わってきていた。
その流れの中で、両国の友好の証としてテジェリア王国に嫁いできたのがセシリオの母だった。
嫁ぐにあたって、彼女は国王の養女となってからこちらの国へやってきた。王女であれば理想的だったが、残念ながらオグバーン王の一人娘はすでに他国に嫁いでいたため、年齢的にも身分的にも一番好ましい条件だった彼女が選ばれたのだ。
婚姻相手はテジェリア王国の筆頭公爵家の嫡男、ビセンテ次期公爵。現在のビセンテ公爵だ。王太子に嫁げればよかったが、あいにく彼にはすでに妃がいた。弟王子も結婚してしまっていて、未婚で年齢の釣り合う王族男性がいなかった。オグバーンもテジェリアも一夫一妻制で、側妃という制度は存在しない。そのため両国が了解の上、王族ではないとはいえ王家の血を継ぐ公爵家との縁組となった。
ビセンテ次期公爵はその役割を充分に理解していて、彼女を大切にした。彼女を公爵家の夫人として尊重し、自身の妻として遇し、何不自由ない暮らしも与えた。
彼女の方も自分の役割を理解していたので、公爵家の夫人として、そして両国の友好の証として、相応しくあるように務めた。
お互いの義務として子も成した。長男に続き長女、そして次男。三人の子を産んだ。
そして三人目の子である次男が無事に一歳になった時、彼女の方から夫に提案したそうだ。
『大きな義務は果たしました。これからはお互いに、少し自由に生きてみてもよろしいのではありませんか?』
二人の仲は悪くない。悪くないのだが、それならば愛し合っているのかというとそうでもない、だけど情がないのかというとそれもそうでもない、というのがこの夫婦の関係だ。
お互いに断りようのない政略結婚だった。
そして夫人は、夫の心に別の女性がいることを知っていた。
夫であるビセンテ次期公爵は優しく誠実な人だった。だからこそ、そういった提案をしたのだろう。
心の中でどう思っていようとも、結婚してから実際に別の女性の元へ行ったことは知っている限りでは一度もなかったし、彼女に対して不誠実なことはしなかった。
重要な政略結婚だったのだから、おいそれと離婚などできないし、お互いにするつもりもない。良きパートナーであることが今後も変わらないのであれば、今まで決められた道を歩いてきた分、少しは心のままに生きてもいいのではないかと思ったのだ。
少し話が逸れるが、夫は優しかったし待遇も悪くなかったとはいえ、国同士の友好という重い責任を背負って、仲が良いとはいえない異国の地に放り込まれた夫人の負担は半端なかった。しばしば情緒不安定に陥った夫人を献身的に支えたのが、ルシエンテス家の当時の当主夫妻だった。公爵夫人がルシエンテスを信頼し、ナタリアの母との仲が良いのは、その繋がりから来ている。
そうして夫が別の女性の元へ行くようになってから、夫人も単独でお茶会や舞踏会、夜会などを楽しむようになった。そこで親交を深めるようになったのが王太子、今のテジェリア国王である。
彼は為政者としては申し分ない才を持っていたが、女性関係はやや奔放なところがあった。初めて少しの自由を得た公爵夫人と、気さくな王太子。気が合った二人が恋仲になるのに時間はかからなかった。
そうして生まれたのがセシリオである。
公爵夫人が王の妾という座についていることはテジェリア国の貴族であれば誰もが知るような事実だ。そしてセシリオの出自もまた多くに知られている。だけどこの国は一夫一妻制であり、たとえ国王や王太子の子であると分かっていたとしても、正妻の子以外は王子、王女とはみなされない。
そうはいっても王太子の子を放り出すわけにもいかない。そのため、セシリオは名義上はビセンテ公爵家の三男ということになっている。
そんな複雑な生い立ちのセシリオを、彼の母は心配したのだろう。公爵家の血を継いでいないセシリオは、いずれ公爵家から独立しなければならない。かといって、王家の一員として過ごすこともできない。ルシエンテス伯爵家を継ぐ可能性の高いナタリアと仲良くさせておき、いずれ婿入りできれば安泰だと、そういう意図があっただろうことは想像に難くない。
そんな意図など幼かった当時は知る由もなかったが、それでもセシリオとナタリアは自然と仲良くなった。
セシリオはやんちゃで何でも勢いで行動する子供だった。それは自分の家でなくても同じことで、セシリオは伯爵家でも好きなように動き回っていた。
「まってよぅ」
高くて可愛い声が聞こえた。セシリオは一度止まって振り返り、一歳下の伯爵家の長女ナタリアの小さな手を引いた。
「急げ。見つかっちゃう」
勉強時間だったけれど抜け出してきたのだ。ナタリアまで抜け出す必要は全くなかったのに、セシリオが動くとナタリアは必ずと言っていいほどついてきた。
厨房の裏口にさっと隠れる。次の瞬間、ギィッと音を立てて隠れたすぐ横の戸が開いた。探しに来た教師かもしれない。二人はうずくまって息をひそめた。
だけど出てきたのは仕事中の料理長だった。
「ふぅ」
二人は安心して息を吐いた。
料理長が目を丸くしてセシリオとナタリアを交互に見る。セシリオは口の前に人差し指を立てて、静かに、というポーズをした。ナタリアも同じように口の前に人差し指を立てる。料理長は目を泳がせたあと、ニッコリと笑って同じポーズを返してくれた。
料理長は笑って知らんぷりしてくれた。
だけどそれからしばらくして結局見つかってしまい、二人はそろって叱られた。
いつでも叱られているような性格のセシリオに対し、ナタリアは思慮深くて慎重。怒られるようなことをするような子ではなかった。セシリオがいないときは脱走することもなければ走り回ることもほとんどなく、大人しく過ごしているのだという。
それなのにセシリオのペースで動き回って怪我をしても、一緒に何度叱られても、ナタリアはいつだってセシリオについてきた。
ある時、さすがにセシリオも不思議に思って聞いてみた。
「ねぇナータ。なんでいつも僕についてくるの? 誰かにそうしろって言われたの?」
「ううん、言われてないよ」
「それなら、なんで?」
そうしたら、ナタリアはニッコリ笑って言ったのだ。
「セシーと一緒にいたいから」
思い返してみれば、きっとこの時だった。
セシリオはナタリアを守らなきゃと思った。ナタリアを守るのは僕なのだ、とも思った。
セシリオにとって、ナタリアは特別な存在になった。
もっとも、怪我をさせていたのも叱られる原因になっていたのもセシリオだったのだから、どうにもおかしな話ではあった。でもたしかにそう思ったのだ。
自分勝手に動くと、真似をしようとしたナタリアが怪我をする。だからナタリアの速度で動くようになった。一緒に逃げて捕まって叱られても、ナタリアを背に庇って「僕が行こうって言った」とか「ナタリアはついてきただけ」と言い訳するようになった。
セシリオは机の前にじっと座っているのは苦手だったけれど、勉強もそれなりに、今までよりはちゃんとやるようになった。
王都にいたある日、セシリオは母からナタリアと結婚してはどうかと言われた。この時セシリオは七歳。結婚がどういうことなのか、はっきりとわかっていたわけではないし、実感もなかった。だけどそう言われてセシリオは嬉しく思った。
セシリオが伯爵家から王都へ戻る時はいつも、幼いナタリアは泣いていた。六歳になって号泣することはなくなったけれど、それでも寂しいのを堪えている顔をする。結婚したらきっと帰らなくてよくて、ナタリアの側にずっといられる。
ずっと側で守るのだ。
そう思っていたのに、別れは早くもその一年後にやってきた。母の祖国へ行くことになってしまったのだ。
セシリオの母の伯父であり義父である国王の体調が思わしくないため、一時帰国してほしい。
そんな要請を受けて、セシリオは母と共に母の祖国に戻ることになった。セシリオは行きたくなかったけれど、まだ八歳の子供に決定権はない。セシリオは真剣に悩んで選んだネックレスをナタリアに贈り、一時的な別れを告げた。
「今生の別れなわけじゃないんだから。たったニ年か三年のことでしょう」
海を渡る船の上、悲壮感を漂わせて塞ぎこむセシリオに母は苦笑した。
たった三年というけれど、子供の三年は長いのだ。
「テジェリアでは学べないことをたくさん勉強して、ナタリアに教えるのでしょう?」
「……うん」
「それならば、まずこの船からの景色をしっかり見ておきなさい。ナタリアは船に乗ったことがないでしょう。海を見たことはあるのかしら。どうやって説明するの? あちらに見えるテジェリアの国はどんな形? 反対に見えるオグバーンは?」
母に言われて立ち上がり、海の先を眺めた。形と言われてもぼんやりしていてはっきりしない。だけど海はずっと先まで続いていることや、青く見えたこと、独特の匂いがしたこと、船が揺れて気持ちが悪くなったこと。オグバーンに着いたら手紙を書こうと思った。手紙を読んでいるときのナタリアの顔を思い浮かべたら、なんだか少し嬉しくなった。
「三年しかないのだから、めそめそしている暇などないわよ」
まさか思ってもみなかったのだ。
オグバーンについてみたら体調不良だという国王がピンピンしていたことも。
二人が着いた途端にオグバーンとテジェリアが冷戦状態になることも。
その影響で国交は断絶し、手紙どころか情報も届かなくなることも。
セシリオたちが常に監視下におかれた生活を余儀なくされることも。
長くて三年と言われていた滞在期間が無期限に変更されることも。
そしてその裏で、ナタリアがひどい生活を送ることになっていたことも。
セシリオも彼の母にとっても、全く想定外のことだった。




