11
体調が回復したナタリアは、五日ぶりに書庫の隣、いつも書類仕事をしている部屋で机に向かっていた。当然のことながら父もミゲラ夫人も、ナタリアが動けないならば代わりにやっておこう、なんてことはしない。使用人でもできるものは少しは片付けてくれたようだけれど、そうでないものはできなかった分だけ溜まる一方だ。
「大変。これ、今日の午前中に出さなければ食材が届かないじゃない……」
食材を管理しているのは厨房だが、必要な物を購入するときは最終的にミゲラ夫人がチェックすることになっている。……表向きは。それを代わりにやっているのがナタリアだ。
セシリオが滞在していることで、いつもよりも食材の注文が増えていた。父たちが見栄を張っていつもよりも高級な食材を出すように指示していることもあるが、問題はそれだけではない。セシリオは公爵家の令息なので、当然一人で来ているわけがない。従者を何人も連れている。いつも通りの注文では足りないのだ。
それで追加の注文を、という書類なのだが、見事に埋もれていた。
「足りなくなったらどうするつもりだったの……」
と呟いて、すぐに考えるのをやめた。もしそうなったら、当てつけのようにナタリアに味方している使用人に買い出しに行かせるに決まっている。足が悪かったり、重いものを持つのが大変な使用人を選んでそうする。それで、やらなかったお前が全て悪いのよ、とナタリアのせいにされるのが目に見えた。
とりあえずその書類をぎりぎりで発見できてよかったと思いながら仕上げて、急いで提出しに行く。
それが終わって戻ってくると、他に急ぎのものがないか、仕分けから始めることにした。
「こっちのは期限が昨日だわ。遅れたお詫び状も書かなければ」
はあ、とため息を吐く。
単なる雑用もあるが、本来ならば伯爵家の当主や女主人がやるべき仕事も多い。父とミゲラが当主と女主人顔をするならば仕事も全部こなしてほしいものだが、こういう時だけナタリアを伯爵家の一員扱いするのだ。
だけどそのおかげであまり外に出られないナタリアが外の様子や他の貴族の情報を得られるので、それはありがたいとは思っている。限られたものではあるが。
急ぎのものと余裕があるものに分け、急ぎのものに集中して取り掛かる。
どのくらいそうしていただろう、お腹がぐぅと鳴って顔を上げた。昼食は食べていないが、もうとっくに昼食の時間は過ぎている。今日は食べられないだろう。
座ったまま一度伸びをして、また書類に目線を落とす。
そのとき、ガチャと扉が開く音がした。そちらに目線を移すと、そこにはセシリオがいた。その後ろに侍女や従者が何人か付き従っていて、そのうちの一人にエマがいるのが見えた。
「セシ、セシリオ様」
慌てて立ち上がって頭を下げる。
ここには滅多に人がこない。だからこそここで書類仕事をさせられている。来るとすれば書類を追加したり持っていったりする従者や侍女くらいだ。まさかここでセシリオに会うことになるとは思わなかった。
ナタリアはいつもの簡素な使用人服に髪も軽く結わえただけ。きっとナタリアだとは気が付かない。それでも気が付いてほしい、と思ってしまう心と、反対にこのような姿を見られたくない、気づかれたくないという気持ちがせめぎ合って、ナタリアは顔が見えないように頭を下げたままキュッと口を堅く結ぶ。
「ナタリア嬢? そうだろう。顔を上げてくれませんか?」
ビクッと肩が揺れる。
いつのまにかセシリオはナタリアのすぐ前まで来ていた。ナタリアはおそるおそる顔を上げた。
「やはりナタリア嬢だ。先日とはずいぶん違う装いだったので、別の方かと思ってしまいましたよ。体調はよくなりましたか?」
「えぇ……おかげ様で、すっかり。心配してくださったと聞きました。ありがとうございます」
「いえ、僕はなにも。よくなられたようでよかったです」
セシリオはニッコリと微笑む。
その後ろでミゲラの侍女がキッとナタリアを睨んでいるのが見えた。彼女はわざとらしく咳払いをして口を開く。
「セシリオ様、書庫はこの隣でございます」
セシリオは部屋を見回して「そのようだな」と言った。
どうやら書庫に行く予定だったのが、扉ひとつ間違えてこちらに入ってしまったらしい。
「ナタリア嬢は、今、何を?」
セシリオは机の上を見て聞いた。
ナタリアは目線をチラッとミゲラの侍女に移した。何も言うな、と目が言っている。きっとこれはあとでミゲラに報告されるだろう。
その侍女の近くから、フンと鼻を鳴らすような音が聞こえた。エマだった。
「きっと絵でも描いているのです。重要な書類にも落書きをされてしまうので、旦那様が困っていらっしゃるのですよ。やめてくださいとお願いしたのに……。また私が叱られてしまうではありませんか」
「へぇ、絵を。僕にも見せてもらえますか?」
セシリオは机を覗き込むように一歩ナタリアに近づいた。そして書類を背に隠すようにナタリアも動く。自然と距離が近くなったところで、セシリオがナタリアにしか聞こえない声でささやいた。
「見張りがいる。そのまま動かずに聞いてくれ」
驚いて鼓動が跳ねる。ピクリと肩が揺れそうになったのを必死に抑えた。
見張りとはおそらくミゲラの侍女だろう。それ以外にもいるかもしれない。ナタリアは言われた通りに動かず、ゴクリと唾をのんだ。
「時間がないから要点だけ話す。僕は君の味方だ。絶対に助ける。だから信じて待っていてほしい」
ハッとして顔を上げると、金の瞳と視線が合った。さっきまであんなに柔らかく笑っていたというのに、その目は全く笑っていなかった。
「しばらくは今まで通りに過ごして、僕に合わせて。ナータ、絶対に僕が守るから」
ナタリアが見つめると、セシリオは頷く代わりにゆっくりと瞬きをした。
侍女のわざとらしい咳払いが聞こえた。時間切れのようだ。セシリオが一歩後ろに下がって笑みを浮かべる。
「失礼、今はまだ部外者の僕が見るべきではない書類もありますよね。配慮が足りませんでした。ではナタリア嬢、またどこかで」
「……はい」
ナタリアが小さく返事をすると、セシリオは身をひるがえして部屋を出ていった。侍女や従者もその後についていく。一番後ろについたエマが最後にナタリアに向けて小さく頷き、そして扉が閉められた。
ナタリアはずるずるとその場にへたりこんだ。早く打っている鼓動は、しばらくの間落ち着いてくれなかった。




