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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第2章 逆響者の覚醒

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第9話 影の中の瞳

 王宮の一角、セレスティア王女の私室は、豪華な調度品で飾られていた。夜八時。蝋燭の灯りが、金糸の刺繍を施されたカーテンに揺らめく影を作っていた。


 暗殺者ギルド「黒薔薇」に属する、エレナ・ノワール。彼女が部屋の隅の影から姿を現した。黒いドレスが、闇に溶け込むように動く。膝をつき、頭を垂れる。


「お呼びですか、セレスティア様」

「遅いわね」

「申し訳ございません」

「まあいいわ。本題に入りましょう」


 セレスティアは長椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。双月が王都を照らしている。


「リーナ・アスティスについて調べてもらいたいの」

「あの無響者の?」

「そう。あの女、何か隠しているわ」

「と申しますと?」

「カイゼル・ヴァルトハイムが、なぜあんな女を選んだのか。裏があるはずよ」


 セレスティアの声には苛立ちが滲んでいた。


 ――王女様は焦っている。


 エレナは内心で思う。ユリウス王子との完璧なたまゆら。それは誰もが認める運命の絆。なのに、セレスティアはまだ不安を抱えている。


「どの程度まで?」

「全て。交友関係、行動パターン、隠し事があるなら暴きなさい」

「期限は?」

「一週間」

「承知いたしました」


 エレナが立ち上がろうとすると、セレスティアが振り返った。


「それと、エレナ」

「はい」

「必要なら、少し脅してもいいわ」

「……承知いたしました」


 エレナは再び頭を下げ、影の中へと消えた。


 廊下を歩きながら、エレナは溜息をついた。


 ――また面倒な仕事やわ。


 リーナ・アスティス。噂では聞いている。無響者でありながら、名門ヴァルトハイム家との婚約を取り付けた少女。確かに不自然だ。


 だが、エレナにとってそれはどうでもいいことだった。金で雇われた暗殺者に、他人の恋愛事情など興味はない。


 ――さっさと終わらせて、報酬もらお。


 そう思いながら、エレナは夜の王宮を後にした。



 翌日の午後二時。王都の中央市場は、人々で賑わっていた。野菜や果物を売る声、客と店主の値切り交渉、子供たちの笑い声が混じり合う。


 エレナは商人の娘に変装し、人混みの中を歩いていた。茶色の髪を三つ編みにし、質素な服装。誰も彼女が暗殺者だとは気づかない。


 視線の先に、目標がいた。


 リーナ・アスティス。銀灰色の髪を持つ少女が、友人たちと楽しそうに店を回っている。隣には、薄紫色の髪のミラベル・ブランシュ。そして赤茶色の髪の獣人族、アルテミシア・クリムゾン。


「見て、これ可愛い!」

「ミラベル、それ高すぎるわよ」

「でも、素敵じゃない?」

「あたしには理解できねぇな、そういう趣味」


 三人の会話が聞こえてくる。普通の、どこにでもいる若い女性たちの会話。


 だが、エレナは気づいていた。リーナが時折見せる、寂しげな表情に。友人たちがたまゆらの話題を出すたびに、目を伏せることに。


 ――やっぱり無響者なんやね。


 エレナは人混みに紛れながら、さらに観察を続ける。


 リーナたちは、アクセサリー店の前で立ち止まった。店頭には、小さな響晶石(きょうしょうせき)を使った装飾品が並んでいる。


「わあ、綺麗……」

「響晶石のブローチね。たまゆらカップル向けの商品みたい」

「あ、ごめん、リーナ……」


 ミラベルが慌てて謝る。リーナは首を横に振る。


「気にしないで。私には関係ないもの」


 その声には諦めが滲んでいた。が、エレナは眉をひそめる。


 ――本当にただの無響者? それにしては……。


 何かが引っかかる。リーナの雰囲気、立ち振る舞い。無響者特有の卑屈さがない。むしろ、何か大きな秘密を抱えているような……。


「リーナ!」


 明るい声が響いた。エレナは反射的に身を隠す。

 声の主を見て、エレナの心臓が跳ね上がった。


 ユリウス王子。


 金茶色の髪を持つ王子が、親しげにリーナに声をかけている。


「ユリウス様、こんなところで」

「巡察の途中でね。君たち、楽しそうだね」

「はい、友人たちと買い物を」

「それはよかった」


 ユリウスの笑顔は、心からのものだった。リーナを見る目に、優しさが宿っている。


 エレナの胸が、きゅっと締め付けられる。


 ――なんで、あの女に……。



 夕方になると、王都の裏路地は表通りとは違う顔を見せる。薄暗く、人通りも少ない。


 エレナは建物の屋根の上から、下の様子を見下ろしていた。リーナが友人たちと別れ、一人で歩いている。彼女はここで接触するつもりだった。


 だが、またしても予想外のことが起きた。


 ユリウスが、リーナの後を追ってきたのだ。


「リーナ、待って」

「ユリウス様?」

「少し、話があるんだ」


 エレナは息を潜める。


 ――任務と関係ない。でも……。


 ユリウスの声を聞きたい。その思いが、エレナを屋根に留まらせた。


「君は、大丈夫かい?」

「何がですか?」

「カイゼルとの婚約。無理強いされていないか心配で」

「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「本当に?」

「はい。カイゼル様は、優しい方です」


 リーナの声に嘘はなさそうで、ユリウスは安堵の息をつく。


「それならいいんだ。君には幸せになってほしい」

「ユリウス様……」

「無響者だからって、不幸になる理由はない。君には君の幸せがあるはずだ」


 ユリウスの言葉に、リーナの目に涙が浮かぶ。


「ありがとうございます」

「僕にできることがあれば、いつでも言ってくれ」

「はい」


 ユリウスは優しく微笑むと、踵を返した。


 エレナは、その後ろ姿を見つめる。


 ――優しすぎるわ、王子殿下。


 胸の奥が、熱くなる。この気持ちは、いつから始まったのか。

 三年前、初めてユリウスを暗殺しようとした時。彼は襲ってきたエレナに対して、剣を向けなかった。


『君も、何か事情があるんだろう?』


 その言葉に、エレナはびたりと動きを止めた。これまでは誰も、エレナの事情なんて聞いてこなかった。ただの道具として扱われてきた自分に、初めて人として接してくれた。


 それ以来、エレナはユリウスを殺せなくなった。いや、殺したくなくなった。


 遠くから見守るだけで十分だった。

 彼の笑顔を見られるだけで幸せだった。


 でも、今は違う。

 リーナを見るユリウスの目。そこに宿る優しさと心配。それが、エレナの心を掻き乱す。


 ――なんで、うちじゃないん?


 分かっている。身分が違いすぎる。暗殺者と王子。光と影。交わるはずがない。


 でも、心は理屈では動かない。



 その夜。薄暗い地下室。暗殺者ギルド「黒薔薇」のアジトだ。石造りの壁に、蝋燭の灯りが揺れている。

 エレナは、通信用の魔法陣の前に座っていた。セレスティアへの報告の時間だ。

 魔法陣が光り、セレスティアの声が響く。


『で、何か掴めた?』

「リーナ・アスティスは、表向きは普通の無響者です」

『表向き?』

「はい。ただ、妙に堂々としています。無響者特有の卑屈さがありません」

『ふーん。他には?』

「ユリウス王子が、彼女を気にかけているようです」


 エレナは嘘をついた。あれは「気にかけている」程度ではない。もっと深い関心を持っている。でも、それを正直に報告したくなかった。


『兄様が? まさか……』

「ご安心ください。単なる同情のようです」

『そう。ならいいけど』


 セレスティアの声に安堵が混じる。


『引き続き、監視を続けなさい』

「承知いたしました」


 通信が切れる。


 エレナはハッとして、机の引き出しを開けた。そこには、大切にしまわれたハンカチがあった。白い絹のハンカチ。ユリウスの紋章が刺繍されている。

 あの日、怪我をしていたエレナに、ユリウスが渡してくれたもの。


『これで、傷を拭いて』


 優しい声が、今でも耳に残っている。

 ハンカチを手に取り、頬に当てる。ユリウスの香りは、もうしない。でも、温もりは感じる気がする。


「ユリウス殿下……」


 小さく呟く。

 この想いは、決して実らない。分かっている。

 でも、止められない。


 ――うちは、どうしたらええん?


 リーナを監視する任務。それは、ユリウスの大切な人を傷つけることかもしれない。でも、任務を放棄すれば、ギルドに殺される。


 八方塞がり。


 でも、一つだけ方法がある。

 嘘の報告を続けること。リーナに危害が及ばないよう、情報を操作すること。

 それは、ギルドへの裏切り。見つかれば、死あるのみ。

 でも――殿下の大切な人を守りたい。

 それが、せめてもの恩返し。


 エレナは決意を固める。

 明日もリーナの監視を続ける。でも、それは傷つけるためではない。守るために。

 ユリウスが大切にしている人を、陰から守るため。

 それが、自分にできる唯一の愛の形。


 エレナの瞳が濡れていた。


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