第9話 影の中の瞳
王宮の一角、セレスティア王女の私室は、豪華な調度品で飾られていた。夜八時。蝋燭の灯りが、金糸の刺繍を施されたカーテンに揺らめく影を作っていた。
暗殺者ギルド「黒薔薇」に属する、エレナ・ノワール。彼女が部屋の隅の影から姿を現した。黒いドレスが、闇に溶け込むように動く。膝をつき、頭を垂れる。
「お呼びですか、セレスティア様」
「遅いわね」
「申し訳ございません」
「まあいいわ。本題に入りましょう」
セレスティアは長椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。双月が王都を照らしている。
「リーナ・アスティスについて調べてもらいたいの」
「あの無響者の?」
「そう。あの女、何か隠しているわ」
「と申しますと?」
「カイゼル・ヴァルトハイムが、なぜあんな女を選んだのか。裏があるはずよ」
セレスティアの声には苛立ちが滲んでいた。
――王女様は焦っている。
エレナは内心で思う。ユリウス王子との完璧なたまゆら。それは誰もが認める運命の絆。なのに、セレスティアはまだ不安を抱えている。
「どの程度まで?」
「全て。交友関係、行動パターン、隠し事があるなら暴きなさい」
「期限は?」
「一週間」
「承知いたしました」
エレナが立ち上がろうとすると、セレスティアが振り返った。
「それと、エレナ」
「はい」
「必要なら、少し脅してもいいわ」
「……承知いたしました」
エレナは再び頭を下げ、影の中へと消えた。
廊下を歩きながら、エレナは溜息をついた。
――また面倒な仕事やわ。
リーナ・アスティス。噂では聞いている。無響者でありながら、名門ヴァルトハイム家との婚約を取り付けた少女。確かに不自然だ。
だが、エレナにとってそれはどうでもいいことだった。金で雇われた暗殺者に、他人の恋愛事情など興味はない。
――さっさと終わらせて、報酬もらお。
そう思いながら、エレナは夜の王宮を後にした。
*
翌日の午後二時。王都の中央市場は、人々で賑わっていた。野菜や果物を売る声、客と店主の値切り交渉、子供たちの笑い声が混じり合う。
エレナは商人の娘に変装し、人混みの中を歩いていた。茶色の髪を三つ編みにし、質素な服装。誰も彼女が暗殺者だとは気づかない。
視線の先に、目標がいた。
リーナ・アスティス。銀灰色の髪を持つ少女が、友人たちと楽しそうに店を回っている。隣には、薄紫色の髪のミラベル・ブランシュ。そして赤茶色の髪の獣人族、アルテミシア・クリムゾン。
「見て、これ可愛い!」
「ミラベル、それ高すぎるわよ」
「でも、素敵じゃない?」
「あたしには理解できねぇな、そういう趣味」
三人の会話が聞こえてくる。普通の、どこにでもいる若い女性たちの会話。
だが、エレナは気づいていた。リーナが時折見せる、寂しげな表情に。友人たちがたまゆらの話題を出すたびに、目を伏せることに。
――やっぱり無響者なんやね。
エレナは人混みに紛れながら、さらに観察を続ける。
リーナたちは、アクセサリー店の前で立ち止まった。店頭には、小さな響晶石を使った装飾品が並んでいる。
「わあ、綺麗……」
「響晶石のブローチね。たまゆらカップル向けの商品みたい」
「あ、ごめん、リーナ……」
ミラベルが慌てて謝る。リーナは首を横に振る。
「気にしないで。私には関係ないもの」
その声には諦めが滲んでいた。が、エレナは眉をひそめる。
――本当にただの無響者? それにしては……。
何かが引っかかる。リーナの雰囲気、立ち振る舞い。無響者特有の卑屈さがない。むしろ、何か大きな秘密を抱えているような……。
「リーナ!」
明るい声が響いた。エレナは反射的に身を隠す。
声の主を見て、エレナの心臓が跳ね上がった。
ユリウス王子。
金茶色の髪を持つ王子が、親しげにリーナに声をかけている。
「ユリウス様、こんなところで」
「巡察の途中でね。君たち、楽しそうだね」
「はい、友人たちと買い物を」
「それはよかった」
ユリウスの笑顔は、心からのものだった。リーナを見る目に、優しさが宿っている。
エレナの胸が、きゅっと締め付けられる。
――なんで、あの女に……。
*
夕方になると、王都の裏路地は表通りとは違う顔を見せる。薄暗く、人通りも少ない。
エレナは建物の屋根の上から、下の様子を見下ろしていた。リーナが友人たちと別れ、一人で歩いている。彼女はここで接触するつもりだった。
だが、またしても予想外のことが起きた。
ユリウスが、リーナの後を追ってきたのだ。
「リーナ、待って」
「ユリウス様?」
「少し、話があるんだ」
エレナは息を潜める。
――任務と関係ない。でも……。
ユリウスの声を聞きたい。その思いが、エレナを屋根に留まらせた。
「君は、大丈夫かい?」
「何がですか?」
「カイゼルとの婚約。無理強いされていないか心配で」
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「本当に?」
「はい。カイゼル様は、優しい方です」
リーナの声に嘘はなさそうで、ユリウスは安堵の息をつく。
「それならいいんだ。君には幸せになってほしい」
「ユリウス様……」
「無響者だからって、不幸になる理由はない。君には君の幸せがあるはずだ」
ユリウスの言葉に、リーナの目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます」
「僕にできることがあれば、いつでも言ってくれ」
「はい」
ユリウスは優しく微笑むと、踵を返した。
エレナは、その後ろ姿を見つめる。
――優しすぎるわ、王子殿下。
胸の奥が、熱くなる。この気持ちは、いつから始まったのか。
三年前、初めてユリウスを暗殺しようとした時。彼は襲ってきたエレナに対して、剣を向けなかった。
『君も、何か事情があるんだろう?』
その言葉に、エレナはびたりと動きを止めた。これまでは誰も、エレナの事情なんて聞いてこなかった。ただの道具として扱われてきた自分に、初めて人として接してくれた。
それ以来、エレナはユリウスを殺せなくなった。いや、殺したくなくなった。
遠くから見守るだけで十分だった。
彼の笑顔を見られるだけで幸せだった。
でも、今は違う。
リーナを見るユリウスの目。そこに宿る優しさと心配。それが、エレナの心を掻き乱す。
――なんで、うちじゃないん?
分かっている。身分が違いすぎる。暗殺者と王子。光と影。交わるはずがない。
でも、心は理屈では動かない。
*
その夜。薄暗い地下室。暗殺者ギルド「黒薔薇」のアジトだ。石造りの壁に、蝋燭の灯りが揺れている。
エレナは、通信用の魔法陣の前に座っていた。セレスティアへの報告の時間だ。
魔法陣が光り、セレスティアの声が響く。
『で、何か掴めた?』
「リーナ・アスティスは、表向きは普通の無響者です」
『表向き?』
「はい。ただ、妙に堂々としています。無響者特有の卑屈さがありません」
『ふーん。他には?』
「ユリウス王子が、彼女を気にかけているようです」
エレナは嘘をついた。あれは「気にかけている」程度ではない。もっと深い関心を持っている。でも、それを正直に報告したくなかった。
『兄様が? まさか……』
「ご安心ください。単なる同情のようです」
『そう。ならいいけど』
セレスティアの声に安堵が混じる。
『引き続き、監視を続けなさい』
「承知いたしました」
通信が切れる。
エレナはハッとして、机の引き出しを開けた。そこには、大切にしまわれたハンカチがあった。白い絹のハンカチ。ユリウスの紋章が刺繍されている。
あの日、怪我をしていたエレナに、ユリウスが渡してくれたもの。
『これで、傷を拭いて』
優しい声が、今でも耳に残っている。
ハンカチを手に取り、頬に当てる。ユリウスの香りは、もうしない。でも、温もりは感じる気がする。
「ユリウス殿下……」
小さく呟く。
この想いは、決して実らない。分かっている。
でも、止められない。
――うちは、どうしたらええん?
リーナを監視する任務。それは、ユリウスの大切な人を傷つけることかもしれない。でも、任務を放棄すれば、ギルドに殺される。
八方塞がり。
でも、一つだけ方法がある。
嘘の報告を続けること。リーナに危害が及ばないよう、情報を操作すること。
それは、ギルドへの裏切り。見つかれば、死あるのみ。
でも――殿下の大切な人を守りたい。
それが、せめてもの恩返し。
エレナは決意を固める。
明日もリーナの監視を続ける。でも、それは傷つけるためではない。守るために。
ユリウスが大切にしている人を、陰から守るため。
それが、自分にできる唯一の愛の形。
エレナの瞳が濡れていた。




