第8話 制御の第一歩
ヴァルトハイム公爵邸の敷地内。朝霧が立ち込める訓練場は、ひんやりとした空気に包まれていた。東の空がかすかに白み始めているが、まだ薄暗い。早朝五時。約束の時間だ。
訓練場の中央に、カイゼルが立っていた。黒い訓練着姿で、静かに瞑想している。私の足音に気づくと、ゆっくりと目を開けた。
「来たか」
「はい」
「答えは?」
「お願いします。私の錨になってください」
カイゼルは頷いてじっと私を見つめた。
「いいだろう。だが、最初に言っておく」
「はい」
「これは生半可な覚悟では無理だ。互いの魂に触れるということは、最も無防備な部分をさらけ出すということだ」
「覚悟はできています」
「本当か?」
「……正直、怖いです。でも、このままでは前に進めません」
カイゼルは私から数メートル離れた位置に立つ。
「まず、俺の魂脈に触れてみろ」
「え?」
「いきなり力を使うんじゃない。ただ触れるだけだ。羽根に触れるように、そっと」
「でも、それだと……」
「俺を傷つけるかもしれない。分かっている」
カイゼルの瞳に、揺るぎない決意が宿っている。
「信じろ。俺も、お前を信じる」
深呼吸をして、目を閉じる。母の日記にあった感覚を思い出す。魂脈は目には見えないが、感じることはできる。糸のように細く、光の筋のように温かい。
手を前に伸ばす。何も触れていないのに、指先に微かな感触がある。カイゼルの魂脈だ。強く、真っ直ぐで、でもどこか歪んでいる。精霊族の血がもたらす、異質な波動。
そっと触れる。
瞬間、カイゼルが息を呑む音が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「続けろ」
「でも……」
「これぐらいで音を上げるほど、やわじゃない」
再び集中する。カイゼルの魂脈は、触れると反発するような感覚がある。私の逆響の力が、無意識に干渉しているのだ。
力を抑えようとする。でも、抑えれば抑えるほど、制御が効かなくなる。水を握ろうとすればするほど、指の間から零れ落ちるように。
「力を抑えるな」
「え?」
「抑えるんじゃない。受け入れろ。お前の力は、お前の一部だ」
カイゼルの声が朝靄の中に響く。
「川の流れに逆らうな。流れに身を任せて、方向だけを変えろ」
言われた通りにしてみる。力を抑えるのではなく、受け入れる。私の中に流れる逆響を、否定するのではなく、認める。
不思議なことが起きた。
カイゼルの魂脈が、私の力を受け入れ始めたのだ。反発していた波動が、少しずつ調和していく。
「そうだ。その調子だ」
カイゼルの声に、苦痛の色はない。むしろ、驚きが混じっている。
「お前の力、思っていたより……優しいな」
*
訓練を始めて三十分が経過した。朝日が訓練場を照らし始め、霧が少しずつ晴れていく。
最初は順調だった。カイゼルの魂脈に触れ、その流れを感じ取る。少しずつ、私の力との調和を深めていく。
しかし、徐々に難しくなってきた。
「もう少し深く入り込め」
「これ以上は……」
「大丈夫だ。俺が受け止める」
カイゼルの額に、玉のような汗が滲んでいる。私の力が彼に負担をかけているのは明らかだ。
「やめましょう」
「やめるな」
「でも、カイゼルが……」
「これぐらいで根を上げていたら、本番で使い物にならない」
カイゼルの言葉は厳しいが、その裏に優しさを感じる。私のためを思って、あえて厳しく接しているのだ。
再び集中する。今度は、もう少し深く。カイゼルの魂脈の、より中心に近い部分へ。
触れた瞬間、激痛が走った。
私のではない。カイゼルの痛みが、魂脈を通じて伝わってきたのだ。
「カイゼル!」
「動くな!」
カイゼルの叫びで、かろうじて踏みとどまる。
「今、お前は俺の魂の深い部分に触れている。ここで急に手を離したら、両方とも傷つく」
「でも、痛みが……」
「これは俺の痛みだ。お前が気にすることじゃない」
「そんな……」
「リーナ」
カイゼルが私の名を呼ぶ。その声は、痛みに耐えながらも、どこか優しい。
「躊躇うな。中途半端な力は、お前自身を傷つけるだけだ」
その言葉に、何かが吹っ切れた。
カイゼルは、私を信じて、全てをさらけ出している。なのに私は、まだ躊躇している。彼を傷つけることを恐れて、本気になれていない。
それこそが、彼を傷つけているのかもしれない。
覚悟を決める。
私の力を、全て解放する。
逆響の力が、津波のようにカイゼルの魂脈に押し寄せる。カイゼルが苦痛に顔を歪める。それでも、彼は動かない。私を信じて、全てを受け入れようとしている。
「カイゼル!」
「大丈夫だ……続けろ……」
でも、力が制御できない。暴走し始めている。このままでは、カイゼルの魂を完全に破壊してしまう。
「やめなきゃ……」
「やめるな!」
「でも!」
「最後まで、やり通せ!」
カイゼルの叫びが、訓練場に響く。
次の瞬間、私の力が爆発した。
カイゼルが吹き飛ばされ、訓練場の壁に激突した。鈍い音が響き、彼はそのまま崩れ落ちた。
「カイゼル!」
駆け寄ろうとして、足がすくむ。また彼を傷つけてしまうかもしれない。私の力は、まだ収まっていない。
カイゼルがゆっくりと立ち上がる。口の端から、血が流れていた。
「……やるじゃないか」
「ごめんなさい、私……」
「謝るな」
カイゼルが壁から離れ、よろめきながら近づいてくる。
「これぐらいの力じゃなきゃ、意味がない」
「でも……」
「リーナ」
カイゼルが立ち止まる。朝日が彼の顔を照らし、その表情がはっきりと見える。
苦痛に歪んでいるが、その奥に、何か別の感情が宿っている。
「俺もお前と同じだ」
「え?」
「この血のせいで、ずっと力を抑えて生きてきた」
カイゼルがゆっくりと右肩の訓練着をはだける。そこには、複雑な紋様の刺青があった。いや、刺青ではない。魔力封印の紋章だ。
「母が施した封印だ。俺の精霊族の血を、抑え込むための」
「カイゼル……」
「でも、完全には抑えきれない。特に紅月が満ちる夜は、血が騒いで、自分が自分でなくなる」
カイゼルの告白に、胸が締め付けられる。
「だから、分かるんだ。力を抑えることの苦しさが。自分が怪物だと思う恐怖が」
「カイゼル……」
「でも、お前と出会って、思った」
カイゼルが一歩近づく。
「もしかしたら、この力も、意味があるんじゃないかって」
「意味?」
「ああ。お前の逆響の力があれば、俺の暴走を抑えられる。俺の精霊族の血があれば、お前の錨になれる」
カイゼルが手を伸ばす。
「運命の皮肉だな。たまゆらできない者同士が、互いを必要としている」
「それは……」
「でも、悪くない」
カイゼルが微笑む。初めて見る、心からの笑顔だった。
「少なくとも、一人じゃない」
その言葉に、涙が溢れる。
そう。私たちは一人じゃない。
互いの孤独を知り、互いの痛みを理解できる。だからこそ、支え合える。
「もう一度、やってみるか?」
「はい」
涙を拭い、深呼吸する。
今度は違う。
カイゼルを傷つけることを恐れるのではなく、守ることを考える。彼の痛みを取り除くのではなく、共に背負う。
手を伸ばす。カイゼルの魂脈に、そっと触れる。
不思議な感覚だった。
私の逆響の力が、カイゼルの魂脈を包み込む。でも、今度は破壊しようとするのではない。守ろうとしている。
カイゼルの魂脈も、私の力を拒絶しない。むしろ、受け入れ、調和しようとしている。
二つの異なる波動が、ゆっくりと同調していく。私の逆響とカイゼルの精霊族の血。本来なら相容れないはずの二つの力が、不思議な調和を生み出していた。
「これは……」
カイゼルが息を呑む。
「痛くない……むしろ、心地いい」
「私も……温かいです」
本当だった。カイゼルの魂脈から、温かさが伝わってくる。それは単なる熱ではない。もっと深い、魂の温度のようなもの。
私の力が、カイゼルの魂脈を優しく撫でる。壊すのではなく、癒すように。断ち切るのではなく、繋ぐように。
「成功だな」
カイゼルの声に、安堵が滲む。
「これが、錨の感覚か」
「不思議な感じです」
「ああ」
しばらくその感覚に浸る。互いの魂が触れ合い、調和する。これが私たちの新しい関係。契約を超えた、魂の繋がり。
ゆっくりと力を引く。カイゼルの魂脈から離れても、繋がりの感覚は残っている。細い糸で結ばれているような、不思議な感覚。
「これで、第一歩は踏み出せた」
「はい」
「だが、まだ始まりに過ぎない」
カイゼルが訓練場の中央に戻る。
「明日も同じ時間に」
「はい」
「それと、リーナ」
「何ですか?」
カイゼルが朝日を背に受けて眩しい。
「よくやった」
短い言葉だが、そこに込められた意味は大きい。
認められた。受け入れられた。
私の力が、初めて、誰かの役に立った。
「ありがとう、カイゼル」
「礼はいらない。これは契約だ。それと、準備はしてある。風呂に入ってこい」
ぶっきらぼうな言い方は相変わらず。けれど、カイゼルの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
訓練場を後にする。朝日が完全に昇り、新しい一日が始まる。
振り返ると、カイゼルはまだ訓練場に立っていた。瞑想をしているようだ。私との訓練で乱れた魂脈を、整えているのかもしれない。
――守りたい。
心の中で、強く思う。
この人を、守りたい。
私の力を受け入れてくれた人を。私の孤独を理解してくれた人を。
それは契約を超えた、もっと深い感情だった。
でも、まだそれを言葉にする勇気はない。
ただ、確かなことが一つある。
私たちは、もう一人じゃない。
互いが互いの錨となり、支え合っていく。
それが、私たちの選んだ道。
朝の光の中を、ゆっくりと歩いていく。
心の中に、小さな希望の灯が宿っていた。




