第7話 共鳴の理論
王立魔法学院の正門をくぐると、石造りの建物が整然と並ぶ光景が広がった。午後の陽光が、アーチ型の窓に反射して眩しい。
隣を歩くカイゼルは、慣れた足取りで中庭を横切っていく。今朝、約束通りアスティス家に迎えに来てくれた彼は、私が母の日記について話すと、ここへ連れてきてくれた。
「ミラベルには連絡してあるのか」
「はい。昨夜、伝声鳥を飛ばしました」
「なら、もう師匠に話は通っているだろう」
研究棟の三階、廊下の突き当たりにある扉の前で足を止める。扉には『オリバー・ブランシュ たまゆら理論研究室』という真鍮のプレートが掲げられている。
カイゼルがノックすると、中から甲高い声が響いた。
「開いてますよ! どうぞお入りください!」
ミラベルの声だ。扉を開けると、本の山に埋もれた部屋が現れた。床から天井まで、ありとあらゆる場所に書物が積み上げられている。その隙間を縫うように、複雑な魔法装置が配置されていた。
「リーナさん! 来てくれたのね!」
ミラベルが本の山の向こうから顔を出す。いつもの三つ編みに、度の強い丸眼鏡。その後ろから、痩せた中年男性が姿を現した。
「ふむ、君が噂の逆響者か」
オリバー・ブランシュ博士。茶色の髪は実験の影響か、あちこちに跳ねている。白衣にはインクと薬品のシミが無数についていた。
「初めまして。リーナ・アスティスです」
「挨拶は後だ。早速、君の能力を観測させてもらおう」
「え?」
「時間は有限だ。無駄にしている暇はない」
オリバーは早口でまくし立てると、部屋の奥へと歩いていく。
「すみません、師匠はいつもこうなんです」
「いえ、構いません」
ミラベルに案内され、研究室の奥へ進む。そこには、人が一人立てるほどの円形の台座があり、その周囲に無数の響晶石が配置されていた。
「これが『レゾナンス・メーター』です」
「レゾナンス・メーター?」
「魂の共鳴度を測定する装置ですわ。師匠が開発した、世界に一つだけの測定器です」
オリバーが装置の調整をしながら口を開く。
「通常、たまゆらは正の共鳴値を示す。数値が高いほど、強いたまゆらということになる」
「では、私のような逆響者は?」
「それを確かめるんだよ。さあ、台座の中央に立ってくれ」
言われるままに台座に上がる。カイゼルが心配そうに見守る中、オリバーが装置を起動させた。
響晶石が一斉に光り始める。しかし、その光は通常の青白い輝きではなく、薄紫色の不安定な明滅を繰り返していた。
「おお……これは……」
オリバーの目が輝く。測定器の針が、通常とは逆方向に振れている。
「マイナス……いや、これは単純な負の値じゃない。位相が完全に反転している!」
「どういうことですか?」
「君の魂は、他者のたまゆらを『打ち消す』のではなく『逆位相で共鳴』させているんだ!」
オリバーの興奮は最高潮に達していた。
「これは革命的な発見だ! 今までたまゆらは一方向にしか作用しないと考えられていたが、君の存在がその理論を覆す!」
*
測定を終え、台座から降りると、オリバーは興奮冷めやらぬ様子で机に向かった。羽根ペンを走らせ、猛烈な勢いで計算式を書き連ねていく。
「ミラベル、資料室から『古代魔法理論大全』の第七巻を持ってきなさい」
「はい、師匠!」
ミラベルが部屋を出ていく間、私たちは所在なげに立っていた。オリバーは完全に自分の世界に入り込んでいる。
「あの……」
「ああ、すまない。つい夢中になってしまって」
オリバーが顔を上げる。その目には、研究者特有の好奇心が宿っていた。
「さっき言ってた君の母親の日記を見せてもらえるかな」
「はい」
鞄から大切に取り出した日記を手渡す。オリバーは丁寧にページをめくり、最後の魔法陣のページで手を止めた。
「これは……まさか……」
オリバーの顔色が変わる。食い入るように魔法陣を見つめ、古代文字を指でなぞっていく。
「うーむ『アニマ・コンバージョン』……魂の変換術式」
「魂の変換?」
「失われた古代魔法の一つだ。理論上は存在すると言われていて、不完全なものは残っている。だがしかし、ここまで精密な術式を見るのは初めてだ」
ミラベルが分厚い本を抱えて戻ってくる。オリバーはすぐさまページを繰り、何かを探し始めた。
「あった! ここだ!」
開かれたページには、母の日記にあるものと似た魔法陣が描かれていた。ただし、こちらはより単純で、不完全に見える。
「君の母親は、この不完全な理論を独自に発展させたんだ。天才だよ……いや、日記の内容からすると、努力の賜物、だ。リーナ、君を救おうとする母の……いや、いまは感傷に浸る場合ではない」
「……これで何ができるんですか?」
「理論的には、魂脈の流れを『変換』できる。つまり、破壊ではなく、再構築が可能になる」
カイゼルが身を乗り出す。
「再構築とは?」
「簡単に言えば、既存のたまゆらを断ち切るのではなく、新たな形に繋ぎ直すということだ」
母の日記にあった言葉が蘇る。『繋ぎ変える力』。それは比喩ではなく、文字通りの意味だった。
「ただし……」
オリバーの表情が曇る。
「この術式を起動するには、莫大な魔力と、極めて精密な制御が必要だ。そして何より……」
「何より?」
「術者の魂を安定させる『錨』が不可欠だ」
「錨?」
「逆響者の魂は、常に不安定な状態にある。他者の魂脈に干渉する際、自分自身の魂も揺らいでしまう。それを防ぐためには、術者の魂をしっかりと繋ぎ止める存在が必要なんだ」
オリバーは立ち上がって窓際へ歩いていく。
「小生も、かつては完璧なたまゆらを持っていた。妻のエレナと……」
その声に、深い悲しみが滲む。
「五年前、実験の事故で彼女を失った。それ以来、小生は半魂者だ。魂の半分を失った、不完全な存在」
「オリバー先生……」
「だからこそ、君の力に興味がある。もし君の力で魂脈を『繋ぎ変える』ことができれば、半魂者たちにも新たな希望が生まれるかもしれない」
重い沈黙が研究室を包む。オリバーの告白に、誰も言葉を発することができなかった。
やがて、オリバーが振り返る。その顔には、もう悲しみの色はない。研究者の顔に戻っていた。
「話を戻そう。君が逆響の力を制御するためには、まず『錨』となる存在を見つけなければならない」
「どんな人が錨になれるんですか?」
「理論上は、たまゆらを持たない者が最適だ。たまゆらを持つ者だと、君の逆響と干渉し合って、両方が不安定になる」
たまゆらを持たない者。つまり――。
「俺がやる」
カイゼルが口を開いた。
「カイゼル様?」
「俺は精霊族の血を引いている。人間とはたまゆらの周期が違うから、実質的に無響者と同じだ」
「しかし、危険が……」
オリバーが懸念を示すが、カイゼルは首を横に振る。
「リーナの力を制御できなければ、どのみち先はない。それに……」
カイゼルは私を見る。その瞳に、昨日とは違う何かが宿っていた。
「これも契約の一部だ」
「カイゼル……」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「お前も俺の『錨』になれ」
「え?」
予想外の言葉に、息を呑む。
「俺の精霊族の血も、時に暴走する。特に紅月が満ちる夜は、制御が難しくなる」
「でも、私は逆響者で……」
「だからいい。お前の力なら俺の暴走を抑えられる」
互いが互いの錨になる。それは理論的にも理にかなっている。でも、それ以上の意味があるような気がした。
「面白い」
オリバーが呟く。
「相互依存的な安定化。これなら、両者の力を最大限に引き出せるかもしれない」
「やってみる価値はあるということですね」
「ああ。ただし、訓練が必要だ。お互いの魂に触れ合うということは、想像以上に危険で繊細な作業だ」
ミラベルが心配そうに口を開く。
「失敗したら、どうなるんですか?」
「最悪の場合、両者の魂が完全に絡まり合って、分離不可能になる」
「それは……」
「だが、成功すれば、新たな可能性が開ける」
オリバーが私たちを交互に見る。
「君たちは歴史を変えるかもしれない。たまゆらという絶対的な理に、別の選択肢を提示するという」
大きすぎる話に、頭がくらくらする。私はただ、自分の力を制御したいだけなのに。
「考える時間をくれ。明日、返事をする」
私の様子を見ていたカイゼルが言った。
「構わない。これは軽い決断じゃない」
オリバーは母の日記を返してくれた。
「これは大切に持っていなさい。君の母親は、偉大な研究者だった」
「ありがとうございます」
研究室を出る時、オリバーが最後に言った。
「リーナ君。君の力は呪いじゃない。それだけは覚えておいてほしい」
*
学院の廊下は、夕方の光で橙色に染まっていた。生徒たちの姿もまばらで、足音だけが静かに響く。
カイゼルと並んで歩きながら、先ほどの話を反芻する。錨。互いが互いを支え合う関係。それは契約を超えた、もっと深い繋がりのような気がする。
「怖いか」
カイゼルが唐突に聞いた。
「……正直、怖いです」
「そうか」
「カイゼル様は?」
「俺も怖い」
意外な答えに、足を止める。カイゼルも立ち止まり、振り返った。
「だが、このまま何もしないよりはマシだ」
「でも、失敗したら……」
「失敗を恐れていたら、何も変えられない」
カイゼルは窓の外を見る。双月が昇り始めていた。
「俺たちは、似ている」
「え?」
「どちらも、本来の姿を隠して生きている。どちらも、孤独を知っている」
カイゼルの横顔に、夕陽が差す。その表情は、いつもの冷たい仮面ではなく、一人の青年のものだった。
「だから、賭けてみる価値はある」
「カイゼル様……」
「急になんだ。『様』はやめろ」
「え?」
「錨になるなら、対等でなければ意味がない」
カイゼルは私に向き直る。
「カイゼルでいい」
「でも……」
「これは命令だ」
少し笑みを含んだ口調に、緊張が和らぐ。
「わかりました……カイゼル」
「それでいい」
廊下の端まで歩くと、カイゼルは立ち止まった。
「リーナ」
「はい?」
「これは契約だ。お前が俺の剣になるなら、俺はお前の盾になる」
カイゼルが手を差し出す。夕陽に照らされたその手は、確かで温かそうだった。
「互いに互いを守る。それが、俺たちの新しい契約だ」
私は、その手を見つめる。
母の日記には『あなたの力を理解し、受け入れてくれる人も、きっと現れる』と書かれていた。
もしかしたら、その人は今、目の前にいるのかもしれない。
でも、まだ確信は持てない。これは大きすぎる決断だ。
「明日まで、待ってください」
「ああ」
カイゼルは手を下ろしたが、その表情に失望の色はない。むしろ、私が慎重に考えることを評価しているようだった。
「明日の朝、訓練場で待っている」
「はい」
カイゼルは踵を返し、廊下を歩いていく。その背中を見送りながら、私は母の日記を胸に抱きしめた。
お母様。私は今、大きな岐路に立っています。
この選択が正しいのか、間違っているのか、まだわかりません。
でも、一つだけ確かなことがあります。
私は、前に進みたい。
この呪われた力を、希望に変えたい。
双月の光が、廊下に長い影を落としている。
明日、私は答えを出す。
カイゼルの提案を受けるか、断るか。
でも、心の奥では、もう答えは決まっているような気がした。




