第6話 母の遺産
馬車の車輪が石畳を軋ませる音だけが、重苦しい沈黙を破っていた。王宮からアスティス家への道のりは、普段なら半時ほどだが、今日はやけに長く感じる。
向かいの席に座るカイゼルは、窓の外を見つめたまま一言も発しない。王宮での出来事――ユリウス王子とセレスティア王女の完璧なたまゆら、そして私たちの「偽りの契約」。全てがまだ生々しく、言葉にするには重すぎた。
馬車が緩やかに停車する。アスティス家の門が見えた。
「ここで降ろしてもらおう」
「え? 中に入らないの?」
「公爵家の馬車が長居すれば、余計な憶測を呼ぶ」
カイゼルは御者に指示を出し、馬車を止める。馬車は屋敷の敷地に入らず、私たち二人は門の前で降りた。
門をくぐり、玄関への小道を歩く。見慣れた家なのに、どこか他人の家のように感じる。それは私が変わってしまったからか。
玄関の扉を開けると、酒の匂いが鼻を突いた。
出迎えたメイドが慌てて奥へ駆けてゆく。
「リーナか」
父の声が奥から聞こえた。いつもより掠れていた。
応接間を通り過ぎ、書斎へ向かう。カイゼルは玄関で待つと言って、ついてこなかった。これは私と父の問題だ、と察してくれたのだろう。
書斎の扉を開けると、父は椅子に深く腰を沈め、酒瓶を握っていた。普段は几帳面に整えられている書類が、机の上に乱雑に散らばっている。
「……どうだ」
「……とくには」
「そうか」
父は酒瓶を傾け、グラスに注ぐ。その手が微かに震えている。
「ヴァルトハイム公爵との話は、うまくまとまったようだな」
「はい」
「それで、いつ向こうへ移る」
「明日にでも」
父の手が止まった。グラスを置き、初めて私を見上げる。その目は充血し、頬は赤く染まっている。
「そんなに急いで、この家から出たいか」
「違います」
「違う? お前は私を恨んでいるだろう。無響者の娘を、無理やり政略結婚させようとした、この情けない父親を」
「父上……」
「お前さえ……お前さえ普通であったなら!」
父は立ち上がり、よろめきながら私に近づく。酒の匂いが一層強くなる。
「お前の母親も……」
父の言葉が途切れる。何かを飲み込むように、唇を噛んだ。
「母も、何ですか」
「……何でもない」
「父上!」
私は父の腕を掴んだ。父は驚いたように目を見開く。
「母のことを、教えてください。私は母について、何も知らないんです」
「ソフィアは……」
父の目から、涙が一筋流れた。
「お前と同じだった」
「え?」
「いや……違う。忘れろ」
父は私の手を振り払い、よろめきながら書斎を出て行った。
一人残された私は、父の言葉の意味を考える。母も私と同じ? 無響者だったということ?
私は書斎を出て、自室へ向かう。荷物をまとめなければならない。明日からは、ヴァルトハイム公爵邸での新しい生活が始まる。偽りの婚約者として。
*
自室で必要最小限の衣類を鞄に詰めていると、ふと母の部屋のことを思い出した。
母が亡くなってから十八年。その部屋は物置として使われているが、まだ母の持ち物が残っているはずだ。何か形見になるものを持っていきたい。
廊下の突き当たり、普段は開けることのない扉の前に立つ。埃を被った取っ手を握り、ゆっくりと押し開ける。
舞い上がる埃に咳き込みながら、部屋に足を踏み入れた。窓から差し込む午後の光が、空中を漂う埃を金色に染めていた。
部屋の隅に、古い衣装箱が積み重なっていた。その中には、色褪せたドレスや、小さな装飾品が収められていた。母が使っていたものだろうか。
一つ一つ手に取り、確かめていく。真珠のブローチ、銀の髪飾り、革表紙の小さな手帳。どれも大切そうに仕舞われている。けれど、特別な思い入れを感じるものはない。
箱を動かしていると、床板の一部が浮いていることに気づいた。試しに持ち上げてみると、簡単に外れる。その下には小さな隠し箱があった。
箱は埃一つ被っていない。誰かが定期的に手入れをしていたのか。それとも魔法で保護されているのか。
蓋を開けると、中には古びた一冊の日記が入っていた。表紙には、私がいつも身につけているペンダントと同じ、紫水晶が埋め込まれている。
日記を手に取る。不思議と温かい。まるで――いや、生きているかのようだ。
最初のページを開く。流麗な文字が並んでいる。母の字だ。
『愛しい我が子へ
もしあなたがこの日記を見つけたなら、それはきっと、あなたが自分の力に苦しみ、答えを求めている時でしょう。
私も、あなたと同じでした。他者の魂脈を断ち切る力――逆響者として生まれ、その呪いに苦しみました。
でも、あなたに伝えたいことがあります。この力は、ただの呪いではないのです』
手が震える。母も逆響者だった。私と同じ力を持っていた。
ページをめくる。そこには母の半生が綴られていた。
幼い頃から、周りの人々のたまゆらを無意識に妨害してしまったこと。友人を作ることができず、孤独に過ごした少女時代。そして、父――ヴィクトール・アスティスとの出会い。
『彼は私が逆響者だと知っても、変わらずに愛してくれました。「君の力も含めて、君なのだから」と。その言葉に、どれだけ救われたことか』
涙が頬を伝う。父は母の秘密を知っていた。それでも愛し、母と結婚した。
『でも、私は気づいてしまったのです。私といることで、ヴィクトールの魂が少しずつ削られていくことに。逆響の力は、愛する人さえも傷つけてしまう』
ページが涙で滲む。それでも読み続ける。
『あなたを身籠った時、私は決意しました。この子に同じ苦しみを味わわせないと。命と引き換えにしてでも、この呪いの連鎖を断ち切ると』
日記を読んでいて時間を忘れていた。窓の外はすでに夕闇が迫っている。
母は私を産む時、自らの命を使って封印を施したという。私の中の逆響の力を、可能な限り抑え込むために。でも、完全には封じきれなかった。
『ごめんなさい、リーナ。私の力不足で、あなたから全ての苦しみを取り除くことはできませんでした』
違う。謝らないで、お母様。あなたは私のために、命を懸けてくれた。それだけで十分すぎるほどなのに。
日記の後半には、逆響の力についての研究記録が記されていた。母は死の間際まで、この力の正体を解明しようとしていたらしい。
『逆響とは、たまゆらという仕組みの不具合ではない。むしろ、調整機能なのかもしれない。増えすぎた魂脈を整理し、バランスを保つための』
興味深い仮説だ。もしそれが本当なら、私たち逆響者は呪われた存在ではなく、必要とされて生まれた存在ということになる。
『でも、それは慰めにはならないでしょう。未来のあなたは、確実に苦しんでいるのだから』
母の手記は、今の私の心を見透かしていた。
『だから、せめてこれだけは覚えていて。あなたは一人じゃない。同じ苦しみを知る人が、必ずどこかにいる。そして、あなたの力を理解し、受け入れてくれる人も、きっと現れる』
カイゼルの顔が脳裏に浮かんだ。彼は精霊族の血を引くがゆえに、たまゆらできない。私とは違う理由だが、同じ孤独を知っている。
日記の残りページは少ない。母の命が尽きかけていた頃の記録だ。文字も乱れ、判読が難しい箇所もある。
『リーナ、最後に一つだけ。あなたの力を恐れないで。それは破壊するだけの力じゃない。もしかしたら――』
そこで文章は途切れていた。母が伝えたかった最後の言葉。それは永遠に失われてしまったのか。
いや、違う。最後のページに、震える手で描かれた図がある。複雑な魔法陣と、その周りに古代文字でメモが記されていた。
私は立ち上がって窓際へ移動した。夕焼けの光で、文字を読み取ろうとする。
古代文字は完全には解読できない。けれど、断片的に理解できる単語がある。「繋ぐ」「変える」「新たな道」。
日記の最後の最後に、かろうじて読み取れる一文があった。
『この力は、ただ壊すだけではないのかもしれない。もしかしたら……繋ぎ変える力?』
繋ぎ変える力。
その言葉が、頭の中でぐるぐると回る。母は死の間際に、逆響の力の別の可能性を見出していた。
魔法陣を食い入るように見つめる。円を基調とした幾何学模様に、いくつもの古代文字が配置されている。これは一体何を意味するのか。
母の日記を胸に抱きしめ、床に座り込む。涙が止まらない。でも、それは悲しみだけの涙じゃない。
私は一人じゃなかった。母も同じ苦しみを抱えていた。そして、最後まで諦めずに、この力の可能性を探っていた。
――お母様。
心の中で呼びかける。
――あたしも諦めない。この力の本当の意味を、必ず見つけてみせる。
日記を大切に鞄にしまう。慎重に扱った。これは母が私に遺してくれた、最後の希望なのだから。
部屋を出ようとして、ふと振り返る。埃っぽい部屋が、夕陽に照らされて金色に輝いている。もう二度と、この部屋に来ることはないかもしれない。
「ありがとう、お母様」
小さく呟いて、扉を閉めた。
階段を降りると、玄関でカイゼルが待っていた。長い間待たせてしまった。彼は私の顔を見て、何かを察したようだ。
「大丈夫か」
「……はい」
「泣いたのか」
「……少し」
カイゼルは何も言わず、ハンカチを差し出した。
「今日はここで休め。明日の朝、迎えに来る」
「はい」
「それまでに、心の整理をつけておけ」
「……はい」
カイゼルは踵を返し、玄関を出て行く。その背中を見送りながら、私は母の言葉を思い出していた。
――あなたの力を理解し、受け入れてくれる人も、きっと現れる。
もしかしたら、もう現れているのかもしれない。
自室へ戻って窓を開ける。夜風が吹き込み、カーテンを揺らす。その向こうに、双月が昇り始めていた。蒼月エルーナと紅月クリムゾ。二つの月が、これからの私たちの道を照らすように、静かに輝いている。
明日から始まる新しい生活に、不安と期待が入り混じる。でも、一つだけ確かなことがある。私はもう、一人じゃない。
手に持つ母の日記が温かく感じた。




