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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第2章 逆響者の覚醒

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第5話 契約の代償

 王宮の謁見の間は、朝の光で満たされていた。ステンドグラスから差し込む七色の光が、大理石の床に複雑な模様を描いている。私は深紫のドレスに身を包み、カイゼルの隣に立っていた。


 円卓を囲んで、エステリア王国の重要人物たちが着席している。レオニード国王が玉座から見下ろし、その右にマグナス、左に父ヴィクトールが座っていた。


 父と目が合った。昨日の出来事から一夜明けて、彼の顔には深い疲労の色が浮かんでいる。でも、その瞳に宿るのは、諦めと僅かな安堵だった。

 国王の重々しい声が響く。


「では、始めよう。ヴァルトハイム公爵家より、アスティス家との婚約の申し出があった。両家の意向を聞こう」


 マグナスが立ち上がった。


「陛下、我がヴァルトハイム家は、リーナ・アスティス嬢を正式に迎え入れる用意があります。彼女の特殊な能力も含め、すべてを受け入れる覚悟です」


 父が震える声で応じた。


「アスティス家も……娘の幸せを第一に考え、この婚約に同意いたします」


 国王が頷きかけた、その時だった。


「お待ちください、父上」


 扉が開き、ユリウス王子が入ってきた。柔らかな金茶色の髪、優しい青い瞳。王国の第一王子は、悲しげな表情を浮かべていた。

 その後ろから、セレスティア王女が優雅に歩いてくる。エメラルドグリーンの瞳が、勝ち誇った光を宿していた。


「何用だ、ユリウス」


 国王の声に不快感が滲む。


「父上、我々も重要な発表があります」


 ユリウスの声は静かだった。でも、その奥に何か諦めのようなものを感じる。

 セレスティアは大きく息を吸い込んだ。


「陛下、そして皆様にお知らせいたします。わたくしとユリウス様は、たまゆらいたしました」


 場が凍りついた。

 たまゆら――それも王子と王女の間で。これは王国にとって、最高の慶事のはずだった。

 でも、ユリウスの表情は晴れない。彼は俯き加減で、セレスティアの隣に立っている。


「証明してみせましょう。わたくしは響鳴者(ハーモニクス)ですから」


 セレスティアがユリウスの手を取った。その瞬間、二人の間から眩い光が溢れ出した。


 金色と緑色の光が混じり合い、部屋全体を包み込む。私の左手首の痣が、その光に反応して疼き始めた。黒い手袋の下で、熱い脈動が広がっていく。

 これが、本物のたまゆら。

 完璧な調和、完全な一致。二つの魂が一つになる、究極の姿。

 私とカイゼルには、決して得られないもの。

 国王が立ち上がった。


「素晴らしい……我が王国に、新たなたまゆらカップルが誕生した。しかも、王族同士の完璧なたまゆらだ」


 セレスティアが私へ視線を移す。その瞳に宿るのは明らかな優越感。


「ご覧になりましたか、リーナ? これが本物のたまゆらですわ。無響者(アノモス)のあなたには、永遠に理解できない世界」


 言葉が胸を抉る。でも、私は視線を逸らさなかった。

 すると、ユリウスが顔を上げた。その青い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。

 悲しみ、後悔、そして――謝罪?

 彼の唇が、声にならない言葉を紡ぐ。


 ――ごめん。


 私には、そう見えた。


「さて」


 カイゼルが口を開いた。その声は、氷のように冷たい。


「王子と王女のたまゆら、誠におめでとうございます。では、我々の婚約の件はどうなるのですか?」


 国王が咳払いをした。


「もちろん、ヴァルトハイム家とアスティス家の婚約も認めよう。王国にとって、有益な結びつきだ」


 セレスティアの顔が歪む。


「父上! なぜ無響者(アノモス)同士の婚約を――」

「セレスティア」


 国王の声が、娘を制した。


「お前はユリウスとたまゆらした。それで十分ではないか」


 セレスティアが唇を噛む。でも、国王陛下の声に、これ以上の反論はできなかった。


 マグナスが微笑む。


「では、両家の婚約が成立ということで、よろしいですな」

「うむ」


 国王が頷く。


「両者とも、王国の未来のため、その絆を大切にせよ」



 会談が終わり、人々が退室していく中、私とカイゼルだけが部屋に残った。

 窓の外を見ると、王都の街並みが広がっている。人々が行き交い、平和な日常が流れている。でも、私の日常は、もう戻らない。


「後悔しているか?」


 カイゼルの声が、静寂を破った。


「何を?」

「この契約を受けたことを」


 カイゼルは窓際に立ち、逆光で表情が見えない。


「後悔なんてしてない。むしろ、これでよかったと思ってる」


 本心だった。


「なぜだ?」

「だって、私には選択肢なんてなかったもの。でも、あなたは私に居場所をくれた」


 金色の瞳が、私を射抜く。


「それは、お前が俺の『剣』になるという条件付きだ」

「分かってる」


 私は左手首を押さえた。痣がすこし熱を持っている。


「この力を、あなたのために使う。それが、契約の代償でしょう?」

「そうだ」


 カイゼルが近づいてくる。


「お前は俺の敵を排除し、俺の目的を達成する道具となる」

「道具……」


 その言葉に、不思議と反発は感じなかった。


「いいわ。道具でも、剣でも、何でも。でも、一つだけ約束して」

「何だ?」

「私を、最後まで捨てないで」


 カイゼルの瞳が、僅かに揺れた。


 そして、彼は薄く笑った。


「約束しよう。お前が俺の剣である限り、俺はお前を手放さない」


 それは、冷たい契約の言葉。でも、私には十分だった。

 窓の外で、教会の鐘が正午を告げている。新しい人生の始まりを告げる、鐘の音だった。



 王宮を出ると、馬車が待っていた。カイゼルが先に乗り込み、私も続く。

 動き出した馬車の中で、私たちは無言だった。


 王宮が遠ざかっていく。あの場所で、ユリウスとセレスティアの完璧なたまゆらを見せつけられた。あれこそが、この世界の理想。私たちには、永遠に手の届かないもの。


「気にするな」


 カイゼルが唐突に言った。


「何を?」

「あの茶番のことだ」


 彼の声に、僅かな苛立ちが混じる。


「たまゆらなど、ただの鎖だ。互いを縛り付け、自由を奪う呪縛に過ぎない」

「でも、あの光は――」


 カイゼルの眉間に皺がよる。


「光? それがどうした。光があれば幸せか? 魂が響けば、すべてが上手くいくのか?」


 私は答えられなかった。


「いいか、リーナ。俺たちはたまゆらなんかに頼らない。自分の意志で、自分の力で、道を切り開く」


 彼の言葉に、力がこもる。


「それが、俺たちの生き方だ」


 馬車が公爵邸の門をくぐる。

 私は窓の外を見上げた。昼の空に、蒼月が薄く浮かんでいる。夜になれば、紅月も現れるだろう。

 二つの月は、決して重なることはない。

 でも、同じ空を照らしている。

 私とカイゼルも、そんな関係なのかもしれない。


 二人の魂は響かない。でも、同じ目的に向かって歩いていく。

 それが、私たちの選んだ道。


 偽りの契約。この契約の先に、何が待っているのだろう。

 答えは、まだ見えない。


 ただ一つ確かなのは、もう後戻りはできないということ。

 私は、カイゼル・ヴァルトハイムの剣となった。

 その代償が何なのか、今はまだ分からない。


 でも、いつかきっと、分かる時が来る。


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