第5話 契約の代償
王宮の謁見の間は、朝の光で満たされていた。ステンドグラスから差し込む七色の光が、大理石の床に複雑な模様を描いている。私は深紫のドレスに身を包み、カイゼルの隣に立っていた。
円卓を囲んで、エステリア王国の重要人物たちが着席している。レオニード国王が玉座から見下ろし、その右にマグナス、左に父ヴィクトールが座っていた。
父と目が合った。昨日の出来事から一夜明けて、彼の顔には深い疲労の色が浮かんでいる。でも、その瞳に宿るのは、諦めと僅かな安堵だった。
国王の重々しい声が響く。
「では、始めよう。ヴァルトハイム公爵家より、アスティス家との婚約の申し出があった。両家の意向を聞こう」
マグナスが立ち上がった。
「陛下、我がヴァルトハイム家は、リーナ・アスティス嬢を正式に迎え入れる用意があります。彼女の特殊な能力も含め、すべてを受け入れる覚悟です」
父が震える声で応じた。
「アスティス家も……娘の幸せを第一に考え、この婚約に同意いたします」
国王が頷きかけた、その時だった。
「お待ちください、父上」
扉が開き、ユリウス王子が入ってきた。柔らかな金茶色の髪、優しい青い瞳。王国の第一王子は、悲しげな表情を浮かべていた。
その後ろから、セレスティア王女が優雅に歩いてくる。エメラルドグリーンの瞳が、勝ち誇った光を宿していた。
「何用だ、ユリウス」
国王の声に不快感が滲む。
「父上、我々も重要な発表があります」
ユリウスの声は静かだった。でも、その奥に何か諦めのようなものを感じる。
セレスティアは大きく息を吸い込んだ。
「陛下、そして皆様にお知らせいたします。わたくしとユリウス様は、たまゆらいたしました」
場が凍りついた。
たまゆら――それも王子と王女の間で。これは王国にとって、最高の慶事のはずだった。
でも、ユリウスの表情は晴れない。彼は俯き加減で、セレスティアの隣に立っている。
「証明してみせましょう。わたくしは響鳴者ですから」
セレスティアがユリウスの手を取った。その瞬間、二人の間から眩い光が溢れ出した。
金色と緑色の光が混じり合い、部屋全体を包み込む。私の左手首の痣が、その光に反応して疼き始めた。黒い手袋の下で、熱い脈動が広がっていく。
これが、本物のたまゆら。
完璧な調和、完全な一致。二つの魂が一つになる、究極の姿。
私とカイゼルには、決して得られないもの。
国王が立ち上がった。
「素晴らしい……我が王国に、新たなたまゆらカップルが誕生した。しかも、王族同士の完璧なたまゆらだ」
セレスティアが私へ視線を移す。その瞳に宿るのは明らかな優越感。
「ご覧になりましたか、リーナ? これが本物のたまゆらですわ。無響者のあなたには、永遠に理解できない世界」
言葉が胸を抉る。でも、私は視線を逸らさなかった。
すると、ユリウスが顔を上げた。その青い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
悲しみ、後悔、そして――謝罪?
彼の唇が、声にならない言葉を紡ぐ。
――ごめん。
私には、そう見えた。
「さて」
カイゼルが口を開いた。その声は、氷のように冷たい。
「王子と王女のたまゆら、誠におめでとうございます。では、我々の婚約の件はどうなるのですか?」
国王が咳払いをした。
「もちろん、ヴァルトハイム家とアスティス家の婚約も認めよう。王国にとって、有益な結びつきだ」
セレスティアの顔が歪む。
「父上! なぜ無響者同士の婚約を――」
「セレスティア」
国王の声が、娘を制した。
「お前はユリウスとたまゆらした。それで十分ではないか」
セレスティアが唇を噛む。でも、国王陛下の声に、これ以上の反論はできなかった。
マグナスが微笑む。
「では、両家の婚約が成立ということで、よろしいですな」
「うむ」
国王が頷く。
「両者とも、王国の未来のため、その絆を大切にせよ」
*
会談が終わり、人々が退室していく中、私とカイゼルだけが部屋に残った。
窓の外を見ると、王都の街並みが広がっている。人々が行き交い、平和な日常が流れている。でも、私の日常は、もう戻らない。
「後悔しているか?」
カイゼルの声が、静寂を破った。
「何を?」
「この契約を受けたことを」
カイゼルは窓際に立ち、逆光で表情が見えない。
「後悔なんてしてない。むしろ、これでよかったと思ってる」
本心だった。
「なぜだ?」
「だって、私には選択肢なんてなかったもの。でも、あなたは私に居場所をくれた」
金色の瞳が、私を射抜く。
「それは、お前が俺の『剣』になるという条件付きだ」
「分かってる」
私は左手首を押さえた。痣がすこし熱を持っている。
「この力を、あなたのために使う。それが、契約の代償でしょう?」
「そうだ」
カイゼルが近づいてくる。
「お前は俺の敵を排除し、俺の目的を達成する道具となる」
「道具……」
その言葉に、不思議と反発は感じなかった。
「いいわ。道具でも、剣でも、何でも。でも、一つだけ約束して」
「何だ?」
「私を、最後まで捨てないで」
カイゼルの瞳が、僅かに揺れた。
そして、彼は薄く笑った。
「約束しよう。お前が俺の剣である限り、俺はお前を手放さない」
それは、冷たい契約の言葉。でも、私には十分だった。
窓の外で、教会の鐘が正午を告げている。新しい人生の始まりを告げる、鐘の音だった。
*
王宮を出ると、馬車が待っていた。カイゼルが先に乗り込み、私も続く。
動き出した馬車の中で、私たちは無言だった。
王宮が遠ざかっていく。あの場所で、ユリウスとセレスティアの完璧なたまゆらを見せつけられた。あれこそが、この世界の理想。私たちには、永遠に手の届かないもの。
「気にするな」
カイゼルが唐突に言った。
「何を?」
「あの茶番のことだ」
彼の声に、僅かな苛立ちが混じる。
「たまゆらなど、ただの鎖だ。互いを縛り付け、自由を奪う呪縛に過ぎない」
「でも、あの光は――」
カイゼルの眉間に皺がよる。
「光? それがどうした。光があれば幸せか? 魂が響けば、すべてが上手くいくのか?」
私は答えられなかった。
「いいか、リーナ。俺たちはたまゆらなんかに頼らない。自分の意志で、自分の力で、道を切り開く」
彼の言葉に、力がこもる。
「それが、俺たちの生き方だ」
馬車が公爵邸の門をくぐる。
私は窓の外を見上げた。昼の空に、蒼月が薄く浮かんでいる。夜になれば、紅月も現れるだろう。
二つの月は、決して重なることはない。
でも、同じ空を照らしている。
私とカイゼルも、そんな関係なのかもしれない。
二人の魂は響かない。でも、同じ目的に向かって歩いていく。
それが、私たちの選んだ道。
偽りの契約。この契約の先に、何が待っているのだろう。
答えは、まだ見えない。
ただ一つ確かなのは、もう後戻りはできないということ。
私は、カイゼル・ヴァルトハイムの剣となった。
その代償が何なのか、今はまだ分からない。
でも、いつかきっと、分かる時が来る。




