第44話 千年の解放
ユリウスの亡骸を抱きしめたまま、私は涙を流し続けていた。
温もりが失われていく。手を離せない。離したら、本当にユリウスがいなくなってしまう気がして。
まだ、終わっていない。
ゼファーが祭壇の前に立ったまま、呆然としている。千年の孤独を生きた彼にとって、他者のために命を捨てる行為は理解できないのだろう。
私はゆっくりと立ち上がった。涙を拭い、ゼファーと向き合う。
「ユリウスの想いを、無駄にはしない」
声は思ったよりしっかりしていた。悲しみは消えない。でも今やるべきことがある。
私の瞳に、もはや恐怖はなかった。代わりに宿っているのは、慈愛と覚悟の光。
ゼファーを滅ぼすのではない。救う。
私は一歩ずつ、ゼファーに近づいていく。ユリウスの浄化の光を受けて、彼の憎悪は和らいでいる。でも千年の執着は、まだ彼の魂を縛り続けていた。
「なぜだ……なぜ、あの若造は命を捨てた?」
「それが愛だからです」
「愛……? 我の愛とは、違うというのか」
「違います。あなたの愛は、執着に変わってしまった」
私はゼファーの前に立った。紅い瞳を真っ直ぐ見つめる。
「でも、分かります。愛する人を失う痛み。世界に裏切られた怒り」
「理解……? たかが十八年しか生きていない小娘が、我の千年を理解できるというのか」
「できます。なぜなら、私はあなたの魂に触れたから」
私は『逆響』の力を再び解放した。今度はペンダントの制限はない。完全に覚醒した魂繋の力が、全身から溢れ出す。
黒いオーラが優しく広がっていく。破壊の力ではなく、繋ぐ力。断ち切られた絆を、再び結び合わせる力。
「ゼファー、あなたを救わせてください」
「救う……? 我を?」
「はい。ルナさんと、もう一度繋がって」
ゼファーの瞳が大きく見開かれた。
私は片方の手をゼファーに、もう片方を永遠花に向けた。千年前の悲恋の象徴である花には、ルナの魂の欠片が宿っているはず。
魂繋の力が、二つの魂に触れた。ゼファーの魂は千年の時を経て歪み、憎しみで真っ黒に染まっていた。でもその奥底に、純粋な愛が残っている。
永遠花の中のルナの魂は、小さく儚いものだった。記憶の残滓。でも確かにルナの意識があった。
私は二つの魂を優しく繋ぎ合わせた。千年の時を超えて、恋人たちを再会させる。
光が私たちを包み込んだ。柔らかな紫色の光。魂と魂が触れ合う時に生まれる神秘的な輝き。
目の前に精神世界が広がった。
*
ゼファーは千年前の青年の姿に戻っていた。銀白色の髪は輝き、紅い瞳には優しさが宿っている。
その前に、一人の女性が現れた。ルナ。褐色の肌に黒い髪。温かな茶色の瞳。
「ゼファー……」
「ルナ……ルナ!」
ゼファーが駆け寄る。でも手を伸ばしても、彼女には触れられない。
「ありがとう、待っていてくれて。でも、もういいの」
「何を言っている! 我は、貴女を蘇らせるために……」
「そんなこと、望んでいない」
ルナは悲しそうに微笑んだ。
「あなたの幸せが、私の幸せだから。千年も苦しむなんて、私は望んでいなかった」
「でも、我は……」
「もう十分よ。だから、自由になって」
ルナの姿が薄れていく。
「私はいつもあなたの心の中にいる。前を向いて、新しい時代を生きて」
「ルナ……行かないでくれ……」
「愛しています。永遠に」
ルナは最後に微笑んで、光の粒子となって消えていった。
ゼファーはその光を掴もうとした。でも光は指の間からすり抜けていく。
そして彼は理解したのだろう。千年間追い求めていたものは幻だったことを。ルナは解放を願っていたことを。
「ああ……ああ……」
ゼファーが膝をついた。千年間堪えていた涙が溢れ出す。それは悲しみの涙ではなく、解放の涙だった。
*
現実世界に意識が戻った時、ゼファーは変わっていた。
髪は相変わらず銀白色だったが、その輝きが違う。紅い瞳からは狂気が消え、深い安らぎが宿っていた。
「ありがとう……新しい時代の調停者よ……」
ゼファーが私に向かって微笑んだ。あれはきっと、千年ぶりの心からの笑顔。
「我は、長く生きすぎた。もう、十分だ」
ゼファーの体が光り始めた。永遠花から吸収していた魔力が解放され、彼の存在そのものが薄れていく。
「待って!」
「いや、これでいい。これが、我の選んだ道だ」
ゼファーは満足そうに頷いた。
「リーナ・アスティス。貴女は、我が千年かけても辿り着けなかった答えを示してくれた」
「答え……?」
「愛とは執着することではない。手放すことでもある。受け入れることで成就するのだ」
ゼファーの体がどんどん透けていく。
「貴女なら、きっとできる。たまゆらに縛られない、新しい愛の形を」
「ゼファー……」
「頑張れよ、若き調停者」
ゼファーは空を見上げた。永遠花の花びらが舞っている。
「ルナ……ありがとう」
ゼファー・ノクティスは、満足げな笑みを浮かべたまま、光の粒子となって消滅した。
双月峰の頂に、静寂が戻った。
戦いは、終わった。
*
最初の朝日が、山頂を照らし始めた。
金色の光がゆっくりと広がっていく。夜の闇を押し返し、新しい一日の始まりを告げる光。
その瞬間だった。私とカイゼルの間で、何かが起きた。激しい光や音ではない。心臓の鼓動が一つになるような、静かで確かな繋がり。
これは……たまゆら……?
いや、違う。運命に定められたものではない。幾多の困難を共に乗り越え、互いを深く理解し、自らの意志で選び取った結果生まれた、新しい形のたまゆら。
温かくて、優しくて、穏やかな響き。
「俺たちはたまゆらできないはずじゃ……」
「いいえ。これは私たちが作ったたまゆらよ」
「作った?」
「そう。運命じゃない。選択の結果」
私たちは互いを見つめ合った。カイゼルの金色の瞳に、朝日が反射している。
これが、私たちの選んだ道。
私たちの間に生まれた新しい響きは、不思議な広がりを見せた。柔らかな波紋のように、山頂にいる仲間たち全員に伝わっていく。
アルテミシアが顔を上げた。
「なんだ、これ……温かい……」
ミラベルが眼鏡を押し上げた。
「極めて興味深い現象ですわ」
イザベラが静かに微笑んだ。
「希望、というものかのう」
精霊族の戦士たちも、獣人族の戦士たちも、人間の騎士たちも、皆が私たちを見ていた。その顔には、悲しみの中にも、かすかな希望の光が宿っていた。
私はカイゼルに微笑みかけた。
「これが、私たちの答えね」
「ああ、俺たちが選んだ、俺たちのたまゆらだ」
ユリウスの亡骸が見守る中、私たちは手を取り合った。
朝日が完全に昇った。新しい世界が始まる。




