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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第7章 最後の双月

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第44話 千年の解放

 ユリウスの亡骸を抱きしめたまま、私は涙を流し続けていた。


 温もりが失われていく。手を離せない。離したら、本当にユリウスがいなくなってしまう気がして。


 まだ、終わっていない。


 ゼファーが祭壇の前に立ったまま、呆然としている。千年の孤独を生きた彼にとって、他者のために命を捨てる行為は理解できないのだろう。


 私はゆっくりと立ち上がった。涙を拭い、ゼファーと向き合う。


「ユリウスの想いを、無駄にはしない」


 声は思ったよりしっかりしていた。悲しみは消えない。でも今やるべきことがある。


 私の瞳に、もはや恐怖はなかった。代わりに宿っているのは、慈愛と覚悟の光。


 ゼファーを滅ぼすのではない。救う。


 私は一歩ずつ、ゼファーに近づいていく。ユリウスの浄化の光を受けて、彼の憎悪は和らいでいる。でも千年の執着は、まだ彼の魂を縛り続けていた。


「なぜだ……なぜ、あの若造は命を捨てた?」

「それが愛だからです」

「愛……? 我の愛とは、違うというのか」

「違います。あなたの愛は、執着に変わってしまった」


 私はゼファーの前に立った。紅い瞳を真っ直ぐ見つめる。


「でも、分かります。愛する人を失う痛み。世界に裏切られた怒り」

「理解……? たかが十八年しか生きていない小娘が、我の千年を理解できるというのか」

「できます。なぜなら、私はあなたの魂に触れたから」


 私は『逆響(リバース・レゾナンス)』の力を再び解放した。今度はペンダントの制限はない。完全に覚醒した魂繋(ソウル・コネクト)の力が、全身から溢れ出す。


 黒いオーラが優しく広がっていく。破壊の力ではなく、繋ぐ力。断ち切られた絆を、再び結び合わせる力。


「ゼファー、あなたを救わせてください」

「救う……? 我を?」

「はい。ルナさんと、もう一度繋がって」


 ゼファーの瞳が大きく見開かれた。


 私は片方の手をゼファーに、もう片方を永遠花(とわばな)に向けた。千年前の悲恋の象徴である花には、ルナの魂の欠片が宿っているはず。


 魂繋(ソウル・コネクト)の力が、二つの魂に触れた。ゼファーの魂は千年の時を経て歪み、憎しみで真っ黒に染まっていた。でもその奥底に、純粋な愛が残っている。


 永遠花(とわばな)の中のルナの魂は、小さく儚いものだった。記憶の残滓。でも確かにルナの意識があった。


 私は二つの魂を優しく繋ぎ合わせた。千年の時を超えて、恋人たちを再会させる。


 光が私たちを包み込んだ。柔らかな紫色の光。魂と魂が触れ合う時に生まれる神秘的な輝き。


 目の前に精神世界が広がった。



 ゼファーは千年前の青年の姿に戻っていた。銀白色の髪は輝き、紅い瞳には優しさが宿っている。

 その前に、一人の女性が現れた。ルナ。褐色の肌に黒い髪。温かな茶色の瞳。


「ゼファー……」

「ルナ……ルナ!」


 ゼファーが駆け寄る。でも手を伸ばしても、彼女には触れられない。


「ありがとう、待っていてくれて。でも、もういいの」

「何を言っている! 我は、貴女を蘇らせるために……」

「そんなこと、望んでいない」


 ルナは悲しそうに微笑んだ。


「あなたの幸せが、私の幸せだから。千年も苦しむなんて、私は望んでいなかった」

「でも、我は……」

「もう十分よ。だから、自由になって」


 ルナの姿が薄れていく。


「私はいつもあなたの心の中にいる。前を向いて、新しい時代を生きて」

「ルナ……行かないでくれ……」

「愛しています。永遠に」


 ルナは最後に微笑んで、光の粒子となって消えていった。


 ゼファーはその光を掴もうとした。でも光は指の間からすり抜けていく。


 そして彼は理解したのだろう。千年間追い求めていたものは幻だったことを。ルナは解放を願っていたことを。


「ああ……ああ……」


 ゼファーが膝をついた。千年間堪えていた涙が溢れ出す。それは悲しみの涙ではなく、解放の涙だった。



 現実世界に意識が戻った時、ゼファーは変わっていた。


 髪は相変わらず銀白色だったが、その輝きが違う。紅い瞳からは狂気が消え、深い安らぎが宿っていた。


「ありがとう……新しい時代の調停者よ……」


 ゼファーが私に向かって微笑んだ。あれはきっと、千年ぶりの心からの笑顔。


「我は、長く生きすぎた。もう、十分だ」


 ゼファーの体が光り始めた。永遠花(とわばな)から吸収していた魔力が解放され、彼の存在そのものが薄れていく。


「待って!」

「いや、これでいい。これが、我の選んだ道だ」


 ゼファーは満足そうに頷いた。


「リーナ・アスティス。貴女は、我が千年かけても辿り着けなかった答えを示してくれた」

「答え……?」

「愛とは執着することではない。手放すことでもある。受け入れることで成就するのだ」


 ゼファーの体がどんどん透けていく。


「貴女なら、きっとできる。たまゆらに縛られない、新しい愛の形を」

「ゼファー……」

「頑張れよ、若き調停者」


 ゼファーは空を見上げた。永遠花(とわばな)の花びらが舞っている。


「ルナ……ありがとう」


 ゼファー・ノクティスは、満足げな笑みを浮かべたまま、光の粒子となって消滅した。


 双月峰の頂に、静寂が戻った。


 戦いは、終わった。



 最初の朝日が、山頂を照らし始めた。


 金色の光がゆっくりと広がっていく。夜の闇を押し返し、新しい一日の始まりを告げる光。


 その瞬間だった。私とカイゼルの間で、何かが起きた。激しい光や音ではない。心臓の鼓動が一つになるような、静かで確かな繋がり。


 これは……たまゆら……?


 いや、違う。運命に定められたものではない。幾多の困難を共に乗り越え、互いを深く理解し、自らの意志で選び取った結果生まれた、新しい形のたまゆら。


 温かくて、優しくて、穏やかな響き。


「俺たちはたまゆらできないはずじゃ……」

「いいえ。これは私たちが作ったたまゆらよ」

「作った?」

「そう。運命じゃない。選択の結果」


 私たちは互いを見つめ合った。カイゼルの金色の瞳に、朝日が反射している。


 これが、私たちの選んだ道。


 私たちの間に生まれた新しい響きは、不思議な広がりを見せた。柔らかな波紋のように、山頂にいる仲間たち全員に伝わっていく。


 アルテミシアが顔を上げた。


「なんだ、これ……温かい……」


 ミラベルが眼鏡を押し上げた。


「極めて興味深い現象ですわ」


 イザベラが静かに微笑んだ。


「希望、というものかのう」


 精霊族の戦士たちも、獣人族の戦士たちも、人間の騎士たちも、皆が私たちを見ていた。その顔には、悲しみの中にも、かすかな希望の光が宿っていた。


 私はカイゼルに微笑みかけた。


「これが、私たちの答えね」

「ああ、俺たちが選んだ、俺たちのたまゆらだ」


 ユリウスの亡骸が見守る中、私たちは手を取り合った。


 朝日が完全に昇った。新しい世界が始まる。


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