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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第7章 最後の双月

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第43話 友よ

 深い闇の底に、あたしは沈んでいた。


 ゼファーの千年の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。ルナへの愛、失った悲しみ、世界への憎悪。それら全てが、あたしという存在を押し流そうとしていた。


 もう、自分が誰なのか分からなくなりそう。


 リーナなのか、ゼファーなのか、それとも――その時、遠くから声が聞こえた。


「そうだ……それでいい。我と共に、永遠の愛を……」


 ゼファーの声だ。なぜか恍惚としている。


 薄れゆく意識の中で、あたしは感じた。自分の体がどこかへ引き寄せられていることを。永遠花(とわはな)が咲く祭壇へ向かって、ゆっくりと浮き上がっていることを。


 ――ああ、あたしは儀式の生贄になるんだ。


 抵抗する力は、もう残っていなかった。


 ゼファーの千年の執念に飲み込まれ、永遠花(とわはな)と一体化して、ルナを蘇らせるための器となる。それが、あたしの運命なのかもしれない。


 でも、その時だった。


 強い衝撃が、あたしの意識を揺さぶった。


 誰かが必死に何かを叫んでいる。その声は、遠くて近い。現実世界から、精神世界のあたしに向けて放たれた、魂の叫び。


「まだだ……まだ、終わりじゃない!」


 ――ユリウス?


 その声は、確かにユリウスのものだった。



 現実世界で何が起きているのか、あたしには分からなかった。


 でも、感じることはできた。


 温かい光が、あたしを包み込もうとしていることを。


 それは攻撃的な光ではない。守護の光。慈愛の光。誰かを救うために、全てを懸ける覚悟の光。


 精神世界の中で、ゼファーが動揺した。


「何だ、この光は……?」


 千年を生きた古の精霊が、初めて見せる焦り。


 光はどんどん強くなっていく。それは、ゼファーとあたしを繋いでいた闇の魔力を、少しずつ中和していく。

 あたしの意識が、わずかに浮上した。

 そして、薄っすらと見えた。

 現実世界で、ユリウスが聖剣ソラリスを天に掲げている姿が。


 彼の全身から、黄金の光が溢れ出ている。それは、彼の生命力そのものだった。


「友を、民を、そして僕が愛した世界を守る力が、まだここにある!」


 ユリウスの決意の言葉が、あたしの魂に響いた。


 ――駄目、ユリウス。それは……


 あたしは気づいた。彼が何をしようとしているのか。


 自分の命と引き換えに、あたしを救おうとしている。


 止めたかった。叫びたかった。でも、あたしの体は動かない。声も出ない。


 ただ、見ているしかできなかった。



 ユリウスの光が、最高潮に達した。


 聖剣ソラリスが、太陽のように輝く。それは破壊の力ではなく、浄化と守護の光だった。


聖光祈願(ホーリー・グレイス)!」


 ユリウスの叫びと共に、光の奔流が解き放たれた。


 それは、あたしとゼファーを包み込み、千年の憎悪と悲しみを、優しく溶かしていく。


 ゼファーの闇が、その光に押し返されていく。あたしを縛っていた呪縛が、一つ、また一つと解けていく。


 白く染まりかけていた髪が、元の銀灰色に戻っていく。


 あたしは、あたしに戻っていく。


 同時に感じた。


 ユリウスの生命力が、急速に失われていくことを。


 彼は文字通り、自分の全てを光に変えている。魂まで燃やして、あたしを救おうとしている。


 ――やめて、ユリウス! 死んじゃう!


 心の中で叫んだ。でも、彼には届かない。


 いや、届いていても、彼は止まらないだろう。


 それが、ユリウス・エステリアという人間だから。


 誰も見捨てない。誰も諦めない。


 たとえ自分が犠牲になっても、大切な人を守り抜く。


 それが、彼の正義だから。



 光が収まった時、あたしは解放されていた。


 ゼファーとの精神的な繋がりは完全に断ち切られ、あたしの意識は現実世界に戻ってきた。


 最初に見えたのは、青い空だった。


 いや、違う。それは双月の光に照らされた夜空。でも、ユリウスの光の残滓が、まだ空気中に漂っていて、昼間のように明るく見えたのだ。


 体を起こそうとして、すぐ近くで誰かが倒れる音を聞いた。


 振り返ると、そこには――。


「ユリウス!」


 あたしとカイゼルが、同時に叫んだ。


 ユリウスが、地面に崩れ落ちていた。聖剣ソラリスが、彼の手から滑り落ちる。


 顔は青白く、呼吸は浅い。全ての力を使い果たした証拠だった。


 あたしたちは駆け寄った。


 カイゼルがユリウスを抱き起こす。あたしは、震える手で彼の頬に触れた。


 冷たい。氷のように冷たい。


「ユリウス……ユリウス!」

「おい、しっかりしろ! 目を開けろ!」

「……ああ……無事で……よかった……」


 ユリウスの瞼が、わずかに開いた。


 優しい青い瞳が、あたしたちを見つめている。その瞳には、もう生命の輝きはほとんど残っていなかった。


「なんで……なんでこんなこと……」

「君たちの未来を……見たかったな……」

「馬鹿野郎! まだ終わってねぇだろ!」

「いや……もう、十分だよ……」


 ユリウスが、穏やかに微笑んだ。


 全てをやり遂げた人の、満足そうな笑顔だった。


「リーナ……君は、世界を変える……きっと、新しい愛の形を……示してくれる……」

「そんなこと言わないで! 一緒に見届けてよ!」

「カイゼル……彼女を、頼む……君なら、きっと……」

「てめぇ……勝手に逝くんじゃねぇ!」


 ユリウスの瞼は、ゆっくりと閉じていく。


 最後に、小さく呟いた。


「みんな……ありがとう……」


 ユリウス・エステリアは、静かに息を引き取った。


 命の灯を消した。カイゼルの無二の友が、この世を去った。世界を愛し、誰よりも優しかった王子が、永遠の眠りについた。


「ユリウス……ユリウス!」


 カイゼルの叫びが、双月峰の頂に響き渡った。涙が止まらなかった。カイゼルは声を出さずに泣いていた。周りで戦っていた仲間たちも、みんな立ち尽くしていた。アルテミシアが拳を握りしめて震えている。ミラベルが眼鏡を外して涙を拭っている。イザベラが静かに頭を垂れている。誰もが英雄の死を悼んでいた。


 ゼファーだけが、呆然と立っていた。彼の紅い瞳には、理解できないという困惑が浮かんでいた。

 なぜ、他人のために命を捨てられるのか。

 なぜ、自分を犠牲にしてまで、誰かを守ろうとするのか。

 千年の孤独を生きた彼には、理解できないことだったのかもしれない。


 あたしは、ユリウスの亡骸を抱きしめた。まだ温もりが残っている。でも、もう二度と、彼の声を聞くことはできない。彼の笑顔を見ることもできない。一緒に未来を語ることもできない。


 失ってから気づく。どれだけ大切な存在だったか。どれだけ、かけがえのない友だったか。でも、もう遅い。ユリウスは、もういない。


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