第43話 友よ
深い闇の底に、あたしは沈んでいた。
ゼファーの千年の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。ルナへの愛、失った悲しみ、世界への憎悪。それら全てが、あたしという存在を押し流そうとしていた。
もう、自分が誰なのか分からなくなりそう。
リーナなのか、ゼファーなのか、それとも――その時、遠くから声が聞こえた。
「そうだ……それでいい。我と共に、永遠の愛を……」
ゼファーの声だ。なぜか恍惚としている。
薄れゆく意識の中で、あたしは感じた。自分の体がどこかへ引き寄せられていることを。永遠花が咲く祭壇へ向かって、ゆっくりと浮き上がっていることを。
――ああ、あたしは儀式の生贄になるんだ。
抵抗する力は、もう残っていなかった。
ゼファーの千年の執念に飲み込まれ、永遠花と一体化して、ルナを蘇らせるための器となる。それが、あたしの運命なのかもしれない。
でも、その時だった。
強い衝撃が、あたしの意識を揺さぶった。
誰かが必死に何かを叫んでいる。その声は、遠くて近い。現実世界から、精神世界のあたしに向けて放たれた、魂の叫び。
「まだだ……まだ、終わりじゃない!」
――ユリウス?
その声は、確かにユリウスのものだった。
*
現実世界で何が起きているのか、あたしには分からなかった。
でも、感じることはできた。
温かい光が、あたしを包み込もうとしていることを。
それは攻撃的な光ではない。守護の光。慈愛の光。誰かを救うために、全てを懸ける覚悟の光。
精神世界の中で、ゼファーが動揺した。
「何だ、この光は……?」
千年を生きた古の精霊が、初めて見せる焦り。
光はどんどん強くなっていく。それは、ゼファーとあたしを繋いでいた闇の魔力を、少しずつ中和していく。
あたしの意識が、わずかに浮上した。
そして、薄っすらと見えた。
現実世界で、ユリウスが聖剣ソラリスを天に掲げている姿が。
彼の全身から、黄金の光が溢れ出ている。それは、彼の生命力そのものだった。
「友を、民を、そして僕が愛した世界を守る力が、まだここにある!」
ユリウスの決意の言葉が、あたしの魂に響いた。
――駄目、ユリウス。それは……
あたしは気づいた。彼が何をしようとしているのか。
自分の命と引き換えに、あたしを救おうとしている。
止めたかった。叫びたかった。でも、あたしの体は動かない。声も出ない。
ただ、見ているしかできなかった。
*
ユリウスの光が、最高潮に達した。
聖剣ソラリスが、太陽のように輝く。それは破壊の力ではなく、浄化と守護の光だった。
「聖光祈願!」
ユリウスの叫びと共に、光の奔流が解き放たれた。
それは、あたしとゼファーを包み込み、千年の憎悪と悲しみを、優しく溶かしていく。
ゼファーの闇が、その光に押し返されていく。あたしを縛っていた呪縛が、一つ、また一つと解けていく。
白く染まりかけていた髪が、元の銀灰色に戻っていく。
あたしは、あたしに戻っていく。
同時に感じた。
ユリウスの生命力が、急速に失われていくことを。
彼は文字通り、自分の全てを光に変えている。魂まで燃やして、あたしを救おうとしている。
――やめて、ユリウス! 死んじゃう!
心の中で叫んだ。でも、彼には届かない。
いや、届いていても、彼は止まらないだろう。
それが、ユリウス・エステリアという人間だから。
誰も見捨てない。誰も諦めない。
たとえ自分が犠牲になっても、大切な人を守り抜く。
それが、彼の正義だから。
*
光が収まった時、あたしは解放されていた。
ゼファーとの精神的な繋がりは完全に断ち切られ、あたしの意識は現実世界に戻ってきた。
最初に見えたのは、青い空だった。
いや、違う。それは双月の光に照らされた夜空。でも、ユリウスの光の残滓が、まだ空気中に漂っていて、昼間のように明るく見えたのだ。
体を起こそうとして、すぐ近くで誰かが倒れる音を聞いた。
振り返ると、そこには――。
「ユリウス!」
あたしとカイゼルが、同時に叫んだ。
ユリウスが、地面に崩れ落ちていた。聖剣ソラリスが、彼の手から滑り落ちる。
顔は青白く、呼吸は浅い。全ての力を使い果たした証拠だった。
あたしたちは駆け寄った。
カイゼルがユリウスを抱き起こす。あたしは、震える手で彼の頬に触れた。
冷たい。氷のように冷たい。
「ユリウス……ユリウス!」
「おい、しっかりしろ! 目を開けろ!」
「……ああ……無事で……よかった……」
ユリウスの瞼が、わずかに開いた。
優しい青い瞳が、あたしたちを見つめている。その瞳には、もう生命の輝きはほとんど残っていなかった。
「なんで……なんでこんなこと……」
「君たちの未来を……見たかったな……」
「馬鹿野郎! まだ終わってねぇだろ!」
「いや……もう、十分だよ……」
ユリウスが、穏やかに微笑んだ。
全てをやり遂げた人の、満足そうな笑顔だった。
「リーナ……君は、世界を変える……きっと、新しい愛の形を……示してくれる……」
「そんなこと言わないで! 一緒に見届けてよ!」
「カイゼル……彼女を、頼む……君なら、きっと……」
「てめぇ……勝手に逝くんじゃねぇ!」
ユリウスの瞼は、ゆっくりと閉じていく。
最後に、小さく呟いた。
「みんな……ありがとう……」
ユリウス・エステリアは、静かに息を引き取った。
命の灯を消した。カイゼルの無二の友が、この世を去った。世界を愛し、誰よりも優しかった王子が、永遠の眠りについた。
「ユリウス……ユリウス!」
カイゼルの叫びが、双月峰の頂に響き渡った。涙が止まらなかった。カイゼルは声を出さずに泣いていた。周りで戦っていた仲間たちも、みんな立ち尽くしていた。アルテミシアが拳を握りしめて震えている。ミラベルが眼鏡を外して涙を拭っている。イザベラが静かに頭を垂れている。誰もが英雄の死を悼んでいた。
ゼファーだけが、呆然と立っていた。彼の紅い瞳には、理解できないという困惑が浮かんでいた。
なぜ、他人のために命を捨てられるのか。
なぜ、自分を犠牲にしてまで、誰かを守ろうとするのか。
千年の孤独を生きた彼には、理解できないことだったのかもしれない。
あたしは、ユリウスの亡骸を抱きしめた。まだ温もりが残っている。でも、もう二度と、彼の声を聞くことはできない。彼の笑顔を見ることもできない。一緒に未来を語ることもできない。
失ってから気づく。どれだけ大切な存在だったか。どれだけ、かけがえのない友だったか。でも、もう遅い。ユリウスは、もういない。




