第4話 メガネ少女
カイゼルの手を借りて立ち上がった私は「アホくさ」なんて思いながらも、まだ震えが止まらなかった。あれが、あの殺し合いが訓練だとは到底思えなかった。アルテミシアが去った庭園に、夕闇が忍び寄り始めている。
カイゼルは私の手を離すと、落ちていた短剣を拾い上げた。
「これは預かっておく」
有無を言わせない口調だった。私は頷くしかない。
「部屋に戻るぞ」
彼が歩き始めた時、噴水の向こうから拍手の音が聞こえてきた。
パチ、パチ、パチ。
ゆっくりとした、芝居がかった拍手。
「素晴らしい! 実に興味深い現象でしたわ!」
薄紫色の髪をした少女が、屋敷の屋根から飛び降りてきた。大きな丸眼鏡の奥で、紫の瞳が輝いている。魔法使いのローブと三角帽子、そして分厚い本を何冊も抱えていた。
私の記憶が正しければ、彼女は――。
「ミラベル・ブランシュ。王立魔法学院の天才少女」
カイゼルが警戒を露わにした。いや、呆れた顔をしている。どうやら彼女も旧知の仲のようだ。
「何の用だ……というか、どうやって入ってきた」
「あら、つれないですわね。わたしはただ、学術的興味で来ただけですのよ」
ミラベルは私に視線を向けた。その瞳に宿るのは、研究者が珍しい標本を見つけた時のような光。
「リーナ・アスティスさん。あなたの力、とても興味深いですわ」
彼女は懐から水晶玉を取り出した。透明な球体の中で、虹色の光が渦巻いている。
「大聖堂での現象、この観測装置で記録させていただきました。魂脈を乱すどころか、一時的に断ち切る力……理論上はあり得ても、実在するとは思いませんでした」
警戒心マックスで私は後ずさりした。実験動物扱いされるのか。
「えっ、いやいや、待ってください!」
ミラベルが慌てて手を振った。
「誤解しないで。わたしは、あなたを助けたいんです」
「助ける?」
「ええ。その力、制御できなければ、いずれあなた自身を蝕むでしょう。でも、正しく理解し、コントロールできれば――」
彼女の眼鏡がきらりと光った。
「世界の常識を覆す、革命的な力になります」
*
私たちは書斎に戻っていた。ミラベルも一緒だ。カイゼルは渋々といった様子で、彼女の同席を許可した。
ミラベルは机の上に本を広げ、興奮した様子で説明を始めた。
「たまゆらのメカニズムは、大気中のマナを媒介とした共鳴現象です。互いの『魂の音』が共鳴し合い、感情や五感などを共有できるようになる。人生で一度だけ、特定の相手とのみ発生し、一度たまゆらすると、その絆は生涯続く。これが常識。でも、あなたの力はその逆。マナの流れを遮断し、共鳴を破壊する」
「つまり?」
「簡単に言えば、あなたはたまゆらという『繋がり』を『切断』できるんです」
私の左手首が疼いた。黒い手袋の下で、痣が熱を持ち始める。
「でも、なぜ私が……」
「それは分かりません。ただ、歴史上、似たような例はあります」
ミラベルが本のページをめくる。古い挿絵が見えた。黒い翼を持つ天使のような存在が、光の糸を断ち切っている絵。
「『逆響者』。百年に一度現れると言われる、呪われた存在」
「呪われた……」
「いいえ!」
ミラベルが強く否定した。
「それは古い偏見です。あなたの力は呪いなんかじゃない。むしろ、この歪んだたまゆら至上主義を正す、希望の力かもしれません」
カイゼルが口を開いた。
「綺麗事はいい。問題は、その力をどう使うかだ」
「それについて、提案があります」
ミラベルが私をじっと見つめる。
「わたしと一緒に、その力を研究させてください。制御方法を見つけ、あなたが苦しまないようにする。それがわたしの目的です」
扉が勢いよく開いた。
「何やってるんだ?」
アルテミシアが、何事もなかったかのように入ってきた。公爵家の屋敷に。
「リーナ、あんた、まだいたの?」
私は驚きを隠せなかった。つい今しがたカイゼルと剣を交えたばかりなのに、どういうつもりなのかと。カイゼルを見ると、面白そうな顔で眺めていた。
「ふん、気になったから戻ってきただけだ。それより――」
彼女の視線がミラベルに向いた。
「誰だ、このチビ」
「チビじゃありません! わたしは王立魔法学院の――」
「へー、魔法使いか。弱そうだな」
「なっ!?」
ミラベルの顔が真っ赤になる。
アルテミシアは私の前に立った。
「おい、リーナ」
「な、何?」
「さっきは面白かったぜ。人間なのに、根性あるじゃねーか」
彼女の琥珀色の瞳に、好戦的な光が宿る。
「あたしと戦え」
「はぁ!?」
私は思わず声を上げた。
「無理よ! 私、戦闘なんてできない!」
「だから鍛えてやるって言ってんの。その変な力、使いこなせなきゃ意味ないだろ」
カイゼルが割って入った。
「勝手なことを――」
「うるせー、混血野郎」
アルテミシアがカイゼルを睨む。
「こいつは面白い。あたしが気に入った。文句あるか?」
空気が張り詰める。一触即発の雰囲気。
私は慌てて間に入った。
「ちょっと待って! みんな、落ち着いて!」
三人の視線が私に集中する。
私は深呼吸をした。
「アルテミシア、あなたの申し出は嬉しい。でも、いきなり戦うのは無理よ」
「じゃあ、どうすんだ?」
「まず、友達から始めない?」
場が静まり返った。
正直な気持ちだった。無響者と判定されて、すべてを失った今、私には何もない。でも、だからこそ――。
アルテミシアが目を丸くする。
「友達?」
「そう。私、友達が欲しいの。種族とか、身分とか、そんなの関係なく、ただの友達が」
アルテミシアが口を開きかけ、そして閉じた。その頬が、僅かに赤くなる。
「……ふん、まあ、それでもいいけど」
ミラベルが眼鏡を押し上げた。
「友達、ですか。論理的ではありませんが、感情的には理解できます」
「何それ、回りくどい」
アルテミシアがミラベルを小突く。
「痛った! 何するんですか!」
「友達ってのは、こういうもんだろ」
二人が言い合いを始める。
カイゼルがため息をついた。
「騒がしくなりそうだな」
でも、その声に怒りはなかった。むしろ、僅かな呆れと――安堵?
窓の外はもう暗い。蒼月と紅月が、仲良く空に浮かんでいた。
大きな変化。たった一日で大きく変わった。
私の周りに突然現れた、精霊族の混血者、カイゼル、獣人族の戦士、アルテミシア、天才魔道士、ミラベル。
昨日までは想像もできなかった光景。
でも、不思議と気持ちが落ち着いた。
ひとりじゃない。
それだけでいいような気がした。
*
その夜、私は一人で客室のベッドに横たわっていた。
激動の一日だった。朝は普通の令嬢だったのに、今は無響者で、逆響者で、そして――。
扉がノックされた。
「入って」
扉が開き、意外な人物が姿を現した。
アルテミシアだった。
「なんか、言い忘れたことがあってさ」
彼女は照れくさそうに頭を掻いた。
「あのさ、リーナ」
「何?」
「あたし、友達とか、作ったことないんだ」
獣人族の誇り高い戦士が、今はただの不器用な少女に見えた。
「だから、その……よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
私は思わず微笑んでいた。それを見たアルテミシアが照れ笑いを浮かべならが部屋を出ていった。
続いて、ミラベルが顔を覗かせた。
「あの、リーナさん」
「ミラベルも?」
「わたしも、実は友達がいなくて……研究ばかりしていたから。でも、あなたとなら、友達になれる気がします」
彼女は分厚い本を抱きしめた。
「ありがとう」
私が応じると、ミラベルも照れ笑いを浮かべながら部屋を出た。
入れ替わりに、カイゼルが扉の前に立った。部屋には入ってこない。
「お前、変わった女だな」
「そう?」
「敵かもしれない相手を、友達にしようとする。それが、お前の強さなのかもしれないな」
カイゼルが立ち去った後、私は一人、天井を見上げた。
左手首の痣が、温かく脈打っている。でも、もう恐くはなかった。
私には、仲間ができた。
変わり者ばかりだけど、それでいい。
明日から、どんな日々が待っているのだろう。
不安もある。でも、それ以上に期待が胸の中で膨らんでいた。




