第39話 最後の恋文
王都の下町に隠された、ユリウス派のアジト。薄暗い地下室に、三十名ほどの騎士が集まっていた。壁に貼られた王宮の見取り図を、松明の光が照らし出している。
ユリウスは作戦図を指差した。ゼファーの攻撃から二日。市街地の三分の一が瓦礫と化した今、セレスティア軍も混乱の極みにある。反撃の機会は、今しかない。
「ゼファーの姿は、もう確認できないんだな?」
「はっ! 王都をめちゃくちゃにして撤退したようです。念の為、警戒を厳にしております」
「単独であの戦力、か。精霊と人間が仲よくできないのもわかるな……」
ユリウスは部下たちの前でぼやいたことに気づき、ハッとする。しかし、それを咎める騎士たちはいなかった。むしろほとんどが頷いている。
「いまはこっちに注力するぞ。これ以上、妹の好きにはさせない」
ユリウスの声に、騎士たちが頷いた。彼らは皆、ユリウスの高潔さを信じて集まった者たちだ。
暗殺者エレナ。彼女もそこにいた。黒いドレスは戦闘用の軽装に変わり、腰には短剣が下がっている。
「エレナ、偵察はどうだった?」
「王宮の東翼、使用人通路からの侵入を提案します」
「警備は?」
「私の情報では、ゼファーの攻撃で東翼の兵士は西翼に回されています」
「罠の可能性は?」
「ゼロではありません。でも、他に道はないでしょう?」
ユリウスは頷いた。危険は承知の上だ。
「決行は今夜。月が雲に隠れる時を狙う」
「了解」
騎士たちが敬礼した。エレナはユリウスに近づき、小声で囁いた。
「王子殿下、一つお願いがあります」
「何だ?」
「もし私に何かあったら……」
「縁起でもないことを言うな」
「聞いてください。もし私が倒れても、立ち止まらないで」
ユリウスはエレナの瞳を見つめた。そこには、覚悟の光が宿っている。
「君は死なせない」
「いえ、私があなたを死なせません。王子殿下。私があなたを守ることだけは約束します」
エレナは花のように微笑んだ。その笑顔が、ユリウスの胸をかき乱す。
――パンッ
ユリウスは、両手で自分の頬を叩いた。
*
深夜、王宮の庭園。
月明かりが雲間から漏れ、噴水の水面を銀色に染めている。ユリウスたちは音もなく茂みを抜け、東翼への侵入を試みた。
エレナの情報通り、警備は手薄だった。使用人通路の扉も施錠されていない。
「上手くいきすぎている」
騎士の一人が呟いた。ユリウスも同じ不安を感じていた。しかし、引き返すわけにはいかない。
一行は通路を進み、庭園の中央に出た。その瞬間――。
「待っていたわよ、兄様」
セレスティアの声が、夜の静寂を破った。姿は見えない。
茂みの陰から、次々と私兵が現れる。五十、いや百を超える兵士が、ユリウスたちを包囲した。松明が灯され、庭園が昼のように明るくなる。
「罠か!」
「当然でしょう? あなたの動きなど、手に取るように分かるわ」
セレスティアが私兵の後ろから姿を現した。黄金の杖を手に、冷たい笑みを浮かべている。
「降伏なさい、ユリウス。無駄な血を流す必要はないわ」
「僕は降伏しない」
「愚かね。たった三十人で、百の兵に勝てるとでも?」
「正義は数では測れない」
ユリウスが聖剣ソラリスを抜いた。刃が月光を反射し、眩い光を放つ。
「全員、構えろ!」
騎士たちが剣を抜いた。しかし、圧倒的な数の差は明らかだった。
その時、エレナが前に飛び出した。
「私が道を開きます!」
彼女は単身、敵陣に突っ込んだ。短剣が閃き、二人の兵士が倒れる。その動きは、影のように素早く、水のように流麗だった。
「エレナ! 無茶をするな!」
ユリウスの叫びも届かない。エレナは次々と敵を倒していく。その姿は、死を恐れぬ修羅だった。
敵兵たちがエレナに集中する隙に、ユリウスたちも前進した。ソラリスの光が敵を薙ぎ払い、活路が開けていく。
しかし――。
「邪魔だ」
騎士団長の剣が、エレナの背中を貫いた。
時が止まったような錯覚に、ユリウスは陥った。エレナの体が、ゆっくりと前のめりに倒れていく。
「エレナ!」
ユリウスは敵を押しのけ、彼女の元へ駆け寄った。噴水のそばで、血を流すエレナを抱き起こす。
「どうして……どうしてこんな無茶を」
「これが……ゴフッ……私の、選んだ、道です」
エレナの声が、か細くなっていく。血が止まらない。致命傷だった。
「君を死なせるわけには……」
「殿下……いえ、ユリウス様」
エレナの震える手が、血まみれの手が、ユリウスの頬に触れた。
彼女の瞳から、涙が零れた。
「これでやっと、仮面を被らない、本当の私として……最期にあなた様を守れて……幸せです」
「エレナ、喋るな。まだ助かる」
「嘘はいけません……もう、感覚が……」
エレナは力を振り絞って、ユリウスの顔を引き寄せた。
唇を重ねる。
冷たくなりかけた唇に、ユリウスの温もりが伝わる。
「愛して……いました……」
エレナの手が力なく落ちた。瞳から光が消えた。体が動かなくなった。
ユリウスは彼女を抱きしめた。温もりが急速に失われていく。命が、消えていく。
「エレナ……エレナ!」
ユリウスの叫びが、夜空に響き渡った。
その時、聖剣ソラリスが激しく輝き始めた。ユリウスの怒りに呼応するように、刃から黄金の光が溢れ出す。
ユリウスは立ち上がった。エレナの亡骸をそっと地面に横たえ、ソラリスを構える。
「うおおおおお!」
咆哮と共に、ユリウスは光の刃を振るった。黄金の斬撃が空を裂き、敵兵を一掃してゆく。とてつもない力の解放に、セレスティアの私兵たちは恐怖に震えた。
圧倒的だった。あっという間だった。
次々と斬り伏せられていくセレスティアの私兵たち。
庭園が静まり返った。生き残った敵兵は、皆逃げ去っていた。
王宮のバルコニーから、セレスティアが姿を現した。その顔には動揺が浮かんでいた。
「まさか、聖剣の力を完全に……」
「セレスティア」
ユリウスが顔を上げる。その瞳には、冷たい怒りの炎が燃えていた。
「もう、妹とは呼ばない」
セレスティアが息を呑んだ。
「ユリウス……」
「この国を、これ以上あなたの好きにはさせない」
「愚かな兄ね。血を分けた兄妹でこれ以上争うつもり?」
「血の繋がりなど、もはや関係ない」
ユリウスはエレナの亡骸を抱き上げた。
「あなたが奪った全ての命のために、僕は戦う」
「待ちなさい!」
セレスティアの声も、ユリウスには届かない。彼は仲間たちと共に、夜の闇に消えていった。
庭園に残されたのは、血に染まった噴水と、エレナが最期に落とした一枚の手紙だけだった。
風が吹き、手紙がひらひらと舞い上がる。月明かりに照らされたその紙には、震える文字でこう書かれていた。
『愛する人のために死ねる。人間として死ねる。最高の幸せをありがとう』
エレナの最後の恋文は、誰に読まれることもなく、夜風に攫われていった。




