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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第7章 最後の双月

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第39話 最後の恋文

 王都の下町に隠された、ユリウス派のアジト。薄暗い地下室に、三十名ほどの騎士が集まっていた。壁に貼られた王宮の見取り図を、松明の光が照らし出している。


 ユリウスは作戦図を指差した。ゼファーの攻撃から二日。市街地の三分の一が瓦礫と化した今、セレスティア軍も混乱の極みにある。反撃の機会は、今しかない。


「ゼファーの姿は、もう確認できないんだな?」

「はっ! 王都をめちゃくちゃにして撤退したようです。念の為、警戒を厳にしております」

「単独であの戦力、か。精霊と人間が仲よくできないのもわかるな……」


 ユリウスは部下たちの前でぼやいたことに気づき、ハッとする。しかし、それを咎める騎士たちはいなかった。むしろほとんどが頷いている。


「いまはこっちに注力するぞ。これ以上、妹の好きにはさせない」


 ユリウスの声に、騎士たちが頷いた。彼らは皆、ユリウスの高潔さを信じて集まった者たちだ。

 暗殺者エレナ。彼女もそこにいた。黒いドレスは戦闘用の軽装に変わり、腰には短剣が下がっている。


「エレナ、偵察はどうだった?」

「王宮の東翼、使用人通路からの侵入を提案します」

「警備は?」

「私の情報では、ゼファーの攻撃で東翼の兵士は西翼に回されています」

「罠の可能性は?」

「ゼロではありません。でも、他に道はないでしょう?」


 ユリウスは頷いた。危険は承知の上だ。


「決行は今夜。月が雲に隠れる時を狙う」

「了解」


 騎士たちが敬礼した。エレナはユリウスに近づき、小声で囁いた。


「王子殿下、一つお願いがあります」

「何だ?」

「もし私に何かあったら……」

「縁起でもないことを言うな」

「聞いてください。もし私が倒れても、立ち止まらないで」


 ユリウスはエレナの瞳を見つめた。そこには、覚悟の光が宿っている。


「君は死なせない」

「いえ、私があなたを死なせません。王子殿下。私があなたを守ることだけは約束します」


 エレナは花のように微笑んだ。その笑顔が、ユリウスの胸をかき乱す。


 ――パンッ


 ユリウスは、両手で自分の頬を叩いた。



 深夜、王宮の庭園。


 月明かりが雲間から漏れ、噴水の水面を銀色に染めている。ユリウスたちは音もなく茂みを抜け、東翼への侵入を試みた。


 エレナの情報通り、警備は手薄だった。使用人通路の扉も施錠されていない。


「上手くいきすぎている」


 騎士の一人が呟いた。ユリウスも同じ不安を感じていた。しかし、引き返すわけにはいかない。


 一行は通路を進み、庭園の中央に出た。その瞬間――。


「待っていたわよ、兄様」


 セレスティアの声が、夜の静寂を破った。姿は見えない。


 茂みの陰から、次々と私兵が現れる。五十、いや百を超える兵士が、ユリウスたちを包囲した。松明が灯され、庭園が昼のように明るくなる。


「罠か!」

「当然でしょう? あなたの動きなど、手に取るように分かるわ」


 セレスティアが私兵の後ろから姿を現した。黄金の杖を手に、冷たい笑みを浮かべている。


「降伏なさい、ユリウス。無駄な血を流す必要はないわ」

「僕は降伏しない」

「愚かね。たった三十人で、百の兵に勝てるとでも?」

「正義は数では測れない」


 ユリウスが聖剣ソラリスを抜いた。刃が月光を反射し、眩い光を放つ。


「全員、構えろ!」


 騎士たちが剣を抜いた。しかし、圧倒的な数の差は明らかだった。


 その時、エレナが前に飛び出した。


「私が道を開きます!」


 彼女は単身、敵陣に突っ込んだ。短剣が閃き、二人の兵士が倒れる。その動きは、影のように素早く、水のように流麗だった。


「エレナ! 無茶をするな!」


 ユリウスの叫びも届かない。エレナは次々と敵を倒していく。その姿は、死を恐れぬ修羅だった。

 敵兵たちがエレナに集中する隙に、ユリウスたちも前進した。ソラリスの光が敵を薙ぎ払い、活路が開けていく。


 しかし――。


「邪魔だ」


 騎士団長の剣が、エレナの背中を貫いた。


 時が止まったような錯覚に、ユリウスは陥った。エレナの体が、ゆっくりと前のめりに倒れていく。


「エレナ!」


 ユリウスは敵を押しのけ、彼女の元へ駆け寄った。噴水のそばで、血を流すエレナを抱き起こす。


「どうして……どうしてこんな無茶を」

「これが……ゴフッ……私の、選んだ、道です」


 エレナの声が、か細くなっていく。血が止まらない。致命傷だった。


「君を死なせるわけには……」

「殿下……いえ、ユリウス様」


 エレナの震える手が、血まみれの手が、ユリウスの頬に触れた。

 彼女の瞳から、涙が零れた。


「これでやっと、仮面を被らない、本当の私として……最期にあなた様を守れて……幸せです」

「エレナ、喋るな。まだ助かる」

「嘘はいけません……もう、感覚が……」


 エレナは力を振り絞って、ユリウスの顔を引き寄せた。

 唇を重ねる。

 冷たくなりかけた唇に、ユリウスの温もりが伝わる。


「愛して……いました……」


 エレナの手が力なく落ちた。瞳から光が消えた。体が動かなくなった。


 ユリウスは彼女を抱きしめた。温もりが急速に失われていく。命が、消えていく。


「エレナ……エレナ!」


 ユリウスの叫びが、夜空に響き渡った。


 その時、聖剣ソラリスが激しく輝き始めた。ユリウスの怒りに呼応するように、刃から黄金の光が溢れ出す。


 ユリウスは立ち上がった。エレナの亡骸をそっと地面に横たえ、ソラリスを構える。


「うおおおおお!」


 咆哮と共に、ユリウスは光の刃を振るった。黄金の斬撃が空を裂き、敵兵を一掃してゆく。とてつもない力の解放に、セレスティアの私兵たちは恐怖に震えた。

 圧倒的だった。あっという間だった。

 次々と斬り伏せられていくセレスティアの私兵たち。


 庭園が静まり返った。生き残った敵兵は、皆逃げ去っていた。


 王宮のバルコニーから、セレスティアが姿を現した。その顔には動揺が浮かんでいた。


「まさか、聖剣の力を完全に……」

「セレスティア」


 ユリウスが顔を上げる。その瞳には、冷たい怒りの炎が燃えていた。


「もう、妹とは呼ばない」


 セレスティアが息を呑んだ。


「ユリウス……」

「この国を、これ以上あなたの好きにはさせない」

「愚かな兄ね。血を分けた兄妹でこれ以上争うつもり?」

「血の繋がりなど、もはや関係ない」


 ユリウスはエレナの亡骸を抱き上げた。


「あなたが奪った全ての命のために、僕は戦う」

「待ちなさい!」


 セレスティアの声も、ユリウスには届かない。彼は仲間たちと共に、夜の闇に消えていった。


 庭園に残されたのは、血に染まった噴水と、エレナが最期に落とした一枚の手紙だけだった。


 風が吹き、手紙がひらひらと舞い上がる。月明かりに照らされたその紙には、震える文字でこう書かれていた。


『愛する人のために死ねる。人間として死ねる。最高の幸せをありがとう』


 エレナの最後の恋文は、誰に読まれることもなく、夜風に攫われていった。


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