第37話 種族を超えて
エステリア王国とベスティア共和国との国境付近。岩山を越えると、獣人族の隠れ里が姿を現した。切り立った崖に囲まれた谷間に、獣皮のテントが点在している。朝露に濡れた草原の匂いと、焚き火の煙が風に乗って漂ってきた。
私たち四人――私、カイゼル、アルテミシア、ミラベル――は、里の入り口で数十人の獣人族の戦士に囲まれた。狼、虎、熊。それぞれの獣の特徴を持つ戦士たちの視線は、明らかな敵意に満ちていた。
「人間が何の用だ」
「この里は、お前たちの来る場所じゃない」
「とっとと帰れ」
戦士たちの威嚇に、ミラベルが私の袖を掴んだ。その手が小刻みに震えている。
アルテミシアが前に出た。狼の耳がぴんと立ち、尻尾が左右に揺れる。
「あたしが案内してきた。族長に会わせてくれ」
「アルテミシア、お前まさか……」
「人間に魂を売ったのか」
「はぁ? 殺すぞテメエら。俺が学校に通ってるの知ってて、わざと言ってんのか? こいつらは客人だ。死にたくなかったら散れ」
アルテミシアが背中の戦斧に手をかけながら煽る。ちゃんと説明すればいいのに、と思いつつも、彼女の性格なら普通の対応だと思い至る。いきり立った戦士たちがさらに詰め寄ろうとした時、凛とした声が響いた。
「下がりなさい」
テントの奥から、一人の女性が現れた。赤銅色の髪を複雑に結い上げ、琥珀色の瞳がアルテミシアと同じ輝きを放っている。狼の耳と尻尾を持つその姿は、威厳と美しさを兼ね備えていた。
獣人族の族長、イザベラ・クリムゾンだ。
「母上」
アルテミシアが頭を下げる。イザベラは娘を一瞥すると、私たちに視線を向けた。その瞳に宿る冷たさに、背筋が凍る思いがした。
「カイゼル、リーナ、久しぶりだな」
「ああ」
「……はい」
イザベラの言葉に、カイゼルはぶっきらぼうな表情で応じたイザベラには一度だけ会ったことがある。けれど、あのときとはまるで雰囲気が違っていた。
族長。
その立場が彼女の厳しい態度に表れているのだろう。
「テントへ案内しなさい。話だけは聞いてやろう」
*
族長のテントは、里の中央に位置していた。獣皮で作られた内装は質素だが、どこか神聖な雰囲気を感じた。中央には焚き火が焚かれ、その煙が天井の穴から立ち昇っていく。
イザベラは上座に腰を下ろし、私たちを見下ろした。カイゼルが進み出る。
「イザベラ族長、我々は――」
「黙れ、混血」
イザベラの言葉が、鋭い刃のようにカイゼルを貫いた。
「精霊の血を引きながら、人間の振りをして生きる。その不誠実さが気に入らぬ」
「俺は……」
「お前の事情など知らぬ。妾が聞きたいのは、なぜ獣人族が人間の争いに巻き込まれねばならぬのか、それだけじゃ」
カイゼルが言葉に詰まった。
代わりに私が引き継ぐ。
「あの、ゼファー・ノクティスという精霊が、世界を滅ぼそうとしてます」
「ほう?」
「彼は千年前の『沈黙の悲劇』の生き残りで、失った恋人を蘇らせるために――」
「人間の都合じゃな」
イザベラは私の言葉を一蹴した。
「千年前も、人間と精霊の愚かな恋が災いを招いた。また同じことを繰り返すか」
「違います!」
「何が違う? 結局、人間のたまゆらとやらが全ての元凶ではないか」
その通りだった。たまゆらという運命の理が、全ての悲劇の根源にある。
「我ら獣人族は、たまゆらなど信じぬ。愛は自らの意志で選ぶものじゃ」
「だからこそ、お願いしているんです」
「笑止。人間が困った時だけ、我らを頼るか」
イザベラは立ち上がった。
「カイゼル、お前の精霊の血は不浄じゃ。そして人間ども、お前たちのたまゆらという呪縛から、我らを巻き込むな」
「待ってください!」
私の叫びも虚しく、イザベラはテントの奥へ消えようとした。
「出て行け。二度と来るな」
追いかけようとすると、カイゼルが私の手を掴んだ。諦めの表情を浮かべている。しかし、私は引き下がれなかった。
「族長、娘さんの未来は考えないのですか」
イザベラの足が止まった。ゆっくりと振り返る。その瞳に、危険な光が宿っていた。
「何じゃと?」
「アルテミシアさんの未来です。このまま世界が滅びれば、彼女に未来はありません」
「脅しか?」
「いいえ、現実の危機を申し上げてます」
イザベラが私に近づいてきた。圧倒的な威圧感に、息が詰まりそうになる。
「小娘、以前も言ったが、妾に説教する気か」
「ちがいます。私は……私は、たまゆらに縛られない未来を作りたいんです」
その言葉に、イザベラの表情が僅かに変化した。
「たまゆらに縛られない、じゃと?」
「はい。私は逆響者です。他者の魂脈を断ち切る、呪われた存在です」
「そんなこと言っておったな」
「でも、だからこそ分かるんです。運命に縛られることの苦しさが」
イザベラは私をじっと見つめた。その瞳の奥に、何か複雑な感情が渦巻いてい。
「カイゼル、お前たちは外で待て」
「しかし――」
「以前言ったはずじゃ『見届ける』と。これは女同士の話じゃ。邪魔をするな」
カイゼルは私を心配そうに見たが、結局テントを出て行った。アルテミシアとミラベルも後に続く。
テントの中に、私とイザベラだけが残された。
イザベラはゆっくりと上座に戻り、私を見下ろした。
「お前は逆響者だったな、小娘」
「……」
「本当にたまゆらを否定できるのか?」
「私には、たまゆらする相手がいません。だから――」
「嘘をつくな」
イザベラの言葉が、私の心臓を貫いた。
「お前の瞳を見れば分かる。誰かを愛しておる」
「それは……」
「たまゆらではない愛か? それとも、たまゆらできぬ者同士の慰め合いか?」
図星だった。カイゼルへの想いは、本物なのか。それとも、同じ境遇だから惹かれ合っているだけなのか。
「答えられぬか」
「……これは人間の都合ではありません。私たちの、子供たちの未来の問題です」
私は必死に話題を変えた。イザベラは鼻で笑う。
「ふん、口だけは達者じゃな」
彼女はテントの奥へ歩いて行き、古い木箱を取り出してきた。蓋を開けると、中には錆びた騎士の紋章が入っていた。太陽を模した意匠に、剣が交差している。
「これが何か、分かるか?」
「騎士の紋章……エステリア王国のもの?」
「そうじゃ。では、持ち主は誰じゃ?」
イザベラは紋章を私の前に置いた。
「この紋章の持ち主が誰か、言い当ててみせよ。さすれば、お前の言葉を信じてやろう」
私は紋章を見つめた。古い金属の表面には、幾つもの傷が刻まれている。戦いの痕跡だろうか。
「なぜ、こんな試練を?」
「お前が本当に未来を見通す力があるのか、試しておる」
「未来を見通す力なんて……」
「ならば諦めよ。獣人族は人間に与しない」
私は紋章に手を伸ばした。逆響の力なら、そこに残された魂の記憶に触れることができるかもしれない。
指先が金属に触れる。
瞬間、断片的なビジョンが脳裏に流れ込んできた。若い騎士の姿。金茶色の髪。優しい青い瞳。そして、狼の耳を持つ女性と寄り添う姿――私は息を呑んだ。この騎士は……。
「どうした? 何か見えたか?」
イザベラの声に緊張が混じっていた。彼女もまた、この答えを恐れているのかもしれない。
私は震える手で、紋章に触れ続けた。さらに深く、魂の記憶を辿っていく。騎士の名前が、朧げに浮かび上がってきた。
太陽の名を持つ者。聖剣の前の所有者。そして――。
「ユリウス……いいえ、もっと古い……太陽の名……」
私は呟いた。
イザベラが身を乗り出す。その瞳には、期待と恐れが入り混じっていた。
「ソラリス……」
その名を口にした瞬間、イザベラの表情が凍りついた。




