第33話 暗殺者
夜の帳が王宮を包み込んでいた。
塔の最上階にある部屋で、ユリウス・エステリアは窓辺に立っていた。鉄格子越しに見える王都の夜景は、いつもと変わらない平穏さを装っている。だが、その裏で起きている混乱を、民衆はまだ知らない。
――父上も、レオニード王も幽閉された。この国は、どうなってしまうのか。
扉が静かに開かれた。振り返ると、黒いドレスに身を包んだ女性が立っていた。艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、深紅の瞳で彼を見つめている。
エレナ・ノワール。黒薔薇のメンバーであり、セレスティアの手駒。
「食事をお持ちしました」
彼女は銀の盆を手に、部屋へと入ってきた。テーブルの上に料理を並べながら、妖艶な笑みを浮かべる。
「全てはセレスティア様の御心のままに」
「君は、本当にそう思っているのか」
ユリウスは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。その深紅の瞳の奥に、微かな迷いの光を見出す。
「うちは、命じられたことをするだけです」
「命じられたこと、か」
「ええ。貴方を監視し、必要とあらば……」
言葉は最後まで紡がれなかった。
「暗殺、だろう」
「……」
「君の瞳は、嘘をついている」
ユリウスがエレナに近づく。
「本当の君は、そんな冷酷な人間じゃない」
「貴方に、うちの何が分かるというのです」
「分かるさ。君は今、苦しんでいる」
エレナの肩が、微かに震えた。仮面に隠された本心が、少しずつ顔を覗かせていた。
ユリウスは席に着き、エレナと向かい合った。
運ばれてきた食事には手を付けず、ただ彼女を見つめている。エレナは居心地悪そうに視線を逸らした。
「食べないのですか」
「毒でも入っているんじゃないか」
「まさか。セレスティア様は、貴方を生かしておくよう命じています」
「今のところは、だろう」
沈黙が流れた。
ユリウスは静かに口を開いた。
「君は、本当に今の国が正しいと思うのか」
「……」
「たまゆら至上主義。無響者への差別。そして妹の独裁」
「それが、この国の選んだ道です」
「違う。妹が勝手に決めた道だ」
「しかし、大神殿も賛同しています」
「大神殿は、自分たちの権力を守りたいだけだ」
ユリウスは立ち上がって、エレナの目を覗き込む。
「君が本当に守りたいものは何だ」
「うちは……」
「黒薔薇の掟か。それとも、自分の心か」
「そんなもの、とっくに捨てました」
「嘘だ」
彼は優しく微笑んだ。
「君の瞳は、まだ生きている。まだ、何かを求めている」
「やめてください」
「君は、ただの暗殺者じゃない。一人の女性だ」
「違います」
「いいや、違わない」
ユリウスは彼女の手を取った。エレナが息を呑む。
「君の手は震えている。冷たい仮面の下で、温かい心が泣いている」
*
エレナは手を振り払おうとした。だが、ユリウスの温かい手の感触が、彼女の心を揺さぶる。
――なぜ、この人は。
今まで、誰も彼女の本心など見ようとしなかった。利用価値のある道具としてしか扱われなかった。でも、この王子は違う。
――ああ、うちはやっぱり彼のことが……。
「貴方は、優しすぎます」
「それが僕の欠点かもしれない」
「その優しさが、命取りになります」
「構わない。僕はね、人を信じることを諦めたくないんだ」
エレナの瞳から、一筋の涙が零れた。
「うちが……いいえ」
彼女は深く息を吸った。仮面が剥がれ落ち、素顔が現れる。
「私が守りたいのは……あなたです、ユリウス様」
告白と同時に、彼女は左手の指輪を外した。セレスティアから預かった毒の指輪。それを床に投げ捨てる。
「エレナ……」
「ずっと、見ていました。貴方の真っ直ぐな生き方を」
「君は……」
「任務で近づいたはずなのに、いつの間にか」
彼女は涙を拭った。
「恋をしていました」
「エレナ」
「だから、もう貴方を傷つけることはできません」
エレナは扉へと向かった。鍵を開け、振り返る。
「逃げてください。今なら、まだ間に合います」
「君はどうする」
「私はここで見張りを続けているふりをします」
「それじゃ君が」
「構いません。これが私の選んだ道です」
「ダメだ。君も一緒に来るんだ」
エレナは毅然とした表情で、涙を流し続けていた。
*
深夜。王宮の秘密の通路を、二つの影が走っていた。
エレナが先導し、ユリウスが続く。狭い石造りの通路は、ところどころに松明が灯されているだけで薄暗い。
「この先に、外への出口があります」
「エレナ、君も一緒に」
「私が行けば、足手まといになります」
「そんなことは」
突然、前方から足音が響いてきた。
「見つかった」
エレナが振り返った。その顔には、覚悟の表情が浮かんでいる。
「ユリウス様、お行きください」
「エレナ!」
「私が、時間を稼ぎます」
通路の曲がり角から、セレスティアの私兵たちが現れた。黒い甲冑に身を包んだ騎士たちが、剣を抜いて迫ってくる。
「裏切り者!」
「ええ、そうね」
エレナは短剣を抜いた。毒薬と暗殺術しか知らなかった彼女が、初めて誰かを守るために刃を振るう。
「殿下! お行きください! あなたの正義を遂げてください」
彼女は振り返らずに告げた。
「エレナ……」
「私は、やっと見つけたんです。命を懸ける価値があるものを」
騎士たちとエレナが激突した。金属音が狭い通路に響き渡る。
ユリウスは拳を握り締めた。戻れば二人とも捕まる。彼女の犠牲を無駄にしてはいけない。
「必ず、君の想いに応える」
彼は闇の奥へと走り始めた。背後で響く戦闘音が、次第に遠ざかっていく。
――エレナ、生きていてくれ。
王宮の外へ出た時、夜空には星が瞬いていた。その一つ一つが、エレナの涙のように見えた。
ユリウスは振り返らずに、夜の王都へと消えていった。一人きりで、反撃の機会を窺うために。




