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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第6章 謀反

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第33話 暗殺者

 夜の帳が王宮を包み込んでいた。


 塔の最上階にある部屋で、ユリウス・エステリアは窓辺に立っていた。鉄格子越しに見える王都の夜景は、いつもと変わらない平穏さを装っている。だが、その裏で起きている混乱を、民衆はまだ知らない。


 ――父上も、レオニード王も幽閉された。この国は、どうなってしまうのか。


 扉が静かに開かれた。振り返ると、黒いドレスに身を包んだ女性が立っていた。艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、深紅の瞳で彼を見つめている。


 エレナ・ノワール。黒薔薇のメンバーであり、セレスティアの手駒。


「食事をお持ちしました」


 彼女は銀の盆を手に、部屋へと入ってきた。テーブルの上に料理を並べながら、妖艶な笑みを浮かべる。


「全てはセレスティア様の御心のままに」

「君は、本当にそう思っているのか」


 ユリウスは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。その深紅の瞳の奥に、微かな迷いの光を見出す。


「うちは、命じられたことをするだけです」

「命じられたこと、か」

「ええ。貴方を監視し、必要とあらば……」


 言葉は最後まで紡がれなかった。


「暗殺、だろう」

「……」

「君の瞳は、嘘をついている」


 ユリウスがエレナに近づく。


「本当の君は、そんな冷酷な人間じゃない」

「貴方に、うちの何が分かるというのです」

「分かるさ。君は今、苦しんでいる」


 エレナの肩が、微かに震えた。仮面に隠された本心が、少しずつ顔を覗かせていた。


 ユリウスは席に着き、エレナと向かい合った。


 運ばれてきた食事には手を付けず、ただ彼女を見つめている。エレナは居心地悪そうに視線を逸らした。


「食べないのですか」

「毒でも入っているんじゃないか」

「まさか。セレスティア様は、貴方を生かしておくよう命じています」

「今のところは、だろう」


 沈黙が流れた。


 ユリウスは静かに口を開いた。


「君は、本当に今の国が正しいと思うのか」

「……」

「たまゆら至上主義。無響者への差別。そして妹の独裁」

「それが、この国の選んだ道です」

「違う。妹が勝手に決めた道だ」

「しかし、大神殿も賛同しています」

「大神殿は、自分たちの権力を守りたいだけだ」


 ユリウスは立ち上がって、エレナの目を覗き込む。


「君が本当に守りたいものは何だ」

「うちは……」

「黒薔薇の掟か。それとも、自分の心か」

「そんなもの、とっくに捨てました」

「嘘だ」


 彼は優しく微笑んだ。


「君の瞳は、まだ生きている。まだ、何かを求めている」

「やめてください」

「君は、ただの暗殺者じゃない。一人の女性だ」

「違います」

「いいや、違わない」


 ユリウスは彼女の手を取った。エレナが息を呑む。


「君の手は震えている。冷たい仮面の下で、温かい心が泣いている」



 エレナは手を振り払おうとした。だが、ユリウスの温かい手の感触が、彼女の心を揺さぶる。


 ――なぜ、この人は。


 今まで、誰も彼女の本心など見ようとしなかった。利用価値のある道具としてしか扱われなかった。でも、この王子は違う。


 ――ああ、うちはやっぱり彼のことが……。


「貴方は、優しすぎます」

「それが僕の欠点かもしれない」

「その優しさが、命取りになります」

「構わない。僕はね、人を信じることを諦めたくないんだ」


 エレナの瞳から、一筋の涙が零れた。


「うちが……いいえ」


 彼女は深く息を吸った。仮面が剥がれ落ち、素顔が現れる。


「私が守りたいのは……あなたです、ユリウス様」


 告白と同時に、彼女は左手の指輪を外した。セレスティアから預かった毒の指輪。それを床に投げ捨てる。


「エレナ……」

「ずっと、見ていました。貴方の真っ直ぐな生き方を」

「君は……」

「任務で近づいたはずなのに、いつの間にか」


 彼女は涙を拭った。


「恋をしていました」

「エレナ」

「だから、もう貴方を傷つけることはできません」


 エレナは扉へと向かった。鍵を開け、振り返る。


「逃げてください。今なら、まだ間に合います」

「君はどうする」

「私はここで見張りを続けているふりをします」

「それじゃ君が」

「構いません。これが私の選んだ道です」

「ダメだ。君も一緒に来るんだ」


 エレナは毅然とした表情で、涙を流し続けていた。



 深夜。王宮の秘密の通路を、二つの影が走っていた。


 エレナが先導し、ユリウスが続く。狭い石造りの通路は、ところどころに松明が灯されているだけで薄暗い。


「この先に、外への出口があります」

「エレナ、君も一緒に」

「私が行けば、足手まといになります」

「そんなことは」


 突然、前方から足音が響いてきた。


「見つかった」


 エレナが振り返った。その顔には、覚悟の表情が浮かんでいる。


「ユリウス様、お行きください」

「エレナ!」

「私が、時間を稼ぎます」


 通路の曲がり角から、セレスティアの私兵たちが現れた。黒い甲冑に身を包んだ騎士たちが、剣を抜いて迫ってくる。


「裏切り者!」

「ええ、そうね」


 エレナは短剣を抜いた。毒薬と暗殺術しか知らなかった彼女が、初めて誰かを守るために刃を振るう。


「殿下! お行きください! あなたの正義を遂げてください」


 彼女は振り返らずに告げた。


「エレナ……」

「私は、やっと見つけたんです。命を懸ける価値があるものを」


 騎士たちとエレナが激突した。金属音が狭い通路に響き渡る。


 ユリウスは拳を握り締めた。戻れば二人とも捕まる。彼女の犠牲を無駄にしてはいけない。


「必ず、君の想いに応える」


 彼は闇の奥へと走り始めた。背後で響く戦闘音が、次第に遠ざかっていく。


 ――エレナ、生きていてくれ。


 王宮の外へ出た時、夜空には星が瞬いていた。その一つ一つが、エレナの涙のように見えた。


 ユリウスは振り返らずに、夜の王都へと消えていった。一人きりで、反撃の機会を窺うために。


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