第32話 歪んだ執着
王宮の一室に、午後の陽光が斜めに差し込んでいた。
セレスティアは長椅子に優雅に腰を下ろし、目の前に跪く青年を値踏みするような視線で見下ろしていた。黒髪に赤いメッシュを入れた派手な風貌のルシウス・ダークホルムは、恭しく頭を垂れている。
――この男の欲望は、実に分かりやすい。
セレスティアは内心で嘲笑しながら、優雅に微笑んだ。
「ルシウス・ダークホルム」
「はい、セレスティア様」
「貴方が欲しがっていた玩具」
彼女は意図的に間を置いた。
「捕まえる手伝いをさせてあげますわ」
ルシウスの肩が、微かに震えた。顔を上げた彼の赤い瞳には、抑えきれない欲望の炎が燃えている。
「よろしいのでしょうか」
「ええ。リーナ・アスティスは国家反逆罪の罪人。捕縛は当然のこと」
「ありがとうございます」
彼は深々と頭を下げた。その唇には、歪んだ喜びの笑みが浮かんでいる。
「ただし」
セレスティアが釘を刺した。
「生きたまま連れてくることが条件です。死なせてはなりません」
「承知しております」
「本当に分かっていますの?」
彼女の声が冷たくなった。
「貴方の粗暴な力では、彼女を壊してしまう可能性がある」
「ご心配なく。私は、自分の玩具を大切に扱います」
「玩具、ね」
セレスティアは立ち上がった。窓際へと歩きながら、振り返ることなく告げる。
「彼女は今、王都近郊の森を通って双月峰へ向かっているはず」
「分かりました」
「兵を二十名、貴方に預けます」
「御意」
ルシウスが立ち上がった。その顔には、獰猛な笑みが広がっている。
「必ず、捕まえてご覧に入れます」
「期待していますわ」
扉へ向かうルシウスの背中を見送りながら、セレスティアは小さく呟いた。
「せいぜい、役に立ってもらいましょう」
*
二日後。王都近郊の森は、初夏の緑に包まれていた。シルヴァンたち精霊族は、別の道を進んでいる。できるだけ追っ手の目を誤魔化すために。
私たちは双月峰への道を急いでいた。カイゼルが先頭を歩き、私が続く。その後ろにアルテミシアとミラベルが並んで歩いていた。彼女たち二人は、ヴァルトハイム公爵邸の惨状から推測し、王都を脱出。足跡とアルテミシアの鼻で、私たちに辿り着いた。
彼女ら二人の姿を見つけたとき「友人とはいえ、そこまでしなくても」と言ったら、烈火のごとく叱られた。友人のいなかった私、これは言い訳にならない。ただただ、相手をおもんぱかる考えが足りなかったと恥じた。
マグナスの死から二日。悲しみはまだ心に重くのしかかっているけれど、立ち止まっている時間はない。ゼファーより先に到着しなければならないからだ。
「リーナ、大丈夫か?」
「うん、平気」
振り返ったカイゼルに、私は微笑んでみせた。
――本当は不安で仕方ない。
逆響の力を完全に制御できるようになったとはいえ、これから起こることへの恐怖は消えない。
「待て」
アルテミシアが低い声で警告した。狼の耳がぴくりと動く。
「囲まれてる」
「敵か?」
カイゼルが剣に手をかけた。
次の瞬間、木々の間から黒い甲冑を着た兵士たちが現れた。二十名ほどの兵が、私たちを完全に包囲していた。
その中央から一人の青年が姿を現した。
「見つけたぞ」
ルシウス・ダークホルム。黒と赤の派手な衣装に身を包み、血のような赤い瞳で私を見つめている。
「俺のリーナ!」
「あんたの物じゃない」
「今度こそ、お前を俺だけのものにしてやる!」
彼の手に握られた赤い響晶石が、禍々しい光を放ち始めた。たまゆらを無理やり増幅させる、危険な代物だ。
「下がってろ、リーナ」
カイゼルが前に出た。双月剣エクリプスを抜き放つ。
「こいつらは俺たちが」
「いや」
私は首を横に振った。
「ルシウスは、私が相手をする」
「リーナ?」
「大丈夫。もう、逃げない」
紫水晶のペンダントが、温かく脈動した。
「来なさい、ルシウス」
「いい度胸だ!」
彼が響晶石の力を解放した。たまゆらの波動が、濁流のように押し寄せてきた。
*
カイゼルたちが兵士と激しく斬り結ぶ中、私とルシウスは森の開けた場所で対峙していた。
彼の放つ強制たまゆらの力は、確かに強大だった。普通の人間なら、瞬時に魂脈を支配されてしまうだろう。
でも――。
「なぜだ!」
ルシウスが苛立ちを露わにした。
「なぜ俺様の力が効かない!」
「あなたの力は偽物だから」
私は逆響の力を、そっと解放する。
「借り物の力で、人の心は掴めない」
「黙れ! 力こそが全てだ!」
彼は響晶石の出力を最大まで上げた。赤い光が爆発的に膨れ上がる。
――今だ。
母の教えを思い出す。逆響は破壊の力じゃない。魂と魂を繋ぐ、もう一つの形。
私は手を伸ばし、ルシウスの魂脈を直接「掴んだ」。
「!?」
彼の動きが止まった。赤い瞳が大きく見開かれる。
「何を……」
「聞こえる」
私は彼の魂の音に耳を傾けた。
「あなたの音は、とても悲しいのね」
そこにあったのは、深い孤独だった。誰にも認められず、愛されず、ただ力だけを求め続けた魂の叫び。
「やめろ……」
「本当は、ただ誰かに認めてもらいたかっただけ」
「違う! 俺様は――」
「力じゃなくて、あなた自身を見てほしかった」
ルシウスの顔が歪んだ。苦痛とも、悲しみともつかない表情。
「うるさい! うるさい!」
彼は響晶石にさらなる力を注ぎ込んだ。限界を超えた魔力が、彼の魂を内側から蝕み始める。
「やめて! そんなことしたら――」
「黙れええええ!」
赤い光が、臨界点を超えた。
ルシウスの魂は、増幅された力の重みに耐えきれなくなっていた。私の逆響の力と、響晶石の暴走が共鳴し、彼の存在そのものが崩壊し始める。
「あ……ああ……」
彼の体から、光の粒子が剥がれ落ちていく。響晶石にひびが入り、赤い破片が砕け散った。
「ルシウス!」
私は慌てて逆響の力を引こうとした。でも、もう遅かった。一度始まった崩壊は、止めることができない。
彼の顔から、狂気が消えていく。代わりに現れたのは、驚くほど穏やかな表情だった。
「そうか……」
ルシウスは小さく呟いた。消えゆく体で、ゆっくりと私を見る。
「これが……本当の……」
言葉は最後まで紡がれなかった。
彼の体は完全に光となって散り、風に運ばれて消えていった。後には、砕けた響晶石の欠片だけが残された。
私はその場に膝をついた。
――私が、殺した。
初めて、自分の力で人を殺した。たとえ相手が敵だったとしても、この手で命を奪ったという事実が、重く心にのしかかる。
「リーナ!」
カイゼルが駆け寄ってきた。兵士たちは、主を失って撤退していく。
「大丈夫か?」
「私……私がルシウスを……」
「仕方なかった」
カイゼルは私を抱き締めた。
「お前は悪くない」
「でも……」
「あいつは自滅したんだ。力に溺れて」
アルテミシアとミラベルも近づいてきた。二人とも、心配そうな顔で私を見ている。
「リーナ」
ミラベルが優しく声をかけた。
「あなたは、彼を救おうとした。それだけで十分よ」
「そうだぜ」
アルテミシアも頷いた。
「あんたは最後まで、あいつの心に寄り添おうとしてた」
仲間たちの言葉が、少しだけ心を軽くしてくれた。でも、この重さは簡単には消えない。
私は立ち上がって、砕けた響晶石の欠片を拾った。
――これが、力を求めた者の末路。
ルシウスの最期の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。あの穏やかな顔は、何を悟ったのだろう。いったい何を見つけたのだろう。
答えはもう永遠に分からない。
私たちは再び歩き始めた。双月峰への道は、まだ遠い。




