第3話 仮面の下の真実
柔らかな光が瞼を透かして届いている。私はゆっくりと目を開けた。
見知らぬ天井だった。白い漆喰に、繊細な薔薇の模様が浮き彫りになっている。午後の陽光が、レースのカーテン越しに差し込んでいた。
身体を起こそうとして、自分がベッドに寝かされていることに気づく。シルクのシーツが、肌に心地よい。ここは……どこ?
「お目覚めになられましたか」
部屋の隅から、穏やかな声がした。メイド服を着た初老の女性が、静かに近づいてくる。
「ここは、ヴァルトハイム公爵邸の客室でございます。お加減はいかがですか?」
ヴァルトハイム――そうだ。私は大聖堂で倒れて、カイゼルに……。
記憶が一気に押し寄せてきた。無響者の判定、婚約破棄、そして私の中から溢れ出た謎の力。左手首を見ると、黒い手袋はそのままだった。その下の痣は静かに眠っていた。
「カイゼル様がお待ちです。お召し替えをなさいますか?」
メイドが差し出したのは、深い紫色のドレスだった。アスティス家では見たこともない上質な生地。私は首を横に振った。
「このままで構いません」
「かしこまりました。では、ご案内いたします」
ベッドから降りて、メイドの後について廊下を歩く。公爵邸の内装は、王宮にも劣らない豪華さだった。でも、どこか冷たい。人の温もりを感じさせない、完璧すぎる美しさ。
重厚な扉の前で、メイドが立ち止まった。
「書斎でございます」
扉をノックすると、中から「入れ」という声がした。
*
書斎は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。古い革装本が、天井まで整然と並んでいる。窓際の大きなデスクに、カイゼルが座っていた。
彼は本から顔を上げると、向かいの椅子を指し示した。
「座れ」
私は言われるままに腰を下ろす。カイゼルは本を閉じ、じっと私を見つめた。金色の瞳が、値踏みするように私を観察している。
「お前は、ただの無響者ではない」
唐突な言葉だった。
「何の話ですか?」
「とぼけるな。お前も薄々気づいているはずだ」
彼は立ち上がり、窓の外を眺めた。
「大聖堂での、あの現象。たまゆらカップルたちの魂脈を乱し、響晶石にひびを入れた。あれは無響者にできることじゃない」
私は黙っていた。否定できなかった。あの時、確かに私の中から何かが溢れ出したのだから。
「お前は『逆響者』だ」
聞き慣れない言葉だった。
「逆響者……?」
「魂脈を繋げるのではなく、断ち切る力を持つ者。百年に一人現れるかどうかという、稀有な存在だ」
カイゼルが振り返る。その表情に、薄い笑みが浮かんでいた。
「そして俺は、その力を必要としている」
彼の雰囲気が変わった。貴公子然とした仮面が剥がれ落ち、何か危険なものが顔を覗かせる。
「俺にはね、リーナ・アスティス。俺には、壊さなければならないものがある。この腐りきったたまゆら至上主義と、それに縋りつく愚かな貴族どもをな」
これが、カイゼル・ヴァルトハイムの本性なのか。
「なぜ、そんなことを?」
「理由なんてどうでもいい。重要なのは、お前の力が俺の計画に必要だということだ」
「断ったら?」
「断れる立場か? 無響者で、おまけに化け物扱いされた哀れな令嬢が」
言葉が胸を抉る。でも、事実だった。私にはもう、帰る場所なんてない。
扉がノックされた。
「入れ」
カイゼルが席に戻ると同時に、マグナスが入ってきた。老人は暖炉の前に立ち、優しい笑みを浮かべる。
「お嬢さん、体調はいかがかな?」
「はい、おかげさまで」
「それは良かった」
マグナスは私とカイゼルを交互に見た。
「さて、単刀直入に申し上げよう。我々は、お嬢さんに提案がある」
彼は懐から羊皮紙を取り出した。
「カイゼルとの、偽りの婚約だ」
息を呑んだ。
「偽りの……?」
「そう。表向きは婚約者として振る舞ってもらう。だが実際は、協力関係だ」
「協力?」
「お嬢さんはカイゼルの『剣』となる。その逆響の力で、彼の敵を排除する。代わりに、ヴァルトハイム家はお嬢さんを保護する」
マグナスの瞳が、鋭く光った。
「アスティス家の再興も、約束しよう」
父の顔が脳裏に浮かぶ。没落寸前の我が家。このままでは、本当に滅びてしまう。
「考える時間を――」
「時間はない」
カイゼルが割り込んだ。
「今すぐ決めろ。イエスか、ノーか」
選択の余地なんて、最初からなかった。私は震える手で、羊皮紙を受け取った。
「分かりました。お受けします」
「賢明な判断だ」
マグナスが満足そうに頷く。
「では、明日、王宮で正式な手続きを――」
その時、窓ガラスが激しく震えた。
何かが、外で起きている。
*
私たちは急いで庭園へ出た。夕暮れの光が、噴水の水面をオレンジ色に染めている。
その静寂を破って、獣のような咆哮が響いた。
「見つけたぞ!」
塀の上に、人影があった。赤茶色の髪、琥珀色の瞳、そして――狼の耳と尻尾。
獣人族の少女。
少女は手に巨大な戦斧を持ち、殺気を放ちながらカイゼルを睨みつけていた。
「人間のフリした化け物! その精霊の臭い、隠せると思ったか!」
精霊? カイゼルが?
私が混乱している間に、少女は塀から飛び降りた。地面に着地すると同時に、カイゼルめがけて突進する。
「死ねぇ!」
戦斧が振り下ろされる。カイゼルは素早く私を背後に庇い、腰の剣を抜いた。
金属がぶつかり合う音が、庭園に響き渡る。
「アルテミシア・クリムゾンか……よく俺の正体に気づいたな」
カイゼルが刃を受け止めながら、冷静に名を呼んだ。どうやら旧知の仲らしい。
「ふん! 獣人族の鼻を舐めるな! お前からは、精霊族の腐った匂いがプンプンするんだよ!」
アルテミシアと呼ばれた少女が、さらに力を込める。カイゼルが僅かに後退した。
私は何もできずに立ち尽くしていた。訓練なら見たことがある。けれどこれは……殺し合い。このままじゃ――。
カイゼルが劣勢になり始めた。獣人族特有の身体能力に、押され始めている。
私は腰の護身用短剣を抜いた。震える手で、それを構える。
「やめて!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
アルテミシアの動きが一瞬止まる。その隙に、私は二人の間に割って入った。
「お願い、やめて! カイゼルは……彼は私を助けてくれた人なの!」
アルテミシアの琥珀色の瞳が、私を射抜く。
「はぁ? あんた誰よ?」
「リーナ・アスティス。今日、無響者と判定された、ただの人間よ」
「無響者?」
アルテミシアの表情が変わった。興味深そうに、私を観察し始める。
「ああ、あんた、大聖堂で起きた騒ぎの中心にいた奴か。面白い匂いがすると思ったら」
彼女は戦斧を下ろした。でも、警戒は解いていない。
「なんで無響者が、精霊族なんかを庇うんだ?」
「精霊族って、どういうこと?」
「知らないのか? そいつ、半分精霊族の血が混じってる混血者なんだよ」
私は振り返ってカイゼルを見た。彼は苦い表情を浮かべている。
金色の瞳の奥で、一瞬、蒼い光が揺らめいた。
あの時、大聖堂で見た、あの光――。
「だから何だっていうの?」
私は震えを押し殺して、アルテミシアに向き直った。
「彼が何者だろうと、私には関係ない。大切なのは、彼が私を助けてくれたということだけ」
アルテミシアが目を丸くした。
そして、突然、大声で笑い始めた。
「あははは! 面白い! 人間なのに、種族にこだわらないなんて!」
笑い声が収まると、彼女は戦斧を背中に担いだ。
「気に入った。あんた、名前なんて言ったっけ?」
「リーナよ」
「リーナか。覚えとく」
アルテミシアは、牙を剥いて獰猛な笑みを浮かべた。
「今日のところは見逃してやる。でも、今度会った時は容赦しないからな!」
そう言うと、彼女は身を翻し、来た時と同じように塀を飛び越えて去っていった。
庭園に、静寂が戻る。
私は膝から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。短剣が、手から滑り落ちる。
カイゼルが近づいてきた。
「なぜ、庇った?」
私は顔を上げた。夕陽を背にした彼の表情は、逆光でよく見えない。
「分からない。ただ……」
言葉を探す。でも、上手く説明できない。
「ただ、そうしなきゃいけない気がしたの」
「すまない」
「謝る必要は――」
「いや、アルテミシアはよく来るんだ」
「えっ?」
「あれは訓練の一環だと」
「えぇぇ……」
「気に入られたみたいだな……すまない……」
「えぇぇぇぇぇ……」
カイゼルは手を差し伸べてきた。私はその手を取って、立ち上がる。
彼の手は、思ったより温かかった。




