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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第1章 婚約破棄と契約

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第3話 仮面の下の真実

 柔らかな光が瞼を透かして届いている。私はゆっくりと目を開けた。


 見知らぬ天井だった。白い漆喰に、繊細な薔薇の模様が浮き彫りになっている。午後の陽光が、レースのカーテン越しに差し込んでいた。


 身体を起こそうとして、自分がベッドに寝かされていることに気づく。シルクのシーツが、肌に心地よい。ここは……どこ?


「お目覚めになられましたか」


 部屋の隅から、穏やかな声がした。メイド服を着た初老の女性が、静かに近づいてくる。


「ここは、ヴァルトハイム公爵邸の客室でございます。お加減はいかがですか?」


 ヴァルトハイム――そうだ。私は大聖堂で倒れて、カイゼルに……。


 記憶が一気に押し寄せてきた。無響者(アノモス)の判定、婚約破棄、そして私の中から溢れ出た謎の力。左手首を見ると、黒い手袋はそのままだった。その下の痣は静かに眠っていた。


「カイゼル様がお待ちです。お召し替えをなさいますか?」


 メイドが差し出したのは、深い紫色のドレスだった。アスティス家では見たこともない上質な生地。私は首を横に振った。


「このままで構いません」

「かしこまりました。では、ご案内いたします」


 ベッドから降りて、メイドの後について廊下を歩く。公爵邸の内装は、王宮にも劣らない豪華さだった。でも、どこか冷たい。人の温もりを感じさせない、完璧すぎる美しさ。


 重厚な扉の前で、メイドが立ち止まった。


「書斎でございます」


 扉をノックすると、中から「入れ」という声がした。



 書斎は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。古い革装本が、天井まで整然と並んでいる。窓際の大きなデスクに、カイゼルが座っていた。


 彼は本から顔を上げると、向かいの椅子を指し示した。


「座れ」


 私は言われるままに腰を下ろす。カイゼルは本を閉じ、じっと私を見つめた。金色の瞳が、値踏みするように私を観察している。


「お前は、ただの無響者(アノモス)ではない」


 唐突な言葉だった。


「何の話ですか?」

「とぼけるな。お前も薄々気づいているはずだ」


 彼は立ち上がり、窓の外を眺めた。


「大聖堂での、あの現象。たまゆら(ソウル・レゾナンス)カップルたちの魂脈(ソウル・ヴェイン)を乱し、響晶石(きょうしょうせき)にひびを入れた。あれは無響者(アノモス)にできることじゃない」


 私は黙っていた。否定できなかった。あの時、確かに私の中から何かが溢れ出したのだから。


「お前は『逆響者(リバース・レゾナンス)』だ」


 聞き慣れない言葉だった。


「逆響者……?」

「魂脈を繋げるのではなく、断ち切る力を持つ者。百年に一人現れるかどうかという、稀有な存在だ」


 カイゼルが振り返る。その表情に、薄い笑みが浮かんでいた。


「そして俺は、その力を必要としている」


 彼の雰囲気が変わった。貴公子然とした仮面が剥がれ落ち、何か危険なものが顔を覗かせる。


「俺にはね、リーナ・アスティス。俺には、壊さなければならないものがある。この腐りきったたまゆら至上主義と、それに縋りつく愚かな貴族どもをな」


 これが、カイゼル・ヴァルトハイムの本性なのか。


「なぜ、そんなことを?」

「理由なんてどうでもいい。重要なのは、お前の力が俺の計画に必要だということだ」

「断ったら?」

「断れる立場か? 無響者で、おまけに化け物扱いされた哀れな令嬢が」


 言葉が胸を抉る。でも、事実だった。私にはもう、帰る場所なんてない。


 扉がノックされた。


「入れ」


 カイゼルが席に戻ると同時に、マグナスが入ってきた。老人は暖炉の前に立ち、優しい笑みを浮かべる。


「お嬢さん、体調はいかがかな?」

「はい、おかげさまで」

「それは良かった」


 マグナスは私とカイゼルを交互に見た。


「さて、単刀直入に申し上げよう。我々は、お嬢さんに提案がある」


 彼は懐から羊皮紙を取り出した。


「カイゼルとの、偽りの婚約だ」


 息を呑んだ。


「偽りの……?」

「そう。表向きは婚約者として振る舞ってもらう。だが実際は、協力関係だ」

「協力?」

「お嬢さんはカイゼルの『剣』となる。その逆響の力で、彼の敵を排除する。代わりに、ヴァルトハイム家はお嬢さんを保護する」


 マグナスの瞳が、鋭く光った。


「アスティス家の再興も、約束しよう」


 父の顔が脳裏に浮かぶ。没落寸前の我が家。このままでは、本当に滅びてしまう。


「考える時間を――」

「時間はない」


 カイゼルが割り込んだ。


「今すぐ決めろ。イエスか、ノーか」


 選択の余地なんて、最初からなかった。私は震える手で、羊皮紙を受け取った。


「分かりました。お受けします」

「賢明な判断だ」


 マグナスが満足そうに頷く。


「では、明日、王宮で正式な手続きを――」


 その時、窓ガラスが激しく震えた。


 何かが、外で起きている。



 私たちは急いで庭園へ出た。夕暮れの光が、噴水の水面をオレンジ色に染めている。


 その静寂を破って、獣のような咆哮が響いた。


「見つけたぞ!」


 塀の上に、人影があった。赤茶色の髪、琥珀色の瞳、そして――狼の耳と尻尾。


 獣人族の少女。


 少女は手に巨大な戦斧を持ち、殺気を放ちながらカイゼルを睨みつけていた。


「人間のフリした化け物! その精霊の臭い、隠せると思ったか!」


 精霊? カイゼルが?


 私が混乱している間に、少女は塀から飛び降りた。地面に着地すると同時に、カイゼルめがけて突進する。


「死ねぇ!」


 戦斧が振り下ろされる。カイゼルは素早く私を背後に庇い、腰の剣を抜いた。

 金属がぶつかり合う音が、庭園に響き渡る。


「アルテミシア・クリムゾンか……よく俺の正体に気づいたな」


 カイゼルが刃を受け止めながら、冷静に名を呼んだ。どうやら旧知の仲らしい。


「ふん! 獣人族の鼻を舐めるな! お前からは、精霊族の腐った匂いがプンプンするんだよ!」


 アルテミシアと呼ばれた少女が、さらに力を込める。カイゼルが僅かに後退した。


 私は何もできずに立ち尽くしていた。訓練なら見たことがある。けれどこれは……殺し合い。このままじゃ――。


 カイゼルが劣勢になり始めた。獣人族特有の身体能力に、押され始めている。

 私は腰の護身用短剣を抜いた。震える手で、それを構える。


「やめて!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 アルテミシアの動きが一瞬止まる。その隙に、私は二人の間に割って入った。


「お願い、やめて! カイゼルは……彼は私を助けてくれた人なの!」


 アルテミシアの琥珀色の瞳が、私を射抜く。


「はぁ? あんた誰よ?」

「リーナ・アスティス。今日、無響者(アノモス)と判定された、ただの人間よ」

無響者(アノモス)?」


 アルテミシアの表情が変わった。興味深そうに、私を観察し始める。


「ああ、あんた、大聖堂で起きた騒ぎの中心にいた奴か。面白い匂いがすると思ったら」


 彼女は戦斧を下ろした。でも、警戒は解いていない。


「なんで無響者が、精霊族なんかを庇うんだ?」

「精霊族って、どういうこと?」

「知らないのか? そいつ、半分精霊族の血が混じってる混血者(ハーフブリード)なんだよ」


 私は振り返ってカイゼルを見た。彼は苦い表情を浮かべている。

 金色の瞳の奥で、一瞬、蒼い光が揺らめいた。

 あの時、大聖堂で見た、あの光――。


「だから何だっていうの?」


 私は震えを押し殺して、アルテミシアに向き直った。


「彼が何者だろうと、私には関係ない。大切なのは、彼が私を助けてくれたということだけ」


 アルテミシアが目を丸くした。


 そして、突然、大声で笑い始めた。


「あははは! 面白い! 人間なのに、種族にこだわらないなんて!」


 笑い声が収まると、彼女は戦斧を背中に担いだ。


「気に入った。あんた、名前なんて言ったっけ?」

「リーナよ」

「リーナか。覚えとく」


 アルテミシアは、牙を剥いて獰猛な笑みを浮かべた。


「今日のところは見逃してやる。でも、今度会った時は容赦しないからな!」


 そう言うと、彼女は身を翻し、来た時と同じように塀を飛び越えて去っていった。


 庭園に、静寂が戻る。


 私は膝から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。短剣が、手から滑り落ちる。


 カイゼルが近づいてきた。


「なぜ、庇った?」


 私は顔を上げた。夕陽を背にした彼の表情は、逆光でよく見えない。


「分からない。ただ……」


 言葉を探す。でも、上手く説明できない。


「ただ、そうしなきゃいけない気がしたの」

「すまない」

「謝る必要は――」

「いや、アルテミシアはよく来るんだ」

「えっ?」

「あれは訓練の一環だと」

「えぇぇ……」

「気に入られたみたいだな……すまない……」

「えぇぇぇぇぇ……」


 カイゼルは手を差し伸べてきた。私はその手を取って、立ち上がる。


 彼の手は、思ったより温かかった。


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