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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第5章 千年の亡霊

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第29話 祖父の覚悟

 朝の光が、森の木々を金色に染めていた。


 一晩中、眠れなかった。ノエルの言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けている。私の中に眠るルナの魂の欠片。それが、ゼファーを止める鍵だという。


 カイゼルも同じように眠れなかったらしい。木に背を預けたまま、じっと何かを考え込んでいる。


「白銀の樫を探そう」


 突然、彼が口を開いた。


「祖父が言っていた場所だ」

「でも……」

「分かってる。でも、祖父が遺した言葉には意味があるはずだ」


 二人は立ち上がり、森の奥へと歩き始めた。


 ミスティアの森は、朝の光の中でも不思議な雰囲気を漂わせている。霧は薄れたが、どこか現実離れした美しさがあった。

 しばらく歩くと、巨大な樫の木が見えてきた。

 その幹は、銀色の光沢を帯びている。まさに「白銀の樫」と呼ぶにふさわしい姿だった。


「これが……」


 カイゼルが樫の木に近づき、その幹に手を当てた。すると、樹皮に刻まれた紋章が浮かび上がった。

 ヴァルトハイム家の紋章と、見慣れない別の紋章が並んでいる。


「精霊族の紋章だ」

「どうして二つの紋章が?」

「きっと、祖父と精霊族の誰かが、ここで何かを誓ったんだ」


 その時、木々の中から人影が現れた。

 いや、人間ではない。尖った耳と、透き通るような肌。精霊族だ。

 一人、また一人と姿を現す。全部で五人。皆、警戒するような目で私たちを見つめている。


「あなたは……エルフィアの子、カイゼル・ヴァルトハイムか」


 年長らしい精霊が、驚きの声を上げた。


「母を知っているのか」

「知っているも何も、私たちは同胞だ」


 精霊たちの表情が、少し和らいだ。


「私はシルヴァン。ゼファー様の支配から逃れた、穏健派の一人だ」

「穏健派?」

「千年の憎しみに囚われることを拒んだ者たちさ」


 シルヴァンが、カイゼルをじっと見つめた。


「君は『希望の子』だ」

「希望の子?」

「人間と精霊の血を引く者。二つの種族の架け橋となれる存在」


 精霊たちが、カイゼルの周りに集まってきた。その目には、期待の光が宿っている。


「ゼファー様を止めてくれ」

「あの方の狂気は、もはや誰にも止められない」

「このままでは、また悲劇が繰り返される」


 カイゼルが頷こうとした、その時――空気が急激に冷えた。

 木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。


「来る!」


 シルヴァンが叫んだ瞬間、黒い影が降り注いだ。


 ゼファーだった。


 銀白色の髪を風になびかせ、紅い瞳で精霊たちを見下ろしている。


「裏切り者どもか」

「ゼファー様、お待ちください」

「我に逆らう者は、同胞であろうと敵だ」


 凄まじい魔力が、周囲の空気を震わせた。


 カイゼルが剣を抜き、精霊たちの前に立った。


「母の同胞は、俺が守る」

「混血の子が、我に歯向かうか」


 ゼファーの手から、黒い稲妻が放たれた。カイゼルは双月剣でそれを受け止めるが、圧倒的な力の差に押し込まれていく。


 精霊たちも魔法で応戦するが、千年を生きる古の精霊の力には到底及ばない。


 一人、また一人と倒れていく。


 カイゼルも膝をついた。剣を支えに立とうとするが、もう限界が近い。


「終わりだ」


 ゼファーが、止めの一撃を放とうとした。


 その瞬間――血塗れの剣が、ゼファーの攻撃を弾いた。


 信じられない光景だった。


 ボロボロの姿で、しかし確かにそこに立っている。


「祖父上……!」


 マグナスだった。


 全身傷だらけで、左腕は力なく垂れ下がっている。それでも、その瞳には不屈の光が宿っていた。


「この儂の命に代えても……未来は渡さん……!」


 血を吐きながら、マグナスはゼファーを睨みつけた。


 老戦士の最後の覚悟が、森の空気を震わせた。


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