第27話 千年前の恋
霧が立ち込める森の入り口で、私たちは立ち尽くしていた。
三日間、ほとんど休むことなく走り続けた。王都から遠く離れたこの地まで。追手の気配は既にない。でも、心に刻まれた傷は消えない。マグナスの最後の叫びが、今も耳に残っている。
目の前に広がるミスティアの森は、濃密な霧に包まれていた。一歩踏み込めば、二度と戻れないような、そんな不吉な予感が漂っている。
「これが幻惑の結界……」
カイゼルが呟いた。その横顔には、疲労の色が濃い。でも瞳には、強い決意が宿っていた。
「精霊の血を引く者だけが、真の道を見出せる」
「本当に大丈夫なの?」
「母から聞いた話だ。精霊族は、招かれざる者を拒む」
カイゼルは目を閉じ、深く息を吸った。額に手を当て、意識を集中させている。
目を開く。瞳が青く輝いていた。精霊の血を覚醒させたのだろうか。
「見える……道が」
私には相変わらず、霧の壁しか見えない。でもカイゼルには、別の景色が映っているらしい。
彼は私の手を取った。
「俺を信じろ」
「……うん」
温かい掌に導かれ、霧の中へ足を踏み入れた。
途端に、世界が変わった。
霧は依然として濃い。が、確かに道がある。古い石畳が、森の奥へと続いている。両脇には巨大な樹々が立ち並び、その枝々が天蓋となって光を遮っていた。
どれほど歩いただろうか。太陽の位置も分からないまま、ただカイゼルの手を頼りに進み続けた。
やがて、霧が薄れ始めた。
視界が開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
廃墟だった。
かつては美しかったであろう建造物が、朽ち果てた姿を晒している。白い石造りの家々は蔦に覆われ、噴水は干上がり、広場には雑草が生い茂っていた。
「ここは……」
「精霊族の集落跡だ」
カイゼルの声が震えている。母の故郷を目の当たりにして、複雑な感情が渦巻いているのだろうか。
広場の中央に、人影があった。
銀白色の髪が、風もないのに揺れている。黒い外套を纏った姿は、三日前と寸分違わない。
「我が故郷へようこそ」
ゼファーだ。
傷一つない姿で、静かに佇んでいる。
「祖父は……」
「老いた戦士は見事であった。だが、千年を生きる我には及ばぬ」
カイゼルが剣に手をかけた。怒りで全身が震えている。
ゼファーは、戦う気配を見せない。カイゼルの怒気を風に柳と流し、懐かしむ表情で廃墟を見渡していた。
「千年前、この地は楽園だった」
「何の話だ」
「なぜ我が、これほどまでに執着するのか……ついてこい」
ゼファーが歩き始めた。私たちは警戒しながら後を追う。
崩れかけた家の前で、彼は立ち止まった。
「ここに、彼女が住んでいた」
「彼女?」
「ルナ……我が愛した人間の女性だ」
その名を口にした瞬間、ゼファーの纏う雰囲気が変わった。千年の時を経てもなお、その想いは色褪せていない。
「彼女は行商人の娘だった。道に迷い、この森に迷い込んだ」
ゼファーの視線が、遠い過去を見つめる。
「精霊族と人間の恋など、禁忌中の禁忌。だが我らは愛し合った。この集落で、密やかに」
「それが『沈黙の悲劇』に繋がったのか」
「そうだ。だが、世に伝わる話とは違う」
ゼファーが振り返った。紅い瞳に、深い憎悪が宿っている。
「戦争を引き起こしたのは、我らではない。我を妬んだ同族と、ルナを奪おうとした人間どもだ」
廃墟の中を歩きながら、ゼファーは語り続けた。
「奴らは我らの愛を『世界の秩序を乱すもの』と断じた。そして、戦争という大義名分の下、この地を焼き払った」
「ルナは……」
「我の目の前で、殺された」
その言葉に、胸が締め付けられた。
千年もの間、彼はその光景を忘れることができなかったのだ。
「彼女の魂は砕け散った。だが、完全には消えなかった」
ゼファーの視線が、私に向けられた。
「最も大きな欠片が、時を超えて、そなたの魂に宿った」
その言葉の意味が、理解できなかった。
「私がルナの……転生?」
「いや、違う。そなたはそなただ。だが、その魂の奥底に、彼女の欠片が眠っている」
ゼファーが一歩、また一歩と近づいてくる。
「双月の夜、永遠花の力を使えば、その欠片を核として、ルナは蘇る」
「それって……」
「そなたの体を器として、な」
血の気が引いた。つまり私は、彼の恋人を蘇らせるために――それはダメ。母は言っていた。死者の蘇生は世界の理を壊す。世界の崩壊を引き起こすと。
「お前は、我が愛のための生贄となれ」
ゼファーの宣告が、廃墟に消える。
カイゼルが激昂し、剣を抜いた。
「ふざけるな! リーナは物じゃない!」
「千年待った。もう、誰にも邪魔はさせぬ」
二人の間に、殺気が満ちていく。
私は震える手で、胸を押さえた。
この胸の奥に、見知らぬ女性の魂が眠っているなんて。
そして私は、その器でしかないなんて。




