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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第5章 千年の亡霊

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第26話 古の精霊

 マグナス公爵が書斎の壁に手をかざすと、重厚な本棚が音もなく横へ滑った。その奥には、暗闇へと続く石造りの階段が口を開けている。老公爵は振り返ることなく、カイゼルに向けて低い声を響かせた。


「王都から脱出しろ。儂ではもう抑えきれない」

「えっ?」

「気にするな。お前たちには未来がある」

「祖父上――」

「時間がない。騎士団の包囲網は刻一刻と狭まっておる」


 私はカイゼルの横顔を見上げた。月光に照らされたその表情には、祖父を残していくことへの葛藤が浮かんでいる。でも、今は立ち止まっている余裕などない。


 カイゼルが先に階段を降り始め、私も続いた。背後でマグナスの声が追いかけてくる。


「森に着いたら、古い友人を訪ねろ。『白銀の樫』が目印だ」

「白銀の樫?」

「行けば分かる」


 階段は螺旋を描きながら、地の底へと続いていた。壁に設置された魔法灯が、青白い光で足元を照らす。湿った空気が頬を撫で、遠くから水の流れる音が聞こえてきた。


 やがて階段が終わり、広大な地下水道の空間に出た。天井は高く、石造りのアーチが幾重にも連なっていた。足元を黒い水が音を立てて流れていく。


「ここからなら、王都の外まで抜けられる」

「こんな場所があったなんて」

「ヴァルトハイム家が代々守ってきた秘密の脱出路だ」


 カイゼルは私の手を取った。その掌は、微かに震えている。


「行こう、リーナ」


 薄暗い水路に沿って、二人で足を速めた。石畳の通路は滑りやすく、何度も足を取られそうになる。時折、頭上から騎士団の足音が響いてきて、その度に息を潜めた。


 どれほど進んだだろうか。水路が幾つも交差する広い空洞に出た。月光が格子の隙間から差し込み、水面に揺らめく光の紋様を描いている。


 その時だった。


 空間が歪んだ。


 現実そのものが捻じれ、引き裂かれていく感覚に全身が総毛立つ。カイゼルが私を背後に庇い、剣の柄に手をかけた。


 歪みの中心から、一人の男が姿を現した。


 腰まで届く銀白色の髪。紅い瞳は暗闇の中で妖しく光っている。黒い外套を纏ったその姿は、美しさと恐ろしさを同時に備えていた。見覚えがある。決闘のとき、観客席にいた男。瞬きすると消えていた男。


「精霊の血の香りを辿ってきたが……お前は……」


 男の視線がカイゼルから私へと移る。その瞬間、紅い瞳が見開かれた。


「この魂の響き……貴様がゼファー・ノクティスか」


 カイゼルが剣を抜き放った。


「ほう、我が名を知っているか、混血の子よ」

「リーナには手を出させない」


 カイゼルの双月剣エクリプスが蒼い光を放つ。しかしゼファーは、その威圧に微塵も動じる様子がない。むしろ、愉悦に口元を歪めている。


「手を出す? 違うな。我はただ、運命の再会を喜んでいるだけだ」


 ゼファーが前に踏み出す。その瞬間、圧倒的な魔力が空間を満たした。息が詰まるような重圧に膝が震えた。


 カイゼルが斬りかかった。蒼月のマナを纏った剣閃が、ゼファーの首筋を狙う。


 だが――ゼファーは指一本で、その刃を受け止めた。


「千年に満たぬ技など、児戯に等しい」


 軽く指を払うと、カイゼルの体が吹き飛ばされた。石壁に激突し、苦悶の声を上げる。


「カイゼル!」


 駆け寄ろうとした私の前に、ゼファーが立ちはだかった。紅い瞳が、じっと私を見つめている。その視線に射竦められ、体が動かない。


「そなたの魂に宿るもの……懐かしい響きだ」


 ゼファーが手を伸ばしてくる。その指先が私の頬に触れようとした、その時――ゼファーの手が、私の頬に触れる寸前で止まった。いや、止めたのではない。私の体から黒い火花が散り、彼の手を弾いたのだ。


「これは、逆響(リバース・レゾナンス)……? なるほど、そういうことか」


 ゼファーの表情に、初めて真剣な色が宿る。


「だが、それでも変わらぬ。そなたの魂の奥底に、あの者の欠片が眠っている」

「あの者……?」

「ルナ……我が永遠の伴侶よ」


 その名を口にした瞬間、ゼファーの纏う雰囲気が変わった。千年の孤独と狂気が、紅い瞳の奥で渦巻いている。


「ようやく見つけたぞ、ルナ。もう二度と離さぬ」


 ゼファーが再び手を伸ばす。今度は、逆響の力を上回る魔力を込めて。


 逃げられない。


 恐怖で体が竦み、声も出ない。


 その時だった。


「行けっ、カイゼル! その娘と共に未来を掴め!」


 轟音と共に地下水道の入り口が爆発した。瓦礫の中から、血塗れの剣を握ったマグナスが飛び込んできた。


「祖父上!」

「話は後だ! 今は逃げろ!」


 マグナスの剣がゼファーに迫る。千年を生きる精霊とて、不意を突かれれば体勢を崩す。その一瞬の隙を、老戦士は見逃さなかった。


 剣と魔力がぶつかり合い、凄まじい衝撃波が地下水道を揺るがす。


「行け! 行くのだ!」


 カイゼルが私の手を掴み、反対側の通路へと走り出した。振り返ると、マグナスとゼファーの姿が、光と闇の奔流に包まれていた。


 老公爵の咆哮が響いた。


「未来は……渡さん……!」


 激突する光が、視界を白く塗り潰した。


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