第24話 母の声
白い。
何もない、真っ白な空間に私は立っていた。
雨も、風も、痛みも、悲しみも、全てが消えていた。ただ静寂だけが支配する世界。足元を見ても、地面なのか空なのか分からない。境界のない白が、どこまでも続いていた。
ここは……どこ?
遠くに柔らかな光が見えた。その光の中から、誰かが歩いてくる。
銀灰色の髪。私と同じ色。優しい紫の瞳。見たことがない顔なのに、なぜか懐かしい。
「大丈夫よ、私の可愛い子」
その声を聞いた瞬間、理解した。
母だ。
ソフィア・アスティス。私を産んですぐに亡くなった、会ったことのない母。
「お母様……?」
声が震えた。信じられない。でも、この温かさは本物だと、心が告げていた。
母は優しく微笑んで、私に近づいてきた。その手が、私の頬に触れる。温かい。生きている人の手のように。
「ずっと見守っていたわ。ペンダントを通して」
「ペンダント?」
「私があなたに遺した、紫水晶のペンダント。私の魂の一部を込めていたの」
首元に手をやる。確かにペンダントがあった。幼い頃から身に着けていた母の形見。
母は私の手を取った。その瞬間、景色が変わった。
白い空間に、過去の映像が浮かび上がる。若い頃の父と、母が寄り添っている姿。二人とも幸せそうに笑っていた。
「あなたの力について、話さなければならないことがあるの」
母の表情が少し曇った。
「逆響者……私も持っていた力。でも、この力の本当の意味を、あなたは知らない」
「本当の意味?」
「その力は『断ち切る』ものではないの。『繋ぎ変える』ためのもの」
繋ぎ変える。母の日記にあった言葉だ。
映像が切り替わった。若い母が、誰かの前に立っている。その人は――父だった。でも、今とは違う。絶望に満ちた表情をしている。
「あなたのお父様は、かつてたまゆらの相手を失ったの。半魂者になって、生きる意味を見失っていた」
「お父様が半魂者?」
「そう。でも私は、逆響の力で彼の壊れかけた魂脈を繋ぎ変えた。新しい生きる意味へと」
映像の中で、母が父の胸に手を当てる。黒いオーラではなく、淡い紫の光が二人を包んだ。父の表情に、少しずつ生気が戻っていく。
「世界から零れ落ちた魂を、あるべき場所へと導く。それが、私たちの力の本質なの」
母の瞳に、悲しみが宿った。
「でも、この力には代償がある。使えば使うほど、自分の魂が削られていく」
景色が再び変わった。
今度は、どこか見知らぬ森の映像。銀白色の髪を持つ美しい男が、狂ったように何かを叫んでいる。その手には、枯れかけた花が握られていた。
「あの人を知っている?」
母の声が、緊張を帯びた。
「知らない。でも……」
なぜか胸騒ぎがした。あの紅い瞳に、底知れない悲しみと狂気を感じる。
「ゼファー・ノクティス。千年前の『沈黙の悲劇』の生き残り。精霊族の純血種」
「千年前?」
「彼は、人間の女性とたまゆらした。でも、戦争で彼女を失った。それ以来、彼女を蘇らせることだけを考えて生きている」
母の表情が、さらに深刻になった。
「彼が狙っているのは『永遠花』。双月峰に咲くという、奇跡の花。その花には、死者の魂を呼び戻す力があるという伝説がある」
「まさか、本当に?」
「分からない。でも、もし本当だとしても……」
母は首を振った。
「死者を蘇らせることは、世界の理を壊すこと。あの人は、私と同じ過ちを犯そうとしている。愛ゆえに」
私は母を見つめた。
「お母様も?」
「私も、あなたを守るために禁じられた術を使った。その代償が、私の命だった」
母の姿が、少し透けて見えた。
「時間がないわ。あなたは、ゼファーを止めなければならない。逆響の力を持つあなただけが、彼の歪んだ魂脈を正せる。死者の蘇生は世界の崩壊を引き起こす――決して越えてはならない一線」
白い空間が、揺らぎ始めた。
母の姿も、薄れていく。
「待って! まだ聞きたいことが」
「大丈夫。私が遺したものを見つけて。お父様の鍵で、私の部屋の奥の扉を開けなさい」
母は最後に、私を強く抱きしめた。
「愛しているわ、リーナ。ずっと、ずっと」
その言葉と共に、白い世界が砕け散った。




