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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第4章 三つ巴の恋慕

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第23話 伯爵家

 雨が冷たく降り注ぐ中、私は震える手で父の血を止めようと足搔く。

 けれど、血が止まらない。赤い命が指の間から溢れ出していく。


「しっかりして、お父様!」


 声が震えている。涙なのか雨なのか、頬を伝うものが冷たかった。


 治癒魔法が使えたなら。せめて応急処置ができたなら。でも、無響者の私には何もできない。この無力さが、胸を引き裂いていく。


 父の瞼がゆっくりと開いた。焦点の定まらない瞳が、私を探すように動く。


「リーナ……」


 掠れた声だった。血の混じった咳と共に、父は私の名前を呼んだ。


「お父様、喋らないで」


 父は震える手を上げようとした。私の頬に触れようとして、力なく落ちる。私はその手を取って、自分の頬に当てた。父の手は、氷のように冷たかった。


 父の唇が動いた。何かを伝えようとしている。私は耳を近づけた。


「すまなかった……」


 その言葉に、胸が締め付けられた。


「謝らないで。お父様は、あたしのことを思って……」

「違う……私は……お前の幸せより……家の名誉を……」

「いいの。もういいの」

「母さんのようには……なるな……」


 父の声が、次第に弱くなっていく。


「お前は……お前の幸せを……生きろ……」


 震える手で父は懐を探った。小さな、錆びた鍵を取り出す。私はそれを受け取った。古い真鍮の鍵だった。


「母さんの……部屋に……」


 父の手が、私の手を弱々しく握った。


「真実が……ある……お前を……守るための……」


 言葉が途切れた。父の瞳から一筋の涙が流れた。それは雨に混じって、すぐに見えなくなった。


「愛していた……ソフィアも……お前も……」


 父の瞳から光が消えていく。握っていた手から、力が抜けた。


「お父様?」


 返事はない。


「お父様!」


 揺さぶっても、もう父は動かなかった。



 どれくらいその場にいたのだろう。

 雨音に混じって、足音が聞こえた。振り返ると、カイゼルとアルテミシアが立っていた。二人とも雨に濡れて、息を切らしている。


 カイゼルの顔が青ざめていた。アルテミシアは顔がくしゃっとしていた。二人ともこの惨状を見て、言葉を失っていた。


「リーナ……」


 カイゼルが近づいてくる。けど、少し離れた位置で立ち止まった。

 隣のアルテミシアが拳を握りしめた。


「くそっ! 犯人の匂いが……でも、雨で薄まってる」

「黒い服の女だった」

「顔は見たか?」

「見た。でも、知らない人」


 私の声は、不思議なほど平坦だった。感情が、どこか遠くへ行ってしまったみたいに。

 カイゼルが意を決して私の隣に立つ。膝をついて、父の瞼を閉じた。その手つきは、とても優しかった。


「俺がもっと早く気づいていれば……」

「カイゼルのせいじゃない」


 そう言いながら、私は父の顔を見つめた。死んでもなお、苦悩の表情が残っている。最期まで、父は苦しんでいた。私のことで。家のことで。全てのことで。


 お父様はこれで楽になれたのだろうか。


 その思いで再び涙が溢れ出す。


 突然、私の中で何かが弾けた。


 悲しみが限界を超えた。


 父の死。母の不在。自分の無力さ。全てが一度に押し寄せてきて、心が耐えきれなくなった。


 私の周囲で、空気が震え始めた。


 雨が私の周りだけ蒸発していく。地面が凍りつき、ひび割れていく。黒い何かが、私の体から溢れ出していた。


「リーナ!」


 カイゼルが叫んだ。その声が遠い。


 アルテミシアが後ずさった。


「これは……やばい」


 もう何も見えなかった。

 もう何も聞こえなかった。

 ただ、果てしない暗闇が広がっていく。


 逆響者(リバース・レゾナンス)が、制御を失って暴走し始めていた。


 父の亡骸を抱いたまま、私は絶叫した。その声は、雨音も、風の音も、全てを飲み込んで夜の街に響き渡った。


 黒いオーラが渦を巻いて立ち昇る。それは巨大な柱となって、空へと伸びていく。


 カイゼルが近づこうとしたが、見えない力に弾かれた。アルテミシアも同じだった。誰も、私に近づけない。


 ――あたしを、一人にしないで。


 心の奥で、小さな声が叫んでいた。でも、その声は誰にも届かない。


 力の奔流の中で、私の意識は少しずつ遠のいていった。


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