第23話 伯爵家
雨が冷たく降り注ぐ中、私は震える手で父の血を止めようと足搔く。
けれど、血が止まらない。赤い命が指の間から溢れ出していく。
「しっかりして、お父様!」
声が震えている。涙なのか雨なのか、頬を伝うものが冷たかった。
治癒魔法が使えたなら。せめて応急処置ができたなら。でも、無響者の私には何もできない。この無力さが、胸を引き裂いていく。
父の瞼がゆっくりと開いた。焦点の定まらない瞳が、私を探すように動く。
「リーナ……」
掠れた声だった。血の混じった咳と共に、父は私の名前を呼んだ。
「お父様、喋らないで」
父は震える手を上げようとした。私の頬に触れようとして、力なく落ちる。私はその手を取って、自分の頬に当てた。父の手は、氷のように冷たかった。
父の唇が動いた。何かを伝えようとしている。私は耳を近づけた。
「すまなかった……」
その言葉に、胸が締め付けられた。
「謝らないで。お父様は、あたしのことを思って……」
「違う……私は……お前の幸せより……家の名誉を……」
「いいの。もういいの」
「母さんのようには……なるな……」
父の声が、次第に弱くなっていく。
「お前は……お前の幸せを……生きろ……」
震える手で父は懐を探った。小さな、錆びた鍵を取り出す。私はそれを受け取った。古い真鍮の鍵だった。
「母さんの……部屋に……」
父の手が、私の手を弱々しく握った。
「真実が……ある……お前を……守るための……」
言葉が途切れた。父の瞳から一筋の涙が流れた。それは雨に混じって、すぐに見えなくなった。
「愛していた……ソフィアも……お前も……」
父の瞳から光が消えていく。握っていた手から、力が抜けた。
「お父様?」
返事はない。
「お父様!」
揺さぶっても、もう父は動かなかった。
*
どれくらいその場にいたのだろう。
雨音に混じって、足音が聞こえた。振り返ると、カイゼルとアルテミシアが立っていた。二人とも雨に濡れて、息を切らしている。
カイゼルの顔が青ざめていた。アルテミシアは顔がくしゃっとしていた。二人ともこの惨状を見て、言葉を失っていた。
「リーナ……」
カイゼルが近づいてくる。けど、少し離れた位置で立ち止まった。
隣のアルテミシアが拳を握りしめた。
「くそっ! 犯人の匂いが……でも、雨で薄まってる」
「黒い服の女だった」
「顔は見たか?」
「見た。でも、知らない人」
私の声は、不思議なほど平坦だった。感情が、どこか遠くへ行ってしまったみたいに。
カイゼルが意を決して私の隣に立つ。膝をついて、父の瞼を閉じた。その手つきは、とても優しかった。
「俺がもっと早く気づいていれば……」
「カイゼルのせいじゃない」
そう言いながら、私は父の顔を見つめた。死んでもなお、苦悩の表情が残っている。最期まで、父は苦しんでいた。私のことで。家のことで。全てのことで。
お父様はこれで楽になれたのだろうか。
その思いで再び涙が溢れ出す。
突然、私の中で何かが弾けた。
悲しみが限界を超えた。
父の死。母の不在。自分の無力さ。全てが一度に押し寄せてきて、心が耐えきれなくなった。
私の周囲で、空気が震え始めた。
雨が私の周りだけ蒸発していく。地面が凍りつき、ひび割れていく。黒い何かが、私の体から溢れ出していた。
「リーナ!」
カイゼルが叫んだ。その声が遠い。
アルテミシアが後ずさった。
「これは……やばい」
もう何も見えなかった。
もう何も聞こえなかった。
ただ、果てしない暗闇が広がっていく。
逆響者が、制御を失って暴走し始めていた。
父の亡骸を抱いたまま、私は絶叫した。その声は、雨音も、風の音も、全てを飲み込んで夜の街に響き渡った。
黒いオーラが渦を巻いて立ち昇る。それは巨大な柱となって、空へと伸びていく。
カイゼルが近づこうとしたが、見えない力に弾かれた。アルテミシアも同じだった。誰も、私に近づけない。
――あたしを、一人にしないで。
心の奥で、小さな声が叫んでいた。でも、その声は誰にも届かない。
力の奔流の中で、私の意識は少しずつ遠のいていった。




