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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第4章 三つ巴の恋慕

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第22話 暗殺者の刃

 アスティス家の薄暗い書斎で、ヴィクトール・アスティスは震える手で羽根ペンを握っていた。


 机の上には何枚もの書きかけの手紙が散らばっている。どれも途中で破り捨てられ、くしゃくしゃに丸められていた。手元のグラスには、琥珀色の液体が半分ほど残っている。


 窓の外では雨が降り始めていた。雨粒が窓ガラスを叩く音が、静寂を破って響く。


 ――これで良かったのだ。


 ヴィクトールは自分に言い聞かせるように呟いた。カイゼル・ヴァルトハイムの正体が露呈し、王都は大混乱に陥っている。精霊族の血を引く者が、これまで王国の中枢近くにいたという事実に、誰もが恐怖していた。


 この混乱こそが、娘を取り戻す絶好の機会だった。


 新しい羊皮紙を広げ、ヴィクトールは再び筆を走らせる。宛先は、かつて縁談を持ちかけていたダークホルム家。成り上がりの新興貴族だが、今や響晶石(きょうしょうせき)貿易で莫大な富を築いている。そして何より、あの家の御曹司ルシウスは、リーナに執着していた。


 ――娘の幸せのためだ。あの呪われた力を持つ娘が、普通の幸せを掴むには、これしか方法がない。


 酒を煽りながら、ヴィクトールは手紙を書き続けた。震える文字が、父親の迷いと罪悪感を物語っていた。



 夜の八時半、ヴィクトールは外套を羽織って屋敷を出た。


 雨は本格的に降り始めている。街灯の光が雨に濡れた石畳を照らし、不規則な光の模様を作り出していた。リーナの父、ヴィクトールが民衆に見つかれば、あらぬうわさがたつ。人通りの少ない裏路地を選んで歩く。表通りは、まだカイゼルの件で騒然としていた。

 角を曲がったところで、ヴィクトールは足を止めた。

 路地の奥に、誰かが立っている。


 黒いドレスを着た女性。艶やかな黒髪が、雨に濡れて肌に張り付いている。深紅の瞳が、暗闇の中で妖しく光った。


「こんな夜更けに、お一人でお出かけですか?」


 女性の声は、甘く、そして冷たかった。


「君は……」

「うちの名前なんて、覚えていただかなくて結構ですわ」

「何が目的だ」

「少し、お静かにしていただきましょうか」


 女性が歩み出た。その手に、細い刃物が握られてい。雨に濡れた刃が、街灯の光を反射して鈍く輝いた。


 ヴィクトールは後ずさりしようとしたが、既に遅かった。女性の姿が、一瞬でぼやけて消える。次の瞬間、彼女はヴィクトールの背後に立っていた。


「娘さん、気の毒でしたね」


 エレナの囁きが、ヴィクトールの耳元で響いた。



 ヴァルトハイム公爵邸の客室で、私は窓の外を見つめていた。


 雨が激しさを増している。ガラスを伝う雨粒が、涙のような筋を作っていく。


 カイゼルは軟禁状態にある。王都全体が、彼をどう扱うべきか混乱していた。精霊族の血を引く者を処刑すべきだという声もあれば、これまでの功績を考慮すべきだという声もある。


 私の父は、彼のことをどう捉えているのだろう。胸騒ぎがした。言いようのない不安が、心臓を締め付ける。


 ノックのあと、アルテミシアが部屋に入ってきた。彼女の表情も、どこか落ち着かない。


「リーナ、大丈夫か?」

「ええ、でも……」

「あたしも嫌な予感がする」


 アルテミシアが窓を開ける。風でカーテンが揺れ、雨が入ってくる。


「この匂い……雨で薄れてるけど」


 アルテミシアの鼻がぴくりと動いた。獣人族の鋭い感覚が、何かを感じ取っているのだ。


「血の匂いだ。それも、新しい」

「まさか」


 私は立ち上がった。もう我慢できなかった。父に会いに行かなければ。たとえ歪んだ形であっても、彼は私の父親なのだから。


「待て、危険だ!」

「でも、行かなきゃ!」


 アルテミシアの制止を振り切って、私は部屋を飛び出した。廊下を走り、階段を駆け下りる。背後でアルテミシアが何か叫んでいた。

 雨の中へ飛び出した。冷たい雨が全身を濡らしていく。けれど、そんなことはどうでもよかった。

 足が勝手に動いた。家への近道、裏路地を走っていく。


 息を切らしながら走っていると、信じたくない光景が私の目に飛び込んできた。


 血溜まりの中に、父が倒れていた。


 その傍らに、黒いドレスの女性が立っている。手に握られた刃物から、赤い雫が滴り落ちていた。


 女性がゆっくりと振り返る。深紅の瞳が私を捉えた。


「あら……」


 その顔に、一瞬だけ驚きの表情が浮かんだ。計算外だったのだろう。私がここに現れることは。


「お父様!」


 私の絶叫が、雨の音を突き破って響いた。


 女性は舌打ちをすると、最後の一撃を加えようと刃を振り上げた。しかし、私の叫び声に一瞬ためらう。


 その隙に、父が苦しそうに顔を上げた。血で汚れた唇が、私の名前を呼ぼうとして動く。


「リー……ナ……」


 女性は私を一瞥すると、素早く身を翻した。黒い影となって、闇の中へ消えていく。追いかける余裕などなかった。

 私は父の元へ駆け寄った。膝をついて、震える手で父を支える。

 傷は深かった。腹部から、止めどなく血が流れ出している。雨がその血を薄め、赤い水となって石畳に広がっていく。


 「ダメ! 死なないで!!」


 必死に傷口を押さえる。血は指の間から溢れ出す。治癒魔法が使えたなら。でも、無響者の私には何もできない。

 絶望が、雨のように冷たく心に降り注いだ。


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