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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第1章 婚約破棄と契約

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第2話 壊れた響き

 カイゼルの腕の中で、私は朦朧としながらも、ギリギリで意識を保っていた。会場の喧騒が、遠い波音のように聞こえてくる。左手首の痣はまだ熱を持っているが、さっきの激痛は嘘のように消えていた。


 金色の瞳が私を見下ろしている。その瞳の奥に、さっき見えた蒼い光はもうなかった。


「余に説明してもらおうか、ヴァルトハイム公爵の倅よ」


 レオニード国王の威厳ある声が、大聖堂に響き渡った。玉座から立ち上がった国王の顔には、明らかな不快感が浮かんでいる。


「神聖なるたまゆら(ソウル・レゾナンス)の儀を、何故妨げた?」


 カイゼルは私を支えたまま、ゆっくりと顔を上げた。その表情に恐れはない。むしろ、退屈そうですらあった。


「妨げた、ですか」


 彼の声は静かで、それゆえに不気味だった。


「陛下こそ、目の前で起きていることがお分かりにならなかったのですか? この娘が暴走して、会場が大混乱に陥っていたというのに」


 国王の眉がぴくりと動く。


「それは――」

「儂から説明させていただきましょうか」


 低く、重みのある声が割って入った。カイゼルの祖父、マグナス・ヴァルトハイム公爵が、貴族席から立ち上がる。老いてなお背筋の伸びた、威風堂々とした姿だった。

 彼はゆっくりとカイゼルのそばまで歩み寄り、国王と対峙した。


「陛下、孫は英雄的行為をしたまでのこと。このまま放置していれば、響晶石が完全に破壊され、大神殿に取り返しのつかない被害が出たでしょう」


 国王が口を開きかけるが、マグナスはそれを制するように続けた。


「それに、この娘を見てください。明らかに魔力の暴走です。無響者だと思われていた者が、実は特殊な力を持っていた。これは調査が必要な案件ではありませんか?」


 私は霞む意識の中で、マグナスの言葉を聞いていた。特殊な力……それが、私の中にあるというの?


 セレスティア王女が甲高い声を上げた。


「何を馬鹿なことを! この化け物は無響者よ! さっさと処分すべきですわ!」

「化け物、ですか」


 カイゼルの声が、氷のように冷たくなった。


「では王女殿下、あなたは先ほどの現象を説明できるのですか? 無響者が、どうやってたまゆらカップルたちの魂脈(ソウル・ヴェイン)を乱すことができたのか」


 セレスティアが言葉に詰まる。その隙を逃さず、マグナスが畳みかけた。


「陛下、提案があります。この娘はヴァルトハイム家でお預かりいたしましょう。その力が何なのか、王国にとって脅威となるのか利益となるのか、我々が責任を持って調査いたします」

「それは――」


 国王が躊躇っていると、貴族席から大声が響いた。


「待ってください!」


 私の父、ヴィクトール・アスティスが、蒼白な顔で歩み寄ってきた。恐怖と、怒りと、そして何か別の感情が混じり合った顔で。


「娘を……リーナを返してください。アスティス家の娘は、私が責任を持って――」

「責任?」


 カイゼルが鼻で笑った。


「あなたに何の責任が取れるというのです、アスティス伯爵。没落寸前の下級貴族が」


 父の顔が真っ赤になる。屈辱に震える拳を、必死で抑えている。


「それでも、私は父親だ!」

「父親、ね」


 カイゼルは私を抱え直し、父の前に踏み出した。


「では、なぜ娘が苦しんでいる時、あなたは席から立ち上がりもしなかった? なぜ、娘が侮辱されている時、一言も擁護しなかった?」


 父が息を呑む。図星だった。


 カイゼルは続けた。


「没落するアスティス家よりは、ヴァルトハイム公爵家の方がマシな場所でしょう。少なくとも、我々は彼女を『化け物』とは呼ばない」


 その言葉に、父の肩が震えた。


「リーナ……」


 父が私の名を呼ぶ。その声には、後悔と、諦めと、そして僅かな安堵が混じっていた。


 私は口を開こうとした。でも、声が出ない。身体に力が入らない。


 国王が重々しく宣言した。


「よかろう。リーナ・アスティスは、当面の間、ヴァルトハイム公爵家の保護下に置く。その力について調査し、後日報告せよ」

「御意」


 マグナスが深々と頭を下げる。


 カイゼルは私を抱きかかえたまま、大聖堂の出口へと歩き始めた。貴族たちが道を開ける。恐れと好奇の視線が、私たちを追いかけてくる。


 出口に向かう途中、私はユリウス王子の視線を感じた。彼は王族席から、悲しげな表情で私を見つめていた。その隣では、セレスティアが憎々しげに睨みつけている。


 カイゼルの歩調は乱れない。堂々と、何の迷いもなく、彼は私を外へと運んでいく。



 大聖堂の正面玄関を出ると、午後の陽光が眩しかった。ヴァルトハイム公爵家の紋章が描かれた黒い馬車が、すでに待機していた。


 カイゼルは私を馬車の座席に座らせた。柔らかいビロードのクッションが、疲れ切った身体を優しく受け止める。


 彼は向かいの座席に腰を下ろした。扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。


 大聖堂が遠ざかっていく。私の人生が、音を立てて崩れていく。


 でも、不思議と絶望は感じなかった。むしろ、何か新しいものが始まる予感がしていた。


「なぜ……」


 言葉を絞り出す。声は掠れていた。


「なぜ、私を……」


 カイゼルは窓の外を見たまま答えた。


「さあな」


 そして、彼は私の方を向いた。金色の瞳が、射抜くように私を見つめ、薄く笑みを作った。


「ただ、一つだけ言えることがある。俺は、お前の運命を買いに来た男だ」


 言葉の意味が分からない。再び私の左手首の痣が、熱く脈打ち始めた。

 何かが、始まろうとしている。

 私にはまだ、それが何なのか分からなかった。


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