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伯爵令嬢は公爵様の『錨』となる ~偽りの婚約から始まる、たまゆらに縛られない本当の愛~  作者: 藍沢 理
第4章 三つ巴の恋慕

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第19話 三つの心

 大神殿の審問室は、息が詰まるような重圧に満ちていた。天井まで届く柱には、歴代の大神官たちの肖像画が掲げられ、その全てが私を見下ろしているように感じられた。


 私は部屋の中央に置かれた、石造りの椅子に座らされていた。被告席と呼ばれるこの場所は、処刑台を思わせるほど冷たくて硬い。


 正面の高い壇上には、白い法衣を纏った大神官が座っている。その隣には、セレスティア王女が証人として着席していた。エメラルドグリーンのドレスが、朝の光を受けて輝いている。完璧な微笑みを浮かべているが、その瞳には冷たい満足感が宿っていた。


「では、審問を開始する」


 大神官の声が、広い部屋に響き渡った。老いた声だったが、威厳に満ちている。


「リーナ・アスティス。お前は禁術『刻印の誓い』を使用した疑いがある」

「身に覚えはありません」

「だが、多くの証言がある」

「証言とは、誰のものですか」

「それを明かす必要はない」


 大神官は、手元の書類をめくった。


「お前は無響者でありながら、ヴァルトハイム公爵と婚約した。不自然ではないか」

「公爵様が、私を選んでくださいました」

「なぜだ」

「それは……」


 言葉に詰まった。偽りの契約だとは、言えない。


 セレスティアが立ち上がった。


「わたくしから、証言させていただいてもよろしいでしょうか」

「どうぞ、王女殿下」


 彼女は優雅に一礼すると、私を見た。その瞳に、勝利の確信が見えた。


「この女は、たまゆらの秩序を乱す存在です。無響者でありながら、高貴な血筋の方々を惑わし、混乱を招いている」

「具体的には?」

「ヴァルトハイム公爵家の御曹司だけでなく、兄であるユリウス王子まで、この女に心を奪われているのです」


 審問室がざわめいた。傍聴席にいる貴族たちが驚きの声を上げる。


「これは明らかに不自然です。何か邪な術を使っているとしか」

「なるほど」


 大神官が頷いた。


「リーナ・アスティス。反論はあるか」

「私は何も術など使っていません」

「では、どうやって説明する。無響者のお前が、なぜこれほどの方々に」

「それは……」


 また言葉に詰まった。答えようがない。私自身、分からないのだから。


 その時、重い扉が開いた。


 カイゼルが入ってきた。黒い正装に身を包み、堂々とした足取りで歩いてくる。金色の瞳が、真っ直ぐに大神官を見据えていた。


「ヴァルトハイム家のカイゼルだ」

「何用か」

「彼女の弁護人として参った」

「弁護人? 公爵が?」


 大神官の眉が動いた。


「審問会に、弁護人など」

「古い法にある。被告人は、弁護を求める権利があると」


 カイゼルは私の隣に立った。その存在が心強かった。


「では、聞こう。彼女が禁術を使ったという証拠はどこにある」

「証言がある」

「証言だけか。物的証拠は?」

「……ない」

「禁術を使えば、必ず魔力の痕跡が残る。調べたのか」

「それは……」


 大神官が言葉に詰まった。


 カイゼルは続ける。


「調べていないだろう。なぜなら、最初から彼女を有罪にするつもりだったからだ」

「無礼な!」

「事実を述べているだけだ」


 彼の声は冷静だったが、そこには確固たる意志があった。


「証拠もなく、ただの噂だけで人を裁くのか。それが大神殿の正義か」

「しかし、この女は無響者だ。それだけでも」

「無響者であることは、罪ではない」


 カイゼルの言葉が、審問室に響いた。


「この国の法のどこに、無響者を罰する条文がある。示してみろ」


 大神官は答えられなかった。セレスティアの顔が、青ざめていく。


「ならば、この女の存在自体が悪なのです!」


 セレスティアが叫んだ。完璧な仮面がついに崩れた。


「無響者のくせに、高貴な方々を惑わし、秩序を乱している! 私は……いえ、わたくしは許しません!」

「そこまでだ、セレスティア」


 静かな声が響いた。


 別の扉から、ユリウスが入ってきた。王子の正装を纏い、青い瞳は厳しい光を宿している。


 セレスティアが息を呑んだ。


「兄様……」

「君の言葉は、感情論でしかない」


 ユリウスは妹の前に立った。


「彼女を罰する法は、この国にはない。私がそれを許さない」

「兄様、なぜこの女を」

「彼女は、何も悪いことをしていない」


 ユリウスの声が、審問室全体に響き渡った。


「無響者であることが罪なら、この国の三割の民が罪人ということになる。そんな理不尽を、王子として認めるわけにはいかない」


 大神官が立ち上がった。


「しかし、王子殿下。嫌疑は」

「嫌疑だけで人を裁けるのか」


 ユリウスの視線が、大神官を射抜いた。


「証拠もなく、ただの疑いだけで。それが正義だというなら、私はその正義を認めない」


 審問室が静まり返った。王子の言葉の重さが、全ての人を黙らせていた。


 大神官は深く息を吐いた。


「……分かりました。証拠不十分により、リーナ・アスティスへの嫌疑を取り下げます」

「大神官様!」


 セレスティアが声を上げたが、大神官は首を振った。


「王子殿下のおっしゃる通りです。証拠なしに人を裁くことはできません」


 審問会の終了が告げられた。傍聴席の貴族たちが、驚きと困惑の表情で立ち上がる。


 私は、まだ実感が湧かなかった。助かったのだと。カイゼルとユリウス。二人が、私を守ってくれた。

 三人が審問室の中央で、互いを見つめ合った。

 カイゼルの金色の瞳。ユリウスの青い瞳。そして、私の紫の瞳。

 三つの心が、この場所で交錯していた。

 それぞれの想いを抱えて。


「君と話がある」


 ユリウスが、カイゼルを真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、真剣そのものだった。

 カイゼルも、その視線を受け止めた。


「……分かった」


 二人の間に、見えない緊張が走った。


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