跳躍する小鳥の刃 13
‐エストーラ、ベルクート宮‐
ケヒルシュタイン発、サンクト・ムスコールブルク着の定期蒸気船は、両国以外には秘匿されていた。未だに魔術の力が優勢な他国にとっては、それを知り得たとして、どれ程の価値があるのかという問題もある。勿論、更なる強さに繋がるのだろうが、全ての都市でその素地があるとは言い得ない。例えば、妄信の病の最中、劇場でワルツを踊る国などは。
私はふと、懐かしい弱い皇子の事を思い、プロアニアの低い空を思い起こす。エストーラの町は今も新皇帝の祝い騒ぎだが、プロアニア人は国王感謝祭はおろか、建国祭ですら店を続けていた。まるで、その休日は貴族から金をもぎ取る為の好機だとでも言わんばかりに。
「やぁ、進捗はどうかな?」
私はすぐさま振り返り、頭を下げる。シーグルス帝は私に向けて軽く手を挙げる。貴族連中はどれもこれもシーグルス帝に忠誠を誓うと明言し、エストーラの諸都市は次々に聖典派の聖言派排斥運動を始めた。もはや教会に暴動を食い止める力はなく、肥えた羊は崩れ落ちた玉座の下で尻を詰まらせて呻くばかりだ。守護者を亡くした彼らに待つのは、政治からの退却と、神権安定のための布教活動のみだ。
「国内の政策は万事順調と言えましょう。民は皆、新たなる法の光を前にして陛下を敬愛し、聖典を手に祈りを捧げております」
「国庫と皇帝財産の分離、夜警隊の公式登用は、僕にとってはいずれも少々難しい問題だった。君のバランス感覚のお陰だよ」
陛下は私に微笑みかける。政権の安定期に至り、私達は法典の大改革へと着手し始めた。啓蒙君主が初めに手を加えたのは、国内の不安分子を粛清するための、「民衆」による自警組織の構築だった。そして、借金に苦しんできた皇帝たちの二の舞を踏まぬよう、国庫と皇帝一族の私財との分離だ。
そして、今後陛下が視野に入れるのは、帝国を分断された巨大な同盟から、統一された行政主体へと変化させ、「王国」同様の運営を達成させる事だ。当然旧領邦からの大規模な反発は免れないだろうが、既にプロアニアという有力な領邦を外に置く事で、これを解決すべく動き始めている。
その第一歩が「内政改革」、第二歩が「アドラーの大火」であれば、第三歩はプロアニアとの開戦、そして勝利であり、ここに至る事が盤石の帝国を築く最終段階である。
そして、カペルとの戦いに備えるブリュージュへの道路建設を為すことが出来れば、常に国境を脅かされるカペルとの小競り合いにも対応できるようになる。大戦争に備える資財は、領邦と皇帝によって培われるであろう国庫によって負担されるため、エストーラ一族の財政が底をつく恐れは今までよりも遥かに少なくなる。陛下はその第一歩を、僅か数か月で強行したのだ。
しかし、タイミングの悪い事に、悪運の良い一匹の鼠が逃げ出して久しいのも事実である。私は自らの果たした成果には誇りを持ったが、それ以上に不安も抱いた。
「恐縮です。しかし、外の問題はあまりうまくいっていないようですね」
「あぁ、困ったものだね。エルドがこれ程しぶといとは思わなかった」
「いえ、それだけではありません。プロアニアは今も盤石に体制を保っています。アドラーの大火の問題もございましょう」
窓からの光を一身に受けて、陛下は微笑する。思わず身震いするような、妖艶で不気味な笑みだ。
「僕の選択が間違っていたと、そう言いたいわけだね?」
陛下は玉座に腰かけず、日光だけでその権威を示す。部屋の奥は薄暗く、その瞳も半分は光を無くしている。逆光の中で、白い歯だけが爛々と光を放つ。
「……恐れながら、申し上げます。確かに、ムスコール大公国の力が落ちている今しか、プロアニアからブリュージュへ至る行路を作るチャンスはありません。カペルは自らのミトラと王冠に満足しております故、プロアニアの分割統治という手で黙らせることも出来ましょう。しかし、相手はプロアニア、霧と煤煙に匿われた大国です。その全貌が未知数であることも鑑みれば、簡単に突破できるものではありません」
頭に血がのぼり、呼吸が荒くなる。鋭い視線と悍ましい微笑が目に入る。悪魔が仮面を被ったような圧倒的な威圧感に押しつぶされそうになる。
「僕には見えるさ。この星の、何もかもがね」
「……星の秘跡ですか」
一世紀前から、エストーラ皇帝が代々研究する星と同じ目を得る魔術さえあれば、確かにプロアニアをその目で見下ろすことは叶う。陛下は口の端で笑った。
「それもあるし、それだけでもない」
陛下はゆっくりと私に向き直る。開かれた窓から颯爽と風が飛び込むと、陛下の錦糸のような髪が靡いた。息つく間もなく、陛下は私の背後に移動する。まるでそこに続く扉でもあったかのように、スムーズに、呆気なく背後から手を伸ばした。
「君の行く末も見えるさ、僕ならね」
ひたり。頬をなぞる汗が滴り落ちる。陛下は帯刀した剣にゆっくりと手を伸ばし、ゆっくりと剣を抜く。私はこわばった笑みで乾いた笑い声を上げる。
「御冗談を、陛下」
「勿論冗談さ。君が僕の意見を聞き、賛同してくれるならね」
耳元で瑞々しい声が響く。鼓膜が揺れる感覚に身震いする。陛下は私の肩を二、三度叩くと、いつもの爽やかな表情で部屋を出た。
取り残された私の前には、新たな政策の企画案が置かれていた。「都市法」の新たなページに、聖言派の排斥に関する対策が事細かに規定されていた。
私は思わず息を飲む。大衆迎合の税制改革、個人の私有財産の容認。気づけばクーデター後の忠臣も半数にまで減ってしまった。もはや陛下には、貴族など邪魔な存在でしかないのか。私はその草稿を握りつぶす。
この国を出なければ。私の中の何かが、はっきりとそう囁いた。




