表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/176

赤髭の王冠 20

 人々が寝静まった後の公会堂は、人の死を弔う礼拝堂に似て、ヒンヤリとした空気が漂う。廊下を巡回する警備員はさながら墓守か。

 ガス灯が灯って暫く、エルドが寝息を立てて幾らか時間が経ってから、私はフランチェスカ嬢の様子を確認することにした。

 女性の部屋に入るのは気が引けるというものだが、あのような思わせぶりな態度を取られては、気にならないはずもない。揺れ動く天球は薄く覆われた煤煙の膜に阻まれ、点滅するガス灯とカンテラの明かりが私の足元を照らしては消える。

 フランチェスカ嬢の部屋の前に立つと、窓の向こうには途端に重苦しい瘴気のような霧が立ち込める。先程まで細々と瞬いていた星も、今はその輪郭さえも見せない。

 二、三度深呼吸をし、扉をノックする。数秒後に、落ち着いた声で「はい」と返事が返された。

「エルヴィンです」と答えて数秒後に、扉が開かれた。ランジェリー姿のフランが、不用心にも真っ赤な目で出迎えてくれた。

 私の微妙な表情を察してか、彼女は自分の服装を整えるために中に引っ込もうとする。私は、少々吹き出しながら、彼女を止めた。


「いえ、私も似たようなものです。そのままでいいですよ」


「いいえ、殿方に貞操で気を遣われるのは、淑女として恥ずべきことだわ。待っていて頂戴」


 そういってスリップの裾をふわりと浮かせ、扉を閉める。勿論、普通の紳士の前であれば開ける前に着替えるのが普通であるが、長らく寝食を共にした私の前では、そこまで気を遣わなくても良いのに、と思ってしまう。勿論、余りの不用心に思わず顔を引き攣らせた私に責任があることは言うまでもないのだが。


 数分かけて、彼女は簡単な服装に着替えて私を中に通した。


「別にブラウスでもかければよかったのではありませんか?」


「……本当に不用心だったわ。出来れば、ルーデンスドルフ家の者としての誇りは捨てたくないのに」


 彼女は今まさに就寝しようと構えていたようで、私がさり気なくガス灯のランプに触れると、少し熱を帯びていた。

 ガス灯を灯すと、彼女の腫れあがった瞼がはっきりと視認できるようになる。何かがあったことは直ぐに察せられたが、敢えてその話は避ける事にした。


「ディートハルト卿とは今日が初対面でしたか?」


「いいえ、舞踏会で一度。あちらも覚えてみえたけれど、相変わらずかっこいい叔父様ね」


 彼女は目の腫れ具合など何てことのないように、酷く淡々と言ってのけた。私が話題を広げようとすると、彼女はそれに言葉をかぶせてくる。


「……お心遣いありがとう。でも、いいわ。今日は道端で騒動に巻き込まれてね」


「あぁ、新聞社の件でしたか……」


 我々貴族にとっては、マスメディアは中々御し難いものだ。彼らの行動原理は単純であるが、過激であればあるほど、狼藉を働くものが多い。私も何度か呆れさせられたものだ。


「送迎車の前に飛び出して無理矢理止めてくるんだもの。困ってしまうわ」


「それは厄介な者に出くわしましたね……。お気の毒に」


 私は彼女が席に着いたのを確認すると、その向かいの席の横に立つ。すぐに彼女が手で私に座るように勧めたので、それに従って席に着いた。彼女は目の周りを赤く染めながらも、余裕を含んだ笑みを湛え、肘掛けに肘をつく。オレンジのガス灯の傍らにはティーカップのセットがあり、薄茶色の水滴がカップの中を彷徨っている。数日間ゼンマイを巻かれていない時計が活動を停止し、カップの中に留まったままの水滴を見つめている。


「どうなのかしらね?取材班パパラッチは、被害者だって悪者にしたがるのよ」


 私は口を結ぶ。大衆と貴族の認識に大きな乖離がある、と言う事実を明示したのは、マスコミュニケーションの成果と言える。そして、民衆は貴族への不信感を益々抱くようになり、対する貴族は衆愚の余りの下品さに失笑交じりに頁をめくる。ただ、経済新聞と政治新聞だけが、二つの領域を超えて共有するところとなった。

 仕事柄、私は各誌を読み込むため、暇さえあればコーヒーハウスに入り浸っているが、特に大衆紙であるノス・ゲインズ社‐彼らの仕事の拙速さは、目に余るところである‐の取材班は、はじめから悪者扱いを前提の取材をすることで有名である。


「ノス・ゲインズ社はいつも貴族の悪口ばかりを叩く新聞です。気にするだけ無駄と言うものです」


 彼女は静かに窓の向こうを見つめながら、「そうね……」と呟いた。


 窓の向こうには霧がかかっている。煤煙と合わさって灰色に曇ったそれは、ゲンテンブルクを彩る文明の叡智たちを全てかすませる。煉瓦の歩道や馬車の石畳、高速道路のコンクリートまでを覆い隠し、通り過ぎていく黒い高級車の中の人々が目を細めて進む。通り過ぎた後に残るのは、垂れ流された廃棄物だけだ。それを追いかけるように、石畳の上を常軌を逸した速度で走る馬車が一台。それはコンクリートの道への出入り口から、滑るように走る車を追いかける。


 私は、彼女の求める答えを持っていないのだな、と確信した。彼女は理解を求めているのではないのだと、慰みを求めているのだと。私は、彼女に小さな筆記セットを手渡した。首にかけて持ち運ぶことのできる、私も愛用しているものの予備だ。

 彼女は説明を求めるように私を見る。私は黙って笑顔を返した。


 彼女は、呆れたように鼻を鳴らす。


「エルドじゃないんだから、こんな慰みは不要よ」


「いいえ、エルド様ではないからこそ、貴方には慰みが必要です」


 彼女は呆気に取られて硬直する。

 今後もパパラッチは彼女について回るだろう。その時に支えとなるものが何なのかは、私でなくとも判りきった事だ。


 彼女はそれを首にかける。筆記セットのペン壺はしっかりと取り付けられた蓋の縁を鈍く輝かせ、小さなペンは万華鏡のようにキラキラとオレンジ色の光を反射している。


「……貴方、これは少し重いんじゃないかしら?」


「これから生き残るためだと思ってください」


 その小さな筆記用具が、きっと貴方にとって重い時間を作ってくれる事を信じて。


「あぁ、こんな時間なのね……。ムスコールブルクへ行く支度をしなくちゃ」


 彼女はそう言って時計に目を向ける。そのままそれを手に取り、静かにゼンマイを回す。かちり、かちり。命を吹き込まれたゼンマイは止まっていた時間を動かし始めた。私は、カペルへ向かう覚悟と共に、彼らを送り出す覚悟を決めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] フランチェスカ嬢がどんどん不憫キャラに……! エルヴィンとお別れするのつらいです。 いや、つらいのもあるけど不安が5割。 はたして大丈夫なのでしょうか二人で…。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ