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赤髭の王冠 17

 僕は部屋の窓から、ゲンテンブルクの夜景を描いていた。アドラークレストのいない、地上の夜景だ。人々は景色に溶け込むような黒を身に纏い、オレンジの光を反射するシルクハットを被った者が馬車や鉄馬から降りれば、帽なしの人々はすぐさま道を開ける。肥え太ったシルクハットの男が彼らに視線を向けてシルクハットを持ち上げれば、帽なしの男達は恭しい礼を返した。

 ガス灯の瞬く繁華街と、住宅街は僕の心を安らかにする。しかし、同時に、この上なく不気味な物が襲ってくる感覚をも抱いていた。松葉杖の男が接近してきた時の恐怖と、物乞いの子らが僕の服の裾を掴む様のおぞましさ、見たこともない窪んだ瞳のその奥に映る、青ざめた僕の表情が蘇る。

 人間が恐ろしいことは確かに理解していたはずだった。それでも、この上ない恐怖の感情に満たされたのは、これが初めてだったかもしれない。新聞売りの女が近寄ってきた時の警戒心とは全く違う、まるで別の生き物に襲われた時のような恐怖。そして、これまで僕の中で慰みであり続けた動物が、獲物を狙う瞬間の狡猾さ。全てが嵐のように過ぎ去っていったが、その風速は僕の心を吹き飛ばすには十分な物でもあった。


 ノックの音がする。エルヴィンが僕の名を呼んだので、僕は覗き穴を覗き込み、本人であることを確認すると、扉の鍵を開けた。エルヴィンは疲れた様子で、髪形も整えないままで現れた。


「こんな姿で申し訳ありません。議事の確認などを今日のうちに済ませていまして……」


 エルヴィンは頭を掻きながら苦笑する。僕はその姿に安堵し、扉を全開にして迎え入れた。


「どうですか、公会堂は。議員宿舎でもありますので、居心地はそれなりに良いと思いますが」


「うん、悪くないよ」


 僕は笑顔で返す。実際、安価な宿などとは比べ物にならない程、良質な寝台があることは確かだった。

 僕が作業机に腰かけると、エルヴィンはその内側を覗き込む。これもスパイ活動の一環といった風でもあったため、敢えて隠さずに曝け出しておいた。


「ゲンテンブルクの霧の濃さには驚いたよ……」


「霧と煤煙、スモッグと喘息。ゲンテンブルクの嫌なものを表す格言です。それでも、多くの人々が身を寄せ合って、新たな知識を得るために、日々努力しています。きっと次は、燃料だって目に見えないものになるでしょう!そう考えると、ワクワクしてしまうんですよ」


 エルヴィンの輝く笑顔に、しかし僕は苦笑しか返すことが出来なかった。社会問題などどこにでもあるのだろうが、一度それを目の当たりにした時の衝撃は、魔女狩りの時のそれと酷似しており、しかし、得体のしれない物に対する恐怖と言う意味では、全く一線を画してもいた。


「ねぇ、エルヴィン。労働者は、きちんと給金を貰えていると思う?」


 エルヴィンの表情が曇った。普段は穏やかに対応する彼であっても、咄嗟に向けられた核心には面食らったらしい。ガス灯の変わらぬ温もりを見つめながら、エルヴィンは膝を曲げて僕と向かい合った。


「見てしまいましたか、貧民街を」


 僕は黙って頷いた。エルヴィンは悲しそうに眉を下ろし、唇を噛む。


「ゲンテンブルクでは、住む所のある工場勤務の人々の収容所と、そこに収容されていない人との間には、大きな隔たりがあります。技術革新と共に、異常に増えた人口を支えられなくなってしまったのは事実です。ですが、いずれ……」


「いずれは、いつ来るの?」


 エルヴィンは押し黙った。僕は自然と涙声になる。


「エルヴィン。あの爛々とした瞳は、何?アドラークレストが食らう程、貧民街の人々は価値がないの?僕には、エルヴィンが、プロアニアが分からないよ」


 技術的には圧倒的と言って良い進歩を続けているプロアニア。その光の裏で、日々行われる残虐な排斥運動。ホスチアの鞭を打つ資本家と、鞭の音に表情一つ変えない女達、進化の象徴であるはずの機械を壊すために、工場の前で暴れまわる元職人。そして、ゲンテンブルクに溢れた人口の中の、不幸な人々。


「技術は、人を幸せにするものではなかったの?何故、エストーラと変わらない……いや、もっと酷いの?」


 エルヴィンはみるみる萎びていくように、首を垂らす。暫く気まずい沈黙が続いた後、オレンジの照明に照らされていた繁華街の絵画が、突然暗闇の中に消えた。エルヴィンは静かにガス灯を持ち、守衛に手渡す。守衛は予備のランプをエルヴィンに渡すと、そのまま切れたガス灯を持って廊下の奥へ消えて行った。


 エルヴィンはその後姿を見つめながら、いつもよりも低い声で言った。


「簡単じゃないんですよ、知の代償は、ちょうど血の代償と同じものなのです。例えば、機関銃の開発の為に何人が命を落としたか、分かりますか?」


「そのための犠牲は仕方がないんだ?」


「では、貴方が労働者であったとして、毎日小さなパンと一杯のミルクで飢えをしのぐ中で、自分の給金の一部が物乞いのパン一個に変わっていたと知った時、どんな気持ちになりますか?貴方の言っていることは、それを受け入れろと、労働者に言う事です」


「働かないんじゃなくて、働けないんだとしても?」


 松葉杖が脳裏をよぎる。エルヴィンは黙っていたが、返答には確信を持っているようだ。僕は、椅子から立ち、エルヴィンを見つめる。エルヴィンは、眉根を寄せながら、僕の握った拳が震えるのを見つめていた。


「何か、出来ることは無いの?僕には、何もしてあげられないの?」


 僕の握った拳には、無力感と、袖を引く人々の手が添えられていた。エルヴィンは下を向き、数秒後に笑顔を持ち上げた。


「エルド様、ステラ陛下から、貴方に話があるようです。その返事如何によっては、彼らを救えるかもしれませんよ」


 エルヴィンは目を細めた。僕は、握った拳を離し、真剣な表情を向ける。


「……きっと、だよ」


「えぇ、大地の民の誇りに誓って」


 僕の描いた静かな街路の絵には、シルクハットの男と帽なし、そして、彼方には不幸な人々が顔を覗かせていた。


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