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赤髭の王冠 13

 漂う煤煙と立ちこめる霧の狭間で、馬の嘶きが響き渡る。交通整備員がひたすら誘導をする中、黒い民族衣装の間を、少年と少女が歩く。普段は他人に無関心な彼らが、その独特の衣装に立ち止まり、振り向きざまに見せる二人の仲睦まじい様子に口元を緩める。やがてひと時の夢が過ぎると、彼らは現実に引き戻され、再び職場へと向かって歩き始める。偉大なる発明、株式会社は、黒服の人々を飲み込みながら肥大し、閉ざされた国家の中で繁栄を続けている。

 荷馬車一杯の綿花や、鉄くずのように鋳なおされるエストーラの鎧、アーミンにも劣らぬ絹のようなミンクルの毛皮、そのどれもがプロアニア全土からかき集められ、首都ゲンテンブルクに齎される。彼らの無邪気な喜びは、箱庭の如く閉ざされた煙突の群れの中では、一等輝いて見えた。一方は淡く切ない思いと罪悪感を抱えたまま、この上ない幸福に入り浸り、また一方は、人混みの中にある新たな発見に胸を弾ませる。かつては人混みに消えようとしたその魂が、くすんだ原石を磨いた後のように輝きを増している。私は遠くからその光景を眺めながら、物思いに耽っていた。


 旅の終わりがいずれ訪れることは明白なことで、私もその程度の別れは幾度も経験してきた。私はこの出会いにも必ず別れがあると知り、また、それがゲンテンブルクで終わるであろうことまで理解していた。

 エルド皇子は異様と言って良いほど、純粋で臆病な人間だった。まだ自ら立つことが出来ない小鹿のようで、危なっかしく、それでいて人一倍警戒心が強く、子供らしく距離感を詰めようともしなかった。それはおそらく、前世の心苦しさから来るものであると考えられたし、実際にそうであったに違いない。


「誰かの為にきちんと涙を流せるのも、一つの才能であろうな」


 よく響く低音が空気を震わせる。私がふり返ると、必要以上に恰幅のいい男が、二人分のソファを独り占めしていた。


「陛下」


 私は積みあがった資料を手に取り、陛下に渡す。陛下は姿勢はそのままにそれを受け取ると、資料をさらりと一読し、鼻で笑って見せた。


「エルド卿の件は結構、ご苦労であった。次はカペルに行ってくれ」


「あの、陛下。彼らは……」


 私は陛下の顔色を窺う。資料を流し読みながらも、時折鼻で笑う様から、情報の整理は既に出来ているのだと理解できる。


「ムスコールブルクに特使として送ることにしよう。どうせ大した情報は持っておらぬ。あちらで死ねども大した損失はなく、彼方から益を持ってくるのであれば上々であろう」


「陛下、僭越ながら、それは些か危険が過ぎるのではないかと。エルド皇子は文字通りの箱入り息子で御座います。ムスコールブルクの問題は非常に由々しき事態であり、同伴者無く送ることは有効とは言えません」


 陛下は、つい早口になった私を一瞥し、鼻を鳴らした。


「そうだな。しかし、今我々にとって重要なのは、単一二正面の対立を防ぐことだ。異国の危機に構っている時間はさほどない。君は明日発て。一日で市の職務を済ませるがよい」


 陛下は傍らに置いた杖を取り、鈍重なしぐさで立ち上がる。私のまとめた報告書をばさばさと鳴らしながら、見た目よりも小さな歩幅で扉へ向かおうとする。私は、咄嗟に彼を引き留めた。


「陛下。オオウミガラスをご存知でしょうか」


 天井に頭が付きそうな巨体が足を止める。彼は大層楽しそうに、ニタリと笑った。


「くくっ。そうであったなぁ。実に憐れな生き物よ。今も昔も、酷い波に巻き込まれたものだ」


 やがて肩を揺らして笑い始めた彼は、杖を軸にしてゆっくりとこちらに向き直る。三日月のような弧を描いた細い目が、私のネクタイの結び目を見た。


「然しな、同情はせんよ。強き者が支配するのは世の常だ。薄っぺらな博愛などでは、国も世界も動かせまい」


「仰るとおりです。しかし、あれらはまだ子供。何者かの庇護を必要としています」


 視界を遮るカーテンの隙間から、光の筋が覗く。先程無邪気に通り過ぎた笑顔は今はもうなく、ただ、行き交う礼服の雑踏が道を埋め尽くすばかりであった。


「エルヴィンよ、お前が傾倒する気持ちもわからぬではない。あれとは長い旅の間、苦楽を共にしたのであろう。しかしな、一時の感情は国家の益に勝るものではない」


「恐れながら、申し上げます。この国はいずれ煤煙に全てを飲み込まれ、滅びる事でしょう。国益に縋るのは結構ですが、歪んだ政に辟易している者は少なくありません。ムスコール大公国に蔓延る革命の予兆もまた、我々の目の前に来ているかもしれません」


 私は渾身の非難を浴びせる。陛下は暫く黙り込むと、ついた杖を持ち上げて私を指した。


「左様、左様。その歪みが壊滅せぬよう、朕の身の重さが役に立つのであろう。即ち、歪んだままで無駄な水分を取り除く漬物石のようなものだ」


 私は杖の先を睨み付ける。暫くそのまま沈黙していたが、陛下は呼び出しがかかるとそそくさと立ち去っていった。


 私の願いが我儘なものであることは分かっている。しかし、彼らが過酷な帝国で見る景色が、吹雪ばかりの物でないことを、願わずにはいられない。私は腰をおろし、机に向き直った。冷めたコーヒーを啜ると、目の覚めるようなきつい苦みがのどを通り過ぎる。手が痙攣しそうな漆黒がのどを通り過ぎると、最後には都市運営の資料が山と積み上げられていた。


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