赤髭の王冠 10
霧雨館の中にひっそりとある静かなエルヴィンの部屋には、鍵をかけた金庫の中に大量の議事録と、引き出しの中に蝶の標本がある。それだけであるが、僕が書き残すための題材は申し分ないほどあった。
美しいモルフォ、清楚なモンシロ、妖艶なキアゲハ……彼らの生きていた姿をしっかりと描き留めるため、背景は穏やかな春の空に、焚火の周りを踊る蝶や、花の香りに喜ぶ蝶として、彼らを描く。全ては空想の中の世界、それが出来るのは絵画だけに許された力だ。
僕の写実的な絵ばかりを見てきたエルヴィンは、興味深そうにそれを覗き込む。僕は胸の中のしこりを取り除くために、無心でペンを走らせる。振り払うべき呪いなのかどうかすら分からないまま、苦しい思いを抱えたまま、蝶の舞い踊る楽園を思い描く。
フランは二人の様子をつまらなさそうに眺めている。夕陽が差す机の上で、鱗粉を輝かせる蝶の標本と同じ色に染まった頬を二人の背中に向けながら、静かに息を吐く。
貴重なもてなしの時間は、僕にとってはとても短く、然し彼女にとっては少々長く感じられただろう。
日没が過ぎても、僕は蝶を描き続けた。誰に求められるわけでもなく、エルヴィンもフランも僕を待っていた。視線に気づいていても、僕の筆は簡単には止まらなかった。
美しいものが失われていく様を、悲しむ事ができない。逃れられない怨嗟と同時に押し寄せる、感謝のような不気味な感覚を振り払うことが出来ない。僕の筆はみるみる早くなっていった。
「罪は……消えないものよ」
「罪なんかじゃありませんよ」
「罪じゃないなんて、言わないであげなさい。私が言えたものではないけれど、エルドにとってはそれも一つの罪よ」
鼓膜に届く呟きあいは、フランとエルヴィンの会話だった。僕の内心を察した二人が、慰めようとしているのだろう。
部屋に月光が差す頃、僕は初めて顔を持ち上げた。普段ならば微睡みながら眺める空を、今は覚醒した瞳が見上げる。煙突は煙を吐き出すのをやめ、その鈍重な肉体を留めたまま、佇んでいる。アクトーンの幻が脳裏をよぎる。月の輪郭は工場の群れに隠され、燻る煤煙にぼんやりと光を与えている。
あの瞬間、湖の上で鳴くアクトーンには、取り返しようのない美しさがあった。僕はスケッチブックを捲り、切り取られた美を再度見直す。アクトーンの見上げる空は高く、波紋はここでは見られない。月明かりの眩さも、ゲンテンブルクにはどこにもない。ガス灯と共にぼやけた明かりが、空に浮かんでいるに過ぎない。満天の星空は工場の群れに阻まれる。
エルヴィンの部屋からは、その手前に住宅街が見えた。空は今にも涙を落としそうなぼやけた視界を持っていたが、その中でも、人は何の疑問も持たずに暮らしていけるのだ。
僕はペンを置いた。半分瞼を閉ざしたフランが音に反応し、顔を持ち上げる。エルヴィンは何かの仕事をベッドの上でこなしていた。
僕は無理やり笑顔を作った。
「エルヴィンは凄いね」
「……そうですか?有難う御座います」
ゲンテンブルクに来たという事実が、僕の心を徐々に弱らせていたのだろう。エストーラの宮殿から見えた空は見えず、工場の群れが迫るように聳え立つ。僕の見てきた世界とは余りにも違うものだ。路上で新聞を配る少女や、走る鉄馬もいない世界で生きてきたのだから、きっと何もかもが違っているのだろう。
それでも、人の営みはそこにある。恐らくずっと長い間変わらずに、煉瓦造りの家を守り続けた人々の姿がある。
「エルヴィン。正直、ゲンテンブルクが良い所だとは、どうしても思えないんだ。僕は、蝶の標本も、命を奪ってまで残そうとは思わないよ」
僕は確かに、それらを美しいと思った。然し同じくらい、アクトーンの面影を美しいと思った。ゲンテンブルクに住む人々のささやかな暮らしも、恐らくはアクトーンと同じほど尊いものなのだろう。
文明化の中で変わらなかったものは、有限でしかない命だけだ。これだけは、例え死霊魔術士が自分の精神だけを移し続けても、変わるものではない。
簡単に壊したいと思えないのは、きっと僕が弱いだけだ。エルヴィンと僕では、やはり超えられない壁がある。それでも、命を奪ってまで残そうとは思わないという言葉だけは、確信を持って言える事だった。それはたぶん、僕が散々見せつけられた白昼夢や、魔女狩りの呪いの為だろう。
「……そうですか。少し、残念です」
エルヴィンは、少しだけ悲しそうに笑った。
「それでも、立派な都市だと思うんだ。沢山の命を支えるくらい、立派な都市だ」
ぼやけた月光は遍く大地を照らす。それはゲンテンブルクにも違いなく降り注ぎ、人々の歩く街路を照らしている。工場の群れもどこか愛らしく思えた。
エルヴィンは疲れた目を瞬かせ、その後に柔和に笑って見せた。
「わたしには、それが良い都市の条件です」
「……そうだね」
霞みがかった空には、ガス灯と変わらない光を灯す、弱り切った月があった。




