赤髭の王冠 8
霧雨館の広場はどこか牧歌的で、外観の威厳には似合わない優しさがあった。外観から覗いた放牧地もそうだが、教会も小柄で田舎の教会のような佇まいだ。鐘楼も煙突とは比べようもなく、ホーエンハイム家が作り上げた工業地帯と比べると心を穏やかにしてくれる。
「ケンプ、そろそろ毛刈りの時期じゃない?」
僕は放牧地の羊を見ながら訊ねた。エルヴィンは困ったように笑うと、頭を掻いておどけてみせた。
「私達は世俗の支配者、羊飼いは聖職者の管轄なのです。お恥ずかしながら、そろそろ伸びてきたな、と言う程度にしか……」
あ、ちょっと見栄張ったかな?僕はそうだね、と短く答えるだけに抑えた。
「あら、ケンプの毛は好きよ?暖かくて気持ちがいいじゃない。ベッドに使うと最高よね」
教会の前で犬を引き連れた羊飼いが僕達を認める。エルヴィンと会釈を交わすと、彼は暢気な欠伸をした。
羊飼いは常に危険の伴う仕事だ。外の世界では羊の群れを引き連れた彼らは明らかに目立つうえ、羊は重要な財産となる。そのため、彼らは自分の身を守る為の術をいくつか持っていたり、往復の度にパトロンである教会に対し、高い値入を要求する。教会はこれをさらに高く売り出すのだから、敬虔な神の従者とは何ぞやと思わずにはいられない。
エルヴィンが咳払いをして我に返った僕は、改めて彼を見上げた。
エルヴィンは少し複雑な表情を浮かべながら、静かにペンを差し出した。
「描きたいのでしょう?」
「……ありがとう」
「ちゃんと、言えるようになりましたよね」
エルヴィンは柔和に微笑む。彼はそのまま首を傾げた羊飼いに向けてチップを投げる。羊飼いは眠たそうな瞼を持ち上げ、僕に同意の為に首を傾げて見せた。僕は頭を下げ、紙を取り出す。フランは何とも言えない表情を浮かべながら、エルヴィンと目を合わせた。
僕は深呼吸し、羊飼いがのんびりと石畳の上に座り込む姿を描く。
霧の晴れた川の向こうには濛々と立ちこめる煙、煤で少しだけ壁面を汚した四方の建物はペンが滑る毎に徐々にその影を深くする。
その前にある清廉な教会の佇まい、足を休める羊飼いが空を見上げて微笑む。その傍らで座り込む犬は、主人よりも真面目に羊たちを見る。そして、もこもことした暖かそうな毛を体いっぱいに抱いたケンプと羊の群れ。巨大な煙突に見下ろされた、牧歌的な光景が、キャンバスに広がる。昼下がりの穏やかな天気と共に、影は壁に命を吹き込む。真っ白だったキャンバスには、やがて写し鏡のように、精巧な霧雨館が刻み込まれた。
「……エルヴィン、ここは、良い所だね」
「えぇ、とても」
昼下がりの空に、暖かい陽射し。歴史は集落を生み、集落は文化を生み、文化は故郷となる。首都ゲンテンブルクは、確かに、誰かの故郷だった。




