川向かいの同胞へ 10
深まる黒き森の中を通る道路は、途切れ途切れの石垣で守られ、ゲンテンブルクへと続く道を分岐させていく。血脈のように伸びたプロアニアの道路も、いよいよ首都の明かりが彼方に見える頃だった。
小さな集落を目前にして、馬車は緊張感に包まれる。エーゲンベルト伯爵が、数人を引き連れて集落に先回りしていたのだ。
僕達の馬車を待つ彼らは殺気立っており、傍に引き連れた狩人の男は旧式の銃を構えてきょろきょろと辺りを見回している。
都合の悪いことに、集落には僕達を遮るような背の高い建物は存在しない。筒抜けの情報から、不審な動きをする馬車があれば、それだけでも僕達を特定できるのだ。
吐き気を催す肥えた堆肥の匂いと、火薬のにおいの立ち上るエーゲンベルト一行の周囲には食料も山積みされ、買収された民衆達は初めて手に取った金貨の重みに表情を蕩けさせている。
「……エルヴィン」
僕は荷台から目だけを御者台に覗かせる。エルヴィンは馬車をスムーズに操作し、速度を若干緩めた。
「下手に目立つ行動は止めましょう。二人は、鎧の中に隠れていてください」
僕は頷き、最早入り慣れた鎧の中に身を隠す。フランはやや窮屈そうにしながらも、兜を頭にのせて何とか全身を隠すに至った。
ヤトは勝手がわかってきたのか、御者台に飛び乗り、エルヴィンに身を寄せた。
カラカラと車輪の音と振動が伝わる。兜の隙間から覗かれる光の筋を避けるように身を縮める。がたん、石に躓いたような振動により、鎧が鈍い音をして跳ねる。僕は握る手を強めた。
「止まれ」という険しい言葉を受けて、エルヴィンの馬車が止まる。慣性によって一瞬身をぐらつかせた鎧たちを押しとどめるために、僕は足に力を入れた。無論、意味のある行動ではない。
薄く差す光の筋から伝わる話し声が落ち着くと、遂に何者かが荷台に昇る音が響いた。軋む足音は三人ほどのもので、エルヴィンもついて回っているようである。
鎧の重い体重を支える荷台に槍の柄を突く音がする。声は遠ざかっては近づき、近づいては遠ざかる。
緊張感に息を殺し、時折足音が近づくと身構える。そして、兵士が鎧の中身を確認し始めたその時だった。
「そこにいるのは分かっているぞ、エルド・フォン・エストーラ」
僕は身が竦んだ。体中か溢れる脂汗のため、むさ苦しい鎧の中は益々湿度を高くした。
これは罠だ。間違いない。僕は確信し、身を縮こませる。心臓の鼓動が速まり、動悸が抑えられなくなってくるころ、足音が徐々に自分に近づいてくることに気付く。
「分かっているぞ、と言っている!」
突然頭上から光が差す。咄嗟に顔を上げると、エーゲンベルト伯爵がにやつきながら左手を振った。
「さて、撃ちなさい」
伯爵は立ち去り際に振り向く。
一巻の終わりだ、そう思い、目を瞑った瞬間だった。
馬車が突然動き始める。伯爵はバランスを崩し、僕の籠る鎧につかまった。僕は咄嗟に全身で鎧を押し、鎧ごと倒れ込む。不意を突かれた伯爵は、鎧の下敷きになった。
馬車は轟音を立てながら来た道を舞い戻る。銃声と煤の臭いが馬車を追いかけ、何発かの弾丸が荷台の木枠に命中する。馬車はその一切を無視して、徐々に加速した。
途中、街道の途切れる場所を左折し、草原へと向かう。兵士達は銃を構えて追いかけるが、馬車が草原から森へと消えた際に、その多くが諦めて銃をおろした。
伯爵は僕の鎧を押し上げて這い出す。チャキ、という音に彼が顔を上げると、そこには小銃を構えたエルヴィンがいた。普段とは打って変わって仮面を張り付けたような無表情で、安全装置を外す。伯爵は体勢を持ち上げる。
僕が鎧から這い出たのを認めて、エルヴィンは伯爵の脳天に銃口を付けた。
「手荒な真似は避けたいのですが、そちらから来るのであれば私も致し方ないのです」
エルヴィンの言葉に、伯爵は両手を挙げながら口の端で笑った。
「馬車を止めなくても大丈夫なのかね?この暴れ馬、そろそろ森に入ってしまうが?」
「狩りは貴族の嗜みでしょう?」
エルヴィンは微笑み返した。馬車は主人が手綱を握っていないにもかかわらず、自動で経路を編み出しているように、正確に森の広い道を抜けていく。伯爵は多少表情を曇らせたが、直ぐに持ち直して不敵な笑みを浮かべる。
「そうとも、ゲンテンブルクの灰被りよ。君は蛮族らしく力に自惚れているがいい。我々が追いかける獲物はアドラークレストとベルクートだ。野蛮なハイエナを追いかける暇はないのだよ」
そう言いながら一歩後ずさりすると、エルヴィンはそれに従い一歩前進する。そうして徐々に荷台の縁に追い詰められていく伯爵はしかし、薄ら笑いを浮かべながらエルヴィンから視線を外さない。
「遊びは終わりだね、諸君」
伯爵は一言いい残し、頭から荷台を飛び出した。まるで倒れ込むようにしながら荷台から姿を消した伯爵は、地面を転がり、鈍い悲鳴を上げながら遠ざかっていく。
「……エルヴィン」
僕はエルヴィンの身を案じて近づいた。彼は表情を強張らせ、僕を強引に床に押し倒す。直後に無数の銃声が響き渡り、森が騒めく。
「顔を出さないで下さい。行きますよ!」
エルヴィンは御者台に飛び乗り、衝立で背中を守り、カーテンを閉める。暫くして、広い道だけを進んでいた馬車は、一気に横道に逸れていった。
背後を追いかける無数の銃声が鳴りやんだのは、やっと月が真上を通り抜ける頃だった。




