魔女の呻きはキィキィと 10
夜の帳が下ろされた町を宿から眺めると、役目を終えた煙突からは煙がきれていた。それでも漂う霧には埃が付きまとう。
「管理された町」の名は、その通称に反して「メルヒェン」という。名前の由来は「噂話」を意味する言葉が訛ったものらしい。古くから先端技術の研究・開発の中心地であったと予測されるから、噂の尽きない曰くつきの土地という意味合いが強いのだろう。可愛らしい愛称は単にこの町の秘匿性を二重に隠すものであるらしい。
霧は未だ晴れないが稼働を停止した工場の煙が断たれた分だけ、幾らか見晴らしは良くなっている。
はっきりと形を表した煙突は意外にも小ざっぱりとしたもので、無駄な装飾が一切ないのは勿論だが、そもそも塗装自体がなされていない。
僕は一つ咳き込み、四つ並ぶ煙突を観察する。しかしいずれもかわりばえしないもので、鐘楼よりも高い以外には特別なものというわけではなかった。
街並みも煉瓦造りの家がひしめき合うように並び立っており、霧も手伝ってひどく窮屈に思えた。
そして、僕は、先程目を逸らしたものに目を向けた。
煉瓦とガス灯の華やかな大通りの裏側には、煤で汚れた壁にもたれ掛かる人々がいる。
民族衣装を買いそろえる余裕もないのか、黄ばんだワイシャツと裾の破れたスラックスを身に着けた彼らからは、悲壮感が存分に醸し出している。
メルヒェンの管理とは、技術の窃取を防ぐためのものだ。貧民は必然的にその技術を最低限の水準までしか教えられていないはずだ。そして、城壁の外に出ることも許されない。彼らは人というよりは家畜、或いは実験台のモルモットに近い生き物として、この町で働いているのだろう。
僕は、山頂で感じた肌寒さと、仄かな灰の残り香を吸い込む。ここからでは詳細は分からないが、壁にもたれ掛かる人々の年齢は様々であり、子供も、中年も、老人もいる。僕はゆっくりと鼻から息を吐いた。
「まだ寝ないのですか?」
霧を注視していたため、隣から湯気が立っていることに気が付かなかった。振り返ると、エルヴィンが沸かした湯を一杯にいれた水差しを手に持ちながら微笑んでいた。
「そうだね、あんまり眠くない」
僕は外の景色を見ながら答える。エルヴィンは湯を入れた水差しに口をつける。少し口の中を湿らせる程度に飲むと、今度はその水差しを僕に差し出した。
「夜冷えは身に沁みますよ」
僕は水差しを両手で受け取る。水差しの中を覗くと、酷く沈んだ僕の顔が映った。
「……ありがとう」
僕はそれを飲む。僕を貶めるために毒などを盛っていないことは、エルヴィン自身の体が証明している。素直に良心を受け取ることにした。
一服つくと、水の苦みに口を窄める。エルヴィンは不思議そうに首を傾げた。僕は一瞬毒を疑ったが、恐らく降り注ぐ煤煙の類だろうと思いなおした。
しかし、僕の舌は僕の予想に反して、殊の外喜んでいるようだった。口を漱ぐ程度に飲んでいた僕は、二口目は少し多めに飲む。
「メルヒェンにも貧民街があるんだね」
僕は努めて冷静に呟いた。鼻で息をするのも窮屈で、窓をゆっくりと閉める。振り返ると、エルヴィンは黙ってベッドに腰かけ、悲しそうに眉を寄せている。
「気になりますか?」
「別に。どこにでもいるよ」
僕の声は小さく震えていた。エルヴィンは益々苦しそうに口を噤む。
貴族としての体面と言うものがある。互いにそれを理解しているために、深い所に踏み込むことが難しい。あれだけ情けない姿を曝け出した人に、山麓で心を許した人に、どうして体面を保とうとするのだろう。僕はベッドに座り込む。実家のベッドほどではないが、その柔らかさは長旅に疲れた尻を優しく包み込む。
「彼らは本当にかわいそうだね。神様の寵愛も受けることが出来ないんだ」
「神様がここに来てくれたならば、どれだけ人間は楽できるのでしょうね」
服の裾に纏わりつく煤煙の残り香を感じながら、僕は黙って頷いた。
王権が神から下るなら、どれだけよかっただろう。シーグルス兄さんの底知れない野心に怯えて過ごすことも、ヤーコプ兄さんの性格がこじれることもなかったに違いない。使用人の優しさを純粋に喜ぶこともできたかもしれない。
それでも、僕達は人の間でしか生きられない。僕の形がまだ人とは違っていた頃には、もっと、楽しく生きることが出来ただろうか。
きっと、そんなことは無いのだろうけれど。今よりはいくらか楽だったのだろう。
「さぁ、寝ましょう。明日は北上しますよ」
エルヴィンは静かに布団を被る。僕は微かな声で返事をし、ベッドに倒れ込んだ。
寝返りを打てども、耳を澄ませども、彼らの声が聴こえることは無かった。
翌日、馬車を出したエルヴィンは北側の出口へと大通りを突き抜ける。
頬をかすめる霧は馬車を通り過ぎて視界の外へと消えて行く。交通整備員の指示に従う者達しかいないので、メルヒェンの町はほかのどの町よりも秩序だった行列が出来上がっていた。
馬車の群れの間に挟まれた色違いの石で造られた歩道を速足で通り過ぎる背広の男達は、自分たちの工房へと消えて行く。横切った工房の前には、親方の説明を聞きながら踏ん反り返る太った男がいる。親方は始終頭を下げっぱなしであり、一言目には返事ばかりをしている。
渋滞もそこそこに空いてくると、子供と娘が鞭を持つ男二人に引率されて何処かへ向かっていく。僕は口の中で溜息を飲み込み、視線を逸らした。
例の如く関所を簡単に通過した馬車は、続けて法陣の中に入る。
僕は言われる前にヤトの目を隠し、目を瞑った。
メルヒェン最後の景色は、暗闇が白む様だった。




