魔女の呻きはキィキィと 3
冷え切った山の空気に目を覚ます。広場の出入り口に輝く篝火と朝焼けの入り混じる景色は、ぼんやりと霞みがかっている。
「おはようございます、エルド様」
エルヴィンは既に準備万端なようすで、頭陀袋を肩にかける。僕は急ぎ着替え、フードを目深に被って荷物を持つ。
ちょろちょろと床を動き回るヤトが僕の足元にやってきたのを認めると、僕は彼を持ち上げて顔を埋めた。
陽光の弱い冷え切った山間の空気を受けた体は、ヤトのぬくもりに失神しそうなほど幸福感を抱く。思わぬ射幸から目を覚ますために顔を上げると、エルヴィンが心底嬉しそうに笑っていた。
「本当に動物がお好きなんですね」
「人間よりは、ずっと好きだよ」
僕は真面目に答える。彼も何度も頷き、閂を開けた。
「そうですね。では、その人間世界のお勤めに向かいますか」
「そうだね」
僕は頷く。そして、後退した頭を大事そうに摩る彼の後を追いかけ、外に出た。
「……サムゥイ!」
日が昇り切っていない広場の肌寒さに思わず身震いする。鼻水が出るほどではないが、一歩踏み出すには少し勇気がいる寒さだ。
息を吸い込めば肺が冷たい空気で満たされていく。吐き出す空気は入れ替わったように暖かい湯気となり、空へと消えて行く。
「それじゃあ、行きましょうか」
エルヴィンが言う。僕は手でそれを止め、高い柵の前に立ち、再び山の景色を眺めた。
ライチョウの声、狩人の瞳、タバコのにおい、満天の星空と冷めたスープ……。名残惜しい景色を目に焼き付ける。
僕は肺に冷え切った空気を入れる。目を瞑り、喉元を通り過ぎる冷たい感覚と、それが体内を巡ろうとする感覚を全身で感じ取る。満たされ、一体化した古い空気をゆっくりと吐き出す。空気は水滴となり空へと消えていく。
僕はそれらを見送った後、御者台に戻った。
馬車は誘導を受けてゆっくりと動き始める。次のトンネルは昨日よりも入り口の広い、初めから明るい光を放つものであった。
監察官に声を掛けられるたびに身分証明をするエルヴィンは、続いて僕に関する情報も簡単に伝える。彼はそれを知るや否や、フード越しに深く頭を下げた。
客人としてのもてなしなのか、それとも別の何かなのか。スパイであるエルヴィンの客人はヤトを膝に置いており、背筋もピンと張っていた。彼からすれば、恐らく高慢な人間に見えただろう。
僕ははにかみがちに笑って見せ、可愛さをアピールして通り過ぎることにした。
最初の十字路では交通整備員が汗を流す。この光景は昨日のものと全く代り映えせず、整備員の足元と首に提げる看板の表示だけが僕達の頼りとなっていた。
僕はエルヴィンを一瞥する。彼は慣れた様子で十字路を進み、入り組んでいるはずの洞窟の中を進んでいく。
時折地上に出ると、眩しさに目を細める。それでも眺めは相変わらず良好で、道なりに進むにしたがって緩やかに下山していく。螺旋状の山道を下りると、徐々に人の往来は増えていき、通りすがりの友人たちに明るく声を掛け合うエルヴィンの姿も見受けられる。
山岳の緩やかな傾斜が徐々に直線となる。高山植物が散見される低草地帯から、森林地帯へ。霜に塗された白い木の葉と、アマルティの群れが彼方から僕達の荷台を覗き込む。
咀嚼しながら男の悲鳴のような鳴き声を上げる彼らに見送られ、馬車はガタつく荷台に詰めた偽物の交易品を運んでいく。
霧の向こうに鐘楼が見える。はっきりと視認できるようになると、今度は霧と同化した白い城壁が見える。そして、荷馬車の集団が関所で順番待ちをする姿が確認できるようになる。
カラカラという車輪の音が益々目立つようになり、馬車の往来は目に見えて盛んになった。
僕は思わず歓声を上げる。
僕が初めて訪れる、異国の街並み。教会と城壁は霧に身を隠すような純白の壁を持ち、その上に赤い瓦屋根が乗せられている。
最後に、車輪の激しい振動で鎧が飛び跳ねた。ヤトは無関心に僕の膝の上で寝息を立てる。エルヴィンは振り返り、弾んだ声で言った。
「ようこそ、プロアニアへ!」
手綱を握っていた彼の左手が僕に向けられる。僕は敢えて手を取ることはせず、できうる限りの敬意をこめて、しっかりと頭を下げた。
「ありがとう、エルヴィン」
エルヴィンは歯を見せて笑う。顔を上げた僕も微笑みで返した。
夕刻の輝きが道程に満ち溢れる。照り返す夕焼けに栗色の馬が往来し、道を急ぐ馬車の御者台は茜色に染まる。
僕らの馬車は、茜色を噛みしめるように、ゆっくりと、バイアンの町へと向かっていった。




