黒と白の境界 2
城に戻ると、案の定シーグルス兄さんが玄関の前で困ったように眉を顰めていた。僕はきまりが悪くなって視線を逸らす。規律よく並べられた胸像たちが責め立てるように僕の視界に入る。シーグルス兄さんはいつもの柔和な笑みで首を傾げて見せた。
「うーん、一言言ってくれると助かるのだけどなぁ」
「申し訳ありません、兄さん……」
僕は素直に頭を下げた。シーグルス兄さんはエストーラ三兄弟の次男であり、最も穏やかな性格をしている。僕のそれは穏やかではなく臆病であると思うので、時には政治的に重要な犠牲を受け入れる冷酷さも見せられる兄さんは、素直に凄いと思う。
兄さんはオリエタスの銅像の前に立ち、使用人二人に着替えの用意を指示する。二人は恭しく頭を下げ、すまし顔で立ち去った。
二人きりになった広いロビーの中は冷たい空気が漂う。オリエタスの像は威圧的な表情で埃一つ漂う事のない玄関口に立つ僕を見下ろす。高窓から差す光の筋は遮るものもなく、床にくっきりと桟の影をおろす。澄み切った重圧に押しつぶされそうになっていると、兄さんは首を傾げて微笑んで見せた。
「仕方ない子だね。兄さんには内緒にしておくからね」
「……ご迷惑をおかけしました」
内心安堵しながら、深く頭を下げた。兄さんは相変わらず涼しい笑みを浮かべ、部屋へ戻っていく。僕が深く下げた頭を上げると、オリエタスの像は窓の向こうを見据えて黙っていた。使用人が下りてくる。僕は手を払いながら慎重に階段をのぼり、使用人の足音の方向、つまりは自室へ向かった。
廊下を彩る煌びやかな燭台の見せびらかすような輝きは目には眩しく、花瓶を置いた花台はニスが塗られ、木材らしからぬ光沢を見せている。その足元にある意味ありげな膨らみや窪み、足の曲線に沿うような繊細なレース柄の装飾は、虚栄心に憑りつかれたエストーラ一族の足掻きの跡が見られた。
自室の前で立ち止まる。最も奥の部屋、ヤーコプ兄さんの部屋から、美しい音色が響いていたからだ。
ヤーコプ兄さんはその繊細なフルート演奏に似合わない、激しい猜疑心に苛まれた男であり、長男であり、後継ぎとしての地位を約束されていてもなお、僕達同じ血を分けた家族を煙たがる。最も奥の部屋を自室に選んだ理由も、「他の兄弟がこちらに向かってきたことがすぐに分かるように」というものであり、常に出身の異なる二人の警備員を扉の前に立てている。僕が確認したところ、話し声が漏れないように二重扉さえ用意しているらしい。僕は出来る限り彼を刺激しないように、適度な距離感を保っている。つまり、家族らしい会話はするが、内政には口出しをしない、と言うものだ。
「あの、エルド様?」
高く澄んだフルートの音色を暫く聞き立ち止まっていると、使用人が自室から声をかけた。
「あ、あぁ、うん。今行きます」
僕は急ぎ自室に入った。春の訪れに浮足立った音色は、廊下に高く響いていた。
王族の使用人は貴族出身者に限られている。そして、そのほとんどが信頼のおける類縁者であり、王族にハンカチや衣服を着せられる事は、地位を誇示したい彼らにとっては大変に名誉なことである。
僕はぼんやりとオリエタスの偉業を見つめながら、両手を横に広げて待つ。滑らかな絹の肌触りや、衣擦れの音だけを聞き、エストーラ一族御用達の私服に着替える。
今日の服は裾にレースのある白いワイシャツに赤い上衣を着せたオーソドックスなものであり、ベッドのそばにある壁に駆けられた肖像画のものと同じものだった。僕のいる場所からではベッドの中は薄暗くなり、よく見えないものの、その肖像画は、僕には勿体ないような出来の物であり、明らかに気を遣った鼻筋のよく通った精悍な顔つきは、僕には似ても似つかない。
何気なくベッドを囲う天蓋の向こうにあるそれを気に掛ける。使用人は何を思ったか、僕の背中を軽く叩く。僕は小さく頷き、上衣と襟を整えた。
「お待たせいたしました、エルド様」
「有難う」
僕はハンカチを受け取り、四つ折りにしてポケットに入れる。使用人はスカートの裾を軽く持ち上げてみせた。
「……勿体ないお言葉で御座います」
小さな声で応じる使用人の声がよく響く。僕の部屋は兄さん二人の部屋に比べると静かなものだった。
奏楽や狩りを趣味とするヤーコプ兄さんや、彼方此方から陶製人形やゼンマイ人形を集めるシーグルス兄さんの部屋は、常に何らかの音に溢れている。一方で、僕の部屋は薄暗く、小さな机と過剰に装飾が施された壁以外には、大量のペンと散乱したスケッチブック、それに寝台と聖典があるだけである。そんな部屋で音を出すことの方が難しいだろう。
「兄さん方は怒ってみえるかな……?」
「さて、如何でしょうか。ヤーコプ様は御存じありませんし、シーグルス様は怒りというよりは呆れを零すことは御座いますが……」
僕は唸る。そのまま席に着こうとすると、使用人はごく自然に椅子を引く。僕は小さく会釈して席に着く。そのうえ、使用人はすぐさまスケッチブックを用意してみせた。
ペンを取り、机の上に置かれた小さな猫の剥製に目をやる。猫の剥製は体を丸めたまま温度を放つことなく、僕を見つめる。瑠璃色の瞳と白い毛並み、サラサラとした長い毛のこの猫は、幼い頃のヤーコプ兄さんから譲り受けたものだった。狩りの最中、通りかかったこの上品な猫を轢き殺してしまった兄さんは、これを剥製にして保管した。僕は誕生日にこれに興味を示したらしく、そのままプレゼントされたそうだ。
慎重に下書きをする。その間も、使用人はすまし顔で僕の後ろに控えていた。
僕は概ねの骨格を書き終えると、そこに肉付けをする。猫特有の、丸く、愛らしい輪郭が現れる。そこに、優美で余裕のある毛並みを書き入れると、剥製のネコらしい美しい姿が徐々に露わになる。
僕がこれほど絵に執心し始めたきっかけは、とても曖昧で、しかもしようのない理由であった。それは、しきりに見るようになった白昼夢に憑り付かれたためだ。荒々しい波の音が響く、身に覚えのない岩礁の上で、何度も棍棒で殴られる夢だ。意識を失うと同時に現実に引き戻されるのだが、僕はその時に感じた恐怖に満ちた視線、救いを求める視線を常に感じ続けた。
ある時、その正体が同じ岩礁にいる大きめの鳥のものだったと気づく。その時の風景が目に焼き付いて離れなくなり、救いを求める鳥からのメッセージなのだろうと、僕は直感した。それを正確な形で残そうとしたのが、絵を描くきっかけだった。そして、その絵を頼りに取りつかれたようにその鳥を探した。しかし、僕はそれによく似た鳥とさえ、出会うことが出来ないでいる。
しかし、静かに紙と向き合うことが性に合っていたのだろう、鳥を探すことを諦めてからは、兄の狩りの成果である、様々な剥製をモデルに絵を描くようになった。そうしていると、不思議と心安らかになり、時間を忘れることが出来た。あるいは、言葉を発しない動物達が僕の心を癒してくれているのかもしれない。
窓の向こうにある灯りが届かない殺風景な部屋に、気まずい沈黙が続く。僕は時間を忘れてスケッチを続ける。毛並みの向きと陰影、陽光の差す窓からの明かりをうっすらと描くと、猫の剥製は命を吹き込まれたように紙の中に現れた。最後に、つぶらな瞳を書き込む仕上げで、その手を止める。
吸い込まれそうな青い瞳は硝子玉を入れたものだ。このまま精巧に書き込めば、この猫は愛らしい瞳で僕を見つめ、本当に命が吹き込まれたようになってしまうのだろう。しかし、剥製の質感までを再現する画力が、僕にはない。もしこのまま、青い硝子玉を書き込んでしまえば、今よりもずっと生き生きとした猫が描けてしまうだろう。それは、真の意味で「死んでいる」と分かるこの剥製を、正確に描くことに失敗してしまうのではないだろうか。
何となく興醒めして、ペンをおろす。気づけば太陽は沈み、月が現れている。
使用人も、既に持ち場に戻ってしまったらしい。僕は一人暗くなった部屋を見回し、小さく溜息を吐いた。
(結局は、逃げちゃうんだよな……)
僕を虚ろに見る猫の剥製に視線が向かう。僕はペンを置き、優しくその子を撫でた。もう一つの猫が何もない目で僕を見上げる。僕は耐えられなくなり、スケッチブックを閉じた。
ノックの音がする。僕は返事をした。今朝の使用人が、少し怒りを込めた声を上げた。
「エルド様、お食事の用意が出来ております」
「いま、行きます」
背伸びをする。ぽきぽきと腰が鳴る。その音は、四方を包み込むオリエタスの勇姿の中に、よく響き渡った。




