虹と大空を手に入れて 37
鋭い切っ先を払いのけるには、相応の武力が必要だ。まして、剣豪にして魔術師、貴族にして騎士、大公にして皇帝であるシーグルス兄さんの剣から逃れるためには。
僕はせめてフランを庇おうと、剣に背を向けて彼女を押し倒した。
僕は暫くそうして目を瞑っていたが、細く目を開けると自分の五体が未だ無事なことに気付く。振り返ると、シーグルス兄さんと僕の間に、何者かがいた。それは見覚えのある人物だったが、僕と特別に親しいわけでもなければ、僕を助けて特別に利益がある人物でもなかった。
暴動の最中何者にも拘束されずにのうのうと過ごすその男は、シーグルス兄さんの振り上げる腕を後から掴み、耳元で陽気な歌を口ずさんでいる。
「芸人さん……?」
蒸気機関車の車内で出会ったとるどりゅーぽふは、陽気な笑みを浮かべ、この異様な光景の中でもあくまで芸人らしく振舞った。僕と目が合うと、彼は目配せをし、シーグルス兄さんの耳元で囁いた。
「お客さん、一曲どうですかい?今なら安くしておきますぜ?」
「その手を離してくれないか?僕はいま取り込み中なんだ」
シーグルス兄さんはこちらを見据えながら、穏やかに語り掛ける。フランが僕の袖を引いてくれて初めて我に返った僕は、急ぎ立ち上がり駆け出した。
大通りは未だ暴徒たちの群れに埋め尽くされている。迷路のような路地裏を駆け抜け、蠅のたかったゴミを踏み、貧民を飛び越えて、僕達は何とか城門の前までたどり着いた。暫く呼吸を整えると、僕とフランは顔を見合わせる。城門の前は兵士と民衆が睨みあっていて、一つでも刺激すれば銃撃戦が始まりそうな状況だった。
「フラン、どうしよう……。このまま町の中で身を隠す?」
「……それは、危険かもしれないわ」
フランは盗聴器を片手に持っていた。思わず身震いする。
「そんな……路地裏にまで……」
フランは盗聴器を無理に叩き壊し、一息ついて城壁を見上げた。聳え立つ巨大な石の壁だ。いくらエストーラの城壁と比べれば高くないとはいえ、登り切るなど到底不可能だろう。僕はフランとは別の方法を考えていた。それは、この混沌とした状況で、普段よりも手薄になっている城門から通り抜ける方法だ。その為には人払いが必要なように思えたため、フランに知恵を借りる事にした。
「……フラン。門から外に出るとしたら、兵士をどう退かせばいいだろう?」
「え?」
フランは僕の方を怪訝そうに見る。彼女らしい優雅さは見られないが、その表情は実に自然で、無防備だった。
「そうね……例えば、私達が門を通り抜けるとして……。堂々と通った方が、却ってバレない?のかしら」
少なくとも、守衛は敵ではない。この前提を壊さずに考えるならば、それは一つの合理性のある答えだった。
「でも、その場合はあの人たちが邪魔ね。見つからない筈がないわ」
フランは暴徒たちの方を向く。僕はその一人一人の顔を見て、そして、閃いた。
「……いや、このまま行こう。きっと、それが一番いい」
彼らの顔に見知った者はいない。僕とフランがこれ程堂々と町を出るなどと思うだろうか?僕はそんな祈りにも似た希望的観測を抱いた。フランは心底呆れたという表情をして、「……やってみましょう」と短く言った。
暴徒の目線が出来るだけこちらに向かない瞬間を見計らって、門をくぐり、兵士に小声で氏名を告げ、チップを手渡すと、閉ざされていた門が少しだけ開かれた。僕達は短い礼と共に、早速門を出る。流石の兄さんも、門の向こう側に逃れた僕を捕まえることは出来ないだろう。
門を出た先には、巨大な干潟が広がっている。大量の渡り鳥の群れは、僕達の姿を認めても気にも留めずに食料探しに没頭していた。僕は彼らを出来るだけ避けながら、門から続く人間用の行路を進んだ。
この国では珍しく降雪の少ない地域とはいえ、一面が薄い雪に覆われているのは変わりない。肌寒い程度ではあるものの、今の服装でもやはりじわじわと体力を奪われる。周囲は森林に囲まれ、薄く雪化粧をした希望の木は、どれも観光目的であれば是非この目に焼き付けておきたい美しい光景だが、今の僕達にはその余裕はない。僕は必死に走り、フランもとにかく逃げる事だけを考えた。
「どこがいいかな!?」
「森か町!人が短期間身を隠すならどっちか!」
「森は危険だよ!」
「町も危険でしょう?今は森の中にしましょう。その方が、貴方の強みも生かせるじゃない?」
僕より歩幅の大きいフランは、一気に速度を速めて森のごく浅い所に身を屈めた。僕達は祈るようにして、町から兄さんが現れないことを祈った。
大湖沼からはけたたましい鳴き声が響き渡る。大空を羽ばたく彼らがこれ程羨ましいと感じたことは、恐らく人生で一度もなかった。




