ビロードの毛皮を求めて 29
数日後、宮殿を取り囲む群衆は相変わらず喚きたてていた。その目的はヤーキム卿の「解任」である。殺すのはあまりに忍びない、そう言ったニュアンスが読み取れるような、何処か気を遣った物言いであった。
僕とヤーキム卿はそんな騒々しい窓の外を眺めながら、久しぶりに音楽を奏でる。楽器を持つのは大分久しぶりで、元々それ程うまくない僕が彼の隣で演奏をするとどうなるかなど、推して知るべきだ。
しかし、今はそうせずにはいられなかった。技巧的なフルートやハープの音色と、拙いヴァイオリンの音色がちぐはぐに重なり合う。その演目は『ヴォルエプル』、ムスコールブルクを窓たらしめる、二つの運河と無数の湖沼地帯を示す名である。時に激しく、時に穏やかに流れるヴォルエプル川の、凍てつく流水が奏でる恵みを高らかに謳う奏楽は、ムスコール・ロマンの最高傑作である。
優雅で均整の取れた二つのバロック、カペルとエストーラの宮廷音楽にはない、素朴な自然への崇拝が垣間見えるムスコールブルクの音楽は聞くに優しく、また時にダイナミックであり、この土地がもつ人間的な優しさと自然の険しさをうまく表現している。
『ヴォルエプル』はプロアニア人が三角州の都ムスコールブルクに降り立つことから始まる。白銀の世界に心動かされた旅人は、ヴォルエプル湖沼帯を犬橇で旅する事を決めた。彼は二つの運河で働く船乗りたちの船曳唄を聞き、合流した川沿いに進み、ヴォルエプル川の終わりと共に南へと行路を変え、やがて雪解け水が作り出したヴォルエプル湖沼へと至る。頭の赤いチー・チェリオ・フィッシュや、渡り鳥であるハギウチなどの見たことのない魔物たちを前にした旅人は、その時の旅の記録をムスコールブルクへと持ち帰る。その感動を基に作られたのが『ヴォルエプル』である。
音を奏でる感動は窓の向こうの喧騒を鎮めるのに十分なもので、久々に楽器を触ったというヤーキムは大層楽しそうに、自らの演奏に酔いしれていた。
一方で、僕はこの曲は初めてである。そのうえ絵ばかりに執心していたので、音階しか分からない様なありさまである。そんな僕に対し、ヤーキムはあれこれと教示する。一応形だけは弾けるようになると、彼は嬉しそうに自分の演奏に浸る。
宮廷貴族には休みがない。毎日会議、会議、演壇、出征、鎮圧、恩赦、謁見、夜会、エトセトラ。朝は四時に起き夜は一時に眠る生活に追われ、まともに休む時間などありはしない。ほんの数分の余暇に趣味を嗜む、僕達の暮らしが果たして輝かしいかと言えば、はなはだ疑問である。そんな暮らしの中枢にあったヤーキムにとって、今回の一件はある意味で長い夏休みのような効果をもたらしたかもしれない。
今も、貴族達はヤーキムの処分について話し合い、裁判官はマトヴェイと弁護団による処刑不服申し立てについて、法廷で語り合っている。あと数日もすれば終わってしまう時間を精一杯噛みしめながら、ヤーキムは自分のやりたかった事を全力で楽しんでいるのだ。偉大なるムスコール大公国への賛美を、抱え込んでいた音楽へ対する欲求の開放に織り込みながら。
「この大地は本当に美しい。何もかもを残してくれた人々に、感謝しなければなりませんね」
僕は手を止める。ヤーキムの言葉は、どこか遠い世界の事のように思えてしまう。
「僕は、未だに人間を好きにはなれません。憎いままなのに、なぜか、美しいものを残してくれたとも思ってしまう……」
「確かに、同じ滅ぼされた立場であっても、私達は随分と違うのでしょうね」
ヤーキムは、僕の事をはじめから知っていたかのように、すんなりと答えた。僕は静かに窓の外を見る。醜い争いは絶え間なく、劇場型の政治が横行するムスコールブルクを、僕は、もう、純粋なあこがれで見ることが出来ない。それでも、ヤーキムは慈しむように、その目を細め、彼らを眺めた。
絶え間なかった音の失われた部屋には、プロアニア製のゼンマイ時計が飾られている。物言わぬ剥製や、役目を終えた楽器たちが静まり返る。遥か彼方まで続く、澱んだ低い空を見届けながら。
「今も、私達は残っているでしょうか。私はただ、貴方のように自分の生を自分の事として捉えられないだけなのでしょう。私の目の前にある人々の営みが、私達の物ではないように」
「私達の物ではない……」
僕は言葉を繰り返す。大福祉国家、ムスコール大公国。人々は自由で平等で、君主がこの国の持ち主ではない。ただ、この国には、富める者とそうでない者がいるだけだ。
「私達の物ではない、誰かにとって、世界は生きづらいでしょう。自由とは拘束だ。福祉とは迫害だ。しかし、例えそうであっても、美しいものは不滅であってほしい」
ヤーキムは楽器を置く。彼は穏やかな微笑を湛えながら、ガス灯の灯りに思いを巡らせる。
「有難う、エルド様。私を、美しいものの中に残してくれて」
「貴方は誰よりも、優しい指導者です」
静寂に満たされた部屋に、溢れ出す慟哭。互いの心に残った悔しいしこりも、取り切れていないその全てを、僕達は互いに労わりながら、楽器を取った。不器用な演奏が外まで響くことは無い。精一杯に生きている、或いは精一杯に生きたいと思った者達の面影に思いを馳せる。
城壁と雲に隠された低い空に、人々の醜い罵声が響き渡った。




