ビロードの毛皮を求めて 10
宮殿に戻り、マトヴェイに問い合わせたところ、彼は直ぐに厚生大臣に確認を取り、厚生省への案内をしてくれた。厚生省は官僚が務めているため宮殿内部にはなく、各省庁が一階ずつを管理する背の高い建物に案内された。「行政局」と呼ばれるこの建物の中は、優雅で荘厳、法を支配し国家の行政方針を決定する最高機関である宮殿とは対照的な落ち着いた雰囲気で、広く快適だが飾り気の一切ない建物だった。廊下もガスランプとフローリングが延々と続くばかりであり、「厚生省」の事務室もマトヴェイがいなくてはとても見つけられなかった。倉庫も何もかもが似たような扉で統一されているのだ。
ムスコールブルクの厚生省は、忙しなく動き回る官僚たちによって支えられていた。鉄馬にゴミを乗せていた先程の男や、教育関係の資料を両手いっぱいに持ち、小走りで机の隙間を抜ける女性など、僕の姿を見る余裕さえない人々が紙やペンや、本や、資料を手から手へと回す。中央のデスクにいる彫の深い男まで資料が行きつくのに、かなりの手間が掛けられていた。
仕事をしていないわけではないのである。ムスコール大公国の厚生省は、プロアニアの厚生省とは根本的な部分で異なっていた。そもそも、成り立ちの部分からかなりの違いがみられる。
プロアニアにおける厚生省の職務は、貴族の相互扶助団体としての役割が大きい。近年では、貴族と有力な資産家との間に立つことも多く、厚生省は有力者同士の強大な組織として発展した。そのため、貴族の未亡人や、大商会の人々が被った被害に対する保障や、跡継ぎのない家系を対象とした養子制度・婿養子の紹介制度などを主たる業務とするようだ。僕も又聞きでしかないものの、有力者の相互扶助制度を行政が主導で行っているという特徴を持つ。フランが年金を受け取ったのも、この後見制度の一貫であり、血縁を残すための貴族への支援が、職務の殆どを占める。そのため、一般市民の行動に何ら制約を齎さなければ、何らの権利を与える事もない。教会や有力者が自主的に寄付をすることに、弱者救済を一任していると言える。
一方、ムスコール大公国の厚生省は徹底的に「弱者救済・一般公衆衛生の改善」が目的である。凍死した乞食の処理に困った事から始まったというだけあって、まずは貧民の救済、食事の提供や労働資源としての採用のための支援を主軸とし、教育制度の整備や伝染病対策などに取り組んでいる。民衆だけでなく上流階級の人々にも影響を与えるような大規模な事業を行うという特徴があり、当然国庫の多くを消費してしまうという弱点もある。ムスコールブルクの官僚は給与が安く門戸が広いという特徴があるのは、こうした、「金持ちの基準で給与を出していたら国家が回らない」という事情もあるのだろう。
厚生省の職員は今まさに必死に国民全員分の生活向上の為に血眼になっているのだ。
「ここまでして貰える国があるなんて知らなかった……」
サクレがポツリと呟く。ルプスも珍しくその様子に関心を示しているらしく、きょろきょろと職場を見回しながら、時折感嘆の声を上げる。
積み上げられた資料を確認しきって判子を押し、鍵付きのキャビネットに次々と入れたトップと思しき人物は、急ぎ立ち上がって僕達の方へ向かう。机などの障害物で溢れかえった隙間を小走りで通り抜ける姿はいかにも窮屈そうだ。
「お待たせいたしました、私が厚生省長官のシモンと申します。プロアニアの特使の方……えっと……」
「エルドです。ご多忙のところ、突然の訪問失礼いたしました」
「いえいえ、とんでもない!こうして貴族の方とお話しできるなど光栄で、とても恐れ多い。ささ、殿下、こちらへ」
彼は分かりやすく謙遜しながら、腰をかがめて部屋を出た。白い廊下の中を真っ直ぐに進み、シモンは会議室と書かれた札の付けられた部屋を開く。シモンは始めに僕達を中へと通し、最後に入室すると上座の椅子を三つ引く。古い部屋特有の材木の匂いが充満する中にぽつりとある長い机に、案内されるまま席に着く。シモンはすぐさま向かい側に座り、そわそわとしながら切り出した。
「えぇっと、それでですね。いくつかご質問があるとのことでしたが、どのようなものでしたか?」
彼の動作はぎこちなく、どこか初々しい。国家の代表者との面会に慣れていないのだろう。僕は柔らかい笑みを浮かべ、膝に手を置いた。肩を少し竦ませると、緊張しきった彼の頬が緩む。
「今回お伺いしたのは、厚生省の業務に関するご説明を頂きたく思ったためです。現在、ムスコールブルクに市民の不穏な動きがある事は御存じかと思いますが、厚生省の業務が、この危機を解決するうえで非常に重要な物と考えています。そこで、私はまず、教育分野での現在の業務についてご説明頂けたらと考えています」
僕の言葉に、シモンはやや表情を強張らせる。責任を問われるのではないかと考えているのか、みるみる脂汗をかき始めた。
「我がムスコールブルクの教育制度は、全国民自由教育制というものです。国民は全て、金銭の対価なく、教会において教育を受けることが出来ます。教会はその講義料を国家に請求することにより、国民は『貴賤貧富の別なく……無償で』教育を受けることが出来ます」
シモンは引き出しからパンフレットを取り出した。「新たな教育制度について‐全国民自由教育制の御案内」とタイトルの付けられた、国民向けのものだ。僕はまず1頁を開く。まず目次があり、一番下には小さな文字で「このパンフレットは国民生活の向上のために制度について解説するものであり、公国基本法第21条共有知識の自由に基づき、国民全体が無償かつ自由に閲覧、収得する事が出来ます」と書かれ、イワーノス家の家紋印の印刷がされている。ムスコールブルクが如何に国民に気を遣って発展してきたのかが、パンフレットだけでもうかがうことが出来る。
頁をめくると、全国民自由教育制についての概要が詳細に掲載されていた。パンフレット全体を要約すると、全国民自由教育制は、公国基本法第20条の、全国民の基本的人権の保障に基づき、同法第23条知的共有の原則を達成する基礎として、全ての公国民に最低限度の教育を受けられる権利を与えることを目的とする。その為に、教育機関である大学進学への補助金制度、教会による初歩リベラルアーツ教育制度が、二本の柱として定められている。その根拠法は、「国民教育推進法(全公国民の自由かつ平等な教育機関の導入及び教育の推進に関する法律)」である。教会による初歩リベラルアーツ教育では、国民は全国の教会のスケジュールに従い、無償で講義を受けることが出来る。講義の対価は国家が教会に対して、周辺地域の人口を基に、年間教育費見積額を計算して支払う。大学奨励制度は、大学へ入学した国民に対する奨励金の提供と、学費の一割を国家が負担し、国際的に成果を認められた人物の場合には、一代貴族と認められるというものだ。最後に、貴族の特権について羅列され、国民が貴族の特権を獲得することの先進性を他国家と比較して示している。
「予算が凄そう……」
思わず零れてしまう。シモンは苦笑し、白湯を口に運んだ。
この制度の重要な点は3つある。第一に、貧富の差なく国民が教育を受けられるという点、第二に実質的な貴族優遇制度の保持、第三に国教教育と教育費見積額による、教会への優遇措置である。
第一の点は明らかであり、教育の有無如何に関わらず、国民にメリットを齎す事を示す。つまり、貧者のための制度として機能する。第二の点は、大学進学の膨大な費用の負担は、知識だけで解消できるものではない。ある程度の有力者である事は絶対条件であり、この国家負担の制度は実質的に既存の貴族に特権を与える制度としての役割も担う。そして、一代貴族制度によって、貴族の特権を敢えて維持する事に役立ってもいる。仮に貴族制度が成立していなければ、国民が一代貴族として認められるメリットがないからだ。
第三の点は、教会に教育制度を任せる事によって、宗教教育にも役立てることが出来る点、教育費見積額によって、教会は実質的には出費なく国からの給付を受けられる点で、教会の地位も保障される。
旧権力者の権利と一般市民の権利を出来る限りバランスよく確保する、かなり政治的に巧妙な制度と言える。
「ムスコール大公国では、教会の特権は廃止していると聞きます。しかし、実際にはこのような形で残しているのですね」
「えぇ、まぁ、そういう事になります。ですが国民にも非常にメリットがありますし、労働の対価として教会が対価を得るのは当然では……」
「仰るとおりです。一般市民だけに甘い蜜を吸わせるのは間違った考え方です。とはいえ、うまく逃げ道を作ることが出来るのも事実」
シモンは唾を飲んだ。乾燥した唇を力強く噤む。僕は机の上で手を組んだ。
「では、どうするべきだとお考えなのですか?私には、これ以上の妥協は……」
「無理でしょうね」
僕は頷く。白湯が湯気を上げている。
権力者はその権益にしがみつこうとする、これはどの国家でも変わらないものだ。貴族と教会の双方を相手取ることは難しい。問題はそれを妥協によってどの程度まで諦めさせ、基準を下にずらしていけるかだ。
ムスコール大公国は、真に平等な社会形成を望んでいるわけではない。厚生省の目的が「浮浪者の凍死問題を解決する事」にあったのならば、その目標の為に、彼らが温まる箱物を作ればいいし、全国民自由教育制の目的が「全ての公国民に最低限度の教育を受けられる権利を与えること」にあったのならば、国民には教会を通して初歩リベラルアーツを受けられる権利が与えられている。国家はこれ以上の目的を明示していない以上、それ以上の目的を求める一般市民が間違っている事になる。
しかし、真の目的が提示されつくしているのが法律ではない、と言うのが現実だ。先述の通り、この法律は、国家が保護したい一般市民と、既得権益を失えば国家が破綻しかねない第一・第二階級との間で国家が捻り出した、「妥協案」という、法目的とは別の、政治的な意図が存在している。要するに、立案者はぎりぎりまでしか嫌われたくなかったのである。暴動は、この微妙な力関係のバランスが何らかの要因で崩れた事に原因がある。
「法律を弄れば、この問題を解決することもできるかもしれません」
白湯が天井へ向けて高く伸びていく。それは不確かな形を細々と保ちながら漂い、横や、縦に広がりながら、殆ど霧消していく。
「有難うございました。今回の質問を基に、少しヤーキム卿と話し合おうと思います」
部外者である僕にも、問題の本質が露わになってきた。




