代理
それから二週間が過ぎ、九月に入った。外に出ればいまだ衰えない日差しが肌を焼く。
そんな暑さから逃れて、侍女達の控えの間でシェイラは予想外の申し出に目を瞬かせた。
「私がマリー様の代わりにゴルゴナへ?」
「そう。まだ早いとも思ったのだけど、私が行けなくなってしまったから。ゴルゴナ語を喋れる貴女が適任だという事になったの」
ベスとエイミーは揃って昼食に出ていて、ここにいるのは二人だけだ。
「勿論お引き受けしますが、マリー様は行かれなくてよいのですか」
クリスティーナの筆頭侍女が同行しないとはよほどの訳があるのかとシェイラが訝しむと、マリーの頬がうっすらと朱に染まった。
「実は三日前に妊娠が分かったの」
一瞬目を丸くしたシェイラは、驚きから素早く立ち直ると祝いの言葉を口にする。
「それはおめでとうございます。クリスティーナ殿下は既にご存知なのですか?」
「ええ。今朝お伝えしたわ。殿下の初めての外国訪問に同行できないのは残念だけど、こればかりは仕方がないから。それに今回は私の夫も同行するから滅多なことはないと思うし」
マリーの夫バーナード・エインズワースは外務局の局長を務めている。シェイラがそのことを知っているのは、彼がレオンハルトの直属の上司だからである。
「しかしそれなら私よりベスの方が適任では?」
年は近いが、侍女としての経験はベスの方がはるかに上だ。対して、シェイラは一ヶ月とまだ日が浅い。
「侍女としてはベスの方が長く勤めているけど、異国の地で何があるかわからないでしょう。通訳は男性だし、いざという時言葉の分かる貴女が付いていれば殿下も安心されると思うの。それに、貴女は外国に行くための教育をずっと受けてきたのでしょう?」
確かにシェイラは、外交官になるレオンハルトを支えるための教育を受けてきた。シェイラはここへきて自分が選ばれた訳を理解した。
大役に身がすくむ思いもあるが、シェイラを信頼し、任された事が嬉しい。レオンハルトのために学んできたことが、こんな形で活かせるとはシェイラは想像もしていなかった。
レオンハルトの為に努力した事が、違う形で今、己に機会を与えてくれている。そう思うと形容しがたい感慨が湧き上がる。
ーー無駄なことなんかじゃなかった。
これまで努力した事が今の自分を作っているのだから。たとえレオンハルトの隣に立てなくても。あの日々は無駄ではなかったと、そうシェイラは思うことができた。
ゴルゴナへ出発するまでの残りの期間は、文字通り目の回る忙しさだった。クリスティーナの支度だけでなく、シェイラ自身も準備を一から始めなくてはならなかったからだ。
日中は仕事をこなしながらクリスティーナが参加する行事の段取りを頭に叩き込み、仕事が終われば深夜までゴルゴナの貴族名と礼儀作法を学び直す。
かつて一通り各国の歴史や風習を学んだが、実際に他国へ行くのはこれが初めてなのだ。どれほど机に向かっても不安は残った。
出発が三日後に迫った夕刻。王宮の回廊を歩いていたシェイラは向かいから歩いてくる人物を見て足を止めた。相手もこちらの姿に気がついたようだった。
「レオンハルト様」
自然と頬が緩んでしまう。シェイラが声を掛けると、レオンハルトは穏やかに笑いながら近づいてきた。
「ゴルゴナへ行く準備は順調かい?」
「はい。クリスティーナ殿下の支度は終わっています。私も荷は全てまとめました」
シェイラがレオンハルトを見上げれば、顔色が悪いことに気がつく。
「少しお疲れなのではありませんか」
ゴルゴナへはレオンハルトも外交官として赴くことになっている。今回のクリスティーナの訪問は、両国の友好を内外に示すという表向きの大名目はあるが、その裏で、関税や資源取引について国家間の取り決めをする重要な会談が開かれることになっていた。交渉にあたるのは、勿論外務局の面々だ。外務局のトップであるバーナードが同行することが、今回の訪問の重要性を表している。
ギリギリまで調整が必要なはずで、シェイラ達以上に準備に追われているのだろう。レオンハルトの顔からは疲れが滲み出ていた。
「ありがとう。出発まで間がないから、最後の追い込みだな。私だけでなく外務局の連中は皆こうだ。でも、人の心配より自分の心配をしなさい。最近、勉強のためにあまり寝てないだろう」
図星を指されてシェイラは両手を頬にあてた。顔に出ているのだろうか。
「目の下に隈ができている」
レオンハルトは手の甲で優しくシェイラの頬をなぞると、小さく笑った。
レオンハルトの触れ方が変わったことに、最近シェイラは気づいた。昔は、シェイラを褒める時や心配する時、もっと気安く触れていたのだ。わしゃわしゃと頭を撫で回すようなやり方は、どう見ても子供扱いされているとわかるもので、嬉しい反面複雑だった。それが今では、とても繊細な手つきでシェイラに触れるのだ。
婚約を解消したことへの彼なりの線引きのようにも、女性扱いされているようにも思え、シェイラの胸は乱される。彼の一挙手一投足に容易く振り回されてしまう。
「私も最後の追い込みです。こんな大役は初めてですから、頑張りたいんです」
レオンハルトを見上げれば、自然と二人の視線が絡み合った。
「しょうがない子だね」
くしゃりと、シェイラの頭を撫でる手つきはやはりこれまでより優しく、繊細な手つきだった。




