チザム先生
「結構です。よく頑張られましたな」
チザムがそう言うと、クリスティーナの表情がぱっと明るくなった。
クリスティーナは昨日無事課題を終わらせ、チザムの講義に臨んでいた。
「一ヶ月後のゴルゴナ国訪問も大丈夫でしょうか?」
「勿論ですとも。ゴルゴナの方々も殿下が自国の言葉を覚えてくださったと、きっと喜びますよ」
チザムから太鼓判を押されて、クリスティーナは嬉しそうに微笑む。後ろで控えているシェイラ達もほっと安堵の溜息をついた。
「ようございましたね、殿下。一段落ついたところで少し休憩に致しませんか?」
にこにことそう提案したのはマリーである。普段は人一倍厳しいが、誰よりクリスティーナの事を心配しているのがマリーだ。
ここのところゴルゴナ語の勉強に掛かりきりのクリスティーナを見守ってきただけに、チザムから合格をもらってクリスティーナ以上に嬉しげだ。
「ありがとう、マリー。ああ、砂糖漬けのアプリコットが食べたいわね」
「そうおっしゃるだろうと思って、今朝部屋へ届けさせました」
宮仕えの長いマリーはクリスティーナの好みを熟知している。彼女が用意していた果物の砂糖漬けは、アプリコット以外にも、オレンジやレモンなど見た目にも美しい。
「さすがマリーね。嬉しいわ。チザム先生はどれを召し上がります?」
「では、私はオレンジを」
シェイラは部屋の隅に用意してあった器に丁寧にそれらを盛り付けると、テーブルへ運ぶ。
チザムはほくほくと口元を綻ばせ、シェイラに礼を言った。甘いものを前に子供のように喜ぶ様がどこか微笑ましい。
「そうだわ、チザム先生。今日もゴルゴナ国の事を色々教えくださいませ」
クリスティーナが水を向けると、チザムは口元の髭を触りながら首を捻った。
「さて、どんな話がよろしいでしょうか。歴史や風俗の話は別の教師がするでしょうから、今日はゴルゴナの娘達の流行りについてなどいかがですかな」
一ヶ月後のゴルゴナ国訪問はクリスティーナにとって初めての外遊になる。
国の代表として他国を訪れるのだからと、本人も準備に余念がなかった。
「ええ、お願いします。マリーとエイミーも興味ある?」
二人はクリスティーナの侍女としてゴルゴナへ行く。今回シェイラとベスは留守番である。
「はい」
マリーとエイミーが揃って頷くと、チザムがふむ、とひとつ間をおいた。
「最近、ゴルゴナの娘達の間では『悲恋物』が大流行しておりまして。対立する両家の男女が引き裂かれたり、愛し合っているにもかかわらず死が二人を分かつような切ない結末が好まれているそうですよ」
「それは本当ですか? 恋愛物であれば、最後は幸せになってくれないと嫌なのですけど」
「物語だからこそ、気楽に楽しめるのでしょうな。歌劇や小説で主人公に自己投影して、泣いて、すっきりするのがあちらの娘達の楽しみだそうで」
「ああ、それなら少し分かる気がします」
マリーが頷く。
「日常が平坦だと、物語の中に刺激を求めたりしますもの」
「そうかしら。現実が思い通りにならないからこそ、お話の中でくらい幸せな結末を読みたくなるのじゃない?」
納得がいかないのであろう。クリスティーナは不満げだ。ゴルゴナの女性達と仲良くなれるかしら、と眉間に皺を寄せて呟いている。
「さよう。現実の方がままならぬ事が多いものです。クリスティーナ殿下はお若いのによく分かっていらっしゃる。ーーそれでも、思い通りにならない現実の方が面白いものです」
波乱に満ちた人生を歩んできたチザムが言うと、何とも言えない含蓄があった。
ふぉっふぉっふぉと鷹揚にチザムが笑うと、クリスティーナも笑顔になる。
「ゴルゴナへ行くまでの間、精一杯励みなされ。必ずや実り多き旅になりますよ」
「はい。頑張ります」
窓の外からは夏の強烈な日差しが差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。
クリスティーナがゴルゴナへ旅立つまで一月を切った、穏やかな午後だった。




