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元婚約者

 ためらいなく歩み寄ると、レオンハルトはシェイラの傍らでピタリと足を止めた。彼のいた位置から会話は聞こえなかったはずだが、かばうような立ち位置にシェイラの鼓動が早まる。


「クリスティーナ殿下がお呼びだ。荷物を持とう」


 レオンハルトはシェイラとベスが手にした本を代わりに持つと、その時はじめてノーマの存在に気づいた、というような顔をした。


「おや、これはノーマ嬢。女官長殿が探しておられましたよ」


 あからさまなレオンハルトの態度に 忌々しげに表情を歪めたノーマは、シェイラを睨みつける。


「興が削がれたわ。でも、覚えておきなさい。魔女が王宮に巣食うことは許さないわ」


 吐き捨てるように言うと、回廊の向こうへ去ってゆく。


 ノーマの姿が完全に見えなくなると、レオンハルトが小さく嘆息した。


「王宮に巣食う魔女はどちらなんだか」


 レオンハルトの言葉に、ぎょっとしたようにベスが目をく。

 内心はどうあれ、王宮でノーマの振舞いを非難する者はいないからだ。ノーマの身分は決して高くないが、王の実の娘なのだ。彼女の不興をかえば、国王の心証が悪くなると恐れる者は多かった。


 一方、シェイラは動揺しきっていた。不意打ちのようにレオンハルトが現れ、耳まで赤くなっている自覚はあるのに、ほてった頬から熱が引かない。

 絞り出すように「助けてくださってありがとうございます」と言うのが精一杯だった。

 シェイラの謝意に「いや」と首を小さく振ると、レオンハルトは改めてシェイラに向き直った。


「4ヶ月ぶりだろうか。随分、痩せた気がする」


 優しく気遣うような声音に、彼には相当心配をかけていたのだとシェイラは思い至った。手紙でも常にシェイラの体調を心配していた。


「しばらく食欲がなかったものですから……。でも今は大丈夫です」


 真っ赤な顔を伏せると、それ以上言葉が続かない。二人のやり取りを傍らで見ていたベスが、おずおずと割り込んできて、シェイラははっとした。


「私、先に戻っています。お二人はどうぞごゆっくり」


 先ほどまでノーマを前に青褪めていたのから一転して、今は頬をほんのりと赤く染めている。レオンハルトの腕から引ったくるように本を受け取ると、ベスはシェイラとレオンハルトを交互に見た後、更に顔を赤くして踵を返した。

 何か誤解している、とシェイラは思ったが声をかけようとした時にはベスの背は小さくなっていた。

 いよいよレオンハルトと二人きりになって、もはや心臓の音が聞こえそうなほど緊張した。


「君が出仕することになったと聞いて、すぐにでも様子を見に来たかったんだが。会いに来るのが遅くなってすまなかった」

 

 申し訳なさそうなレオンハルトに、シェイラは慌てて首を振った。


「使節団として、ポルポネへ行ってらしたと聞きました。私の事になどお心を砕いていただかなくてよいのです」


 二年前、国の最高学府を卒業したレオンハルトは、外交官の道を歩み出した。外務局に入局し、先般の一月に及ぶポルポネへの使節団にも名を連ねた。使節団が王都に戻ったのは昨夜のことだ。

 シェイラの方は実家の罪を告白した際、もう二度と会えぬつもりだったのだから、こうして姿を見れただけで胸が一杯だった。


「こうしてまたお会いできて、嬉しいです。レオンハルト様こそ体調を崩してはおられませんか?」

 

 気になって尋ねれば、レオンハルトは柔らかく目を細めた。


「ああ。この通り元気だ。シェイラ、何か困った事があったら言ってほしい。私も王宮に部屋を賜っているから、すぐにでも駆けつけよう」

「もったいないお言葉です。あの、私が言うのも何ですが、あまり私に話しかけるのはよろしくないのではありませんか?」

「どうして?」

「レオンハルト様の評判に傷がついてしまいます」


 シェイラの言葉にレオンハルトは少し苦しげに顔を歪めた。ゆっくりとした動作で右手をあげると、そのままシェイラの頬にそっと触れる。壊れ物を扱うかのように繊細な手つきに、どきりと心臓が跳ねる。

 シェイラの瞳を覗き込むようにじっと見つめながら、レオンハルトは口を開いた。


「君の行いを正当に評価できない者の目を気にするつもりはないな。それに元婚約者が話しかけてはいけない法はないだろう?」


 ーーこの人は私を殺す気ではないか、と半ば本気でシェイラは思った。こんな事を言われては、とても彼を忘れることなどできそうにない。

 シェイラの葛藤など気づかぬようにレオンハルトは呟く。


「すまない。そろそろ戻らねば。シェイラ、また」


 暫しぼんやりとレオンハルトの後ろ姿を見送っていたシェイラだが、間もなく自分の仕事を思い出すと慌ててクリスティーナの私室へ足を向けた。

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