後日談 エリックの華麗なる冒険
その日、日の出とともにエリックは目を覚ました。スペンサー家の子供部屋。
階下では使用人達が立ち働く音がする。きっともうすぐ朝食のいい香りが漂ってくるはずだと、エリックは幸せな想像を巡らせた。朝食までもうひと眠りしようかなと考えて、ーーしかしここがどこであるかを思い出してエリックはガバッとその身を起こした。
素早く着替えを済ませると、自身の部屋を後にする。そうしてエリックが向かった先は、両親の寝室であった。
スペンサー家の所領にある、グロスター城。30年という年月をかけて築かれたこの建物は、赤い砂岩でできた石造りの城館である。
実に1年ぶりに一家がこの城へ戻って来たのは、昨夜のことだ。貴族であれば社交シーズン以外は領地で暮らすのが普通であるが、エリオットもレオンハルトも国の要職を賜る身。故にスペンサー公爵家においては1年のほとんどを王都で過ごし、夏のほんのわずかな期間だけ領地で過ごすのが常だった。
6歳になったばかりのエリックにとって、年に一度だけしか来ないこの城は素晴らしい遊び場だった。城内にも外にも、まだまだ知らぬ場所が山のようにある。
今日はどこを探検しようかと、うきうきとした気分で廊下を歩く。レオンハルト達の寝室まで辿り着くと、エリックは勢いよく扉をノックをした。
どうぞ、という声にドアノブをひねる。扉からひょっこりと顔を出したエリックに、部屋の中から声がかかった。
「おはようエリック。今日は随分と早いね」
窓際に立っていたレオンハルトはそう言うと、にっこりと微笑んだ。
「お父様、お母様。おはようございます。クレアに朝のあいさつをしに来ました」
意気揚々とエリックが告げれば、ベッドの上でクレアを抱きかかえるシェイラもまた、麗しい笑みを浮かべた。
「おはよう、エリック。クレアも起きたところよ」
おいでと手招きされ、いそいそとベッドに上がりこむ。シェイラの腕の中を、エリックはのぞき込んだ。
「クレア、おはよう」
にっこりと笑いかけると、彼の小さな妹は「にいに、おはよう」と満面の笑みを浮かべる。
ふわふわとした金色の髪に、ぱっちりとした紫の瞳。最近は使える言葉も増え、会話ができるようになっている。
エリックはほうとため息を漏らした。
「クレアは今日もかわいいねぇ」
ちょいちょいと指で頬をなでてやると、キャッキャと笑い声を立てる。何て可愛いのだろう。天使という言葉はクレアの為にあるに違いない。
目をまんまるにして妹の顔を凝視するエリックに、シェイラは柔らかく目を細める。
「エリックは本当にクレアが大好きね」
「はい」
だって可愛い。元気よく、エリックは頷いた。
「これはクレアの結婚相手は大変だな。私以上に厳しそうな兄がいるのだから」
ベッドに座ったレオンハルトが、むにむにとエリックの頬を押しながら言う。「やめてくだひゃい」とエリックは不平の声をあげたが、レオンハルトは尚も楽しげにしている。
その時コンコン、というノックの音が響いてさらなる来訪者が顔を出した。
「エリック、やっぱりここにいた」
部屋に入ってきたのは、兄マクシミリアンだった。金髪碧眼の9歳の少年は、エリックを見るとホッとした顔になる。シェイラとレオンハルトに朝の挨拶を口にした後、マクシミリアンはエリックの隣に腰を落ち着けた。
「クレアはかわいいなぁ」
クレアを見ながら弟と同じ言葉を口にしたマクシミリアンに、レオンハルトが声を立てて笑い出す。それを見て、エリックもにこにこと笑顔になった。
こうして家族が揃った朝のひとときが、エリックは大好きである。甘い砂糖菓子を口に入れた時のような、幸せな気分になるからだ。優しい母に、格好良い父。仲良しの兄と、天使のような妹。
「兄様、あとでたんけんをしましょう」
そうお願いすると、マクシミリアンは「そうだね」と笑う。
「ただ今日は家庭教師の先生が来る予定だから、それが終わってからね」
先生が来るなら仕方あるまい。エリックは神妙な顔で頷いた。
午前中いっぱいを庭で一人遊びをして過ごしたエリックだが、流石に午後になると飽きてしまった。一人では何をやっても面白さが半減してしまう。
昼食後しばらく経ってもマクシミリアンが来る気配はなく、痺れを切らしたエリックは自ら兄を迎えに行くことにした。
もし家庭教師につかまっているのであれば、兄を助け出さねばなるまい。エリックは妙な使命感に燃えながら、マクシミリアンの部屋に向かって行った。
「ごめんね、エリック。もう少しだけ待てるかい?」
ドアから顔をのぞかせると、振り返ったマクシミリアンは申し訳なさそうな顔になった。兄の部屋では、机に向かってマクシミリアンと家庭教師の男が、何やら真剣な顔をしている。レオンハルトより歳上だろうと思われる家庭教師は、真面目な顔でエリックに口を開いた。
「エリック様、マクシミリアン様は大切なお勉強中なのです。もう少しだけ、お待ちいただけますか」
2人からそう言われれば、引き下がらざるを得ない。最初の勢いはどこへやら、エリックはしょんぼりとしながら再び庭に戻ってゆく。
さて、ひとりで何をしようか。庭で思案に暮れていると、エリックの視界の先に突然白い猫が現れた。小さい身体に、やや尖った耳。つんとすました印象を与える猫である。
真っ白な毛並みに、サファイアブルーの瞳。鼻の周りの毛だけが茶色く、とても綺麗な顔をしていた。
「お前、どこの子?」
そう尋ねると、猫はフンと鼻を鳴らす。エリックが近づいても逃げないが、触れようと手を伸ばすとさらりと距離をとられてしまう。
「まよったの?」
エリックが聞いても、猫は歩みを進めるだけである。
猫は時折立ち止まっては、エリックが後ろにいる事を確認しているかのように振り返った。「名前は何?」「どこに行くの?」と問いかけながら、エリックは猫の後をついていく。猫の速度はゆっくりとしたものだったが、小さいエリックの足でついていくのは、なかなかに大変である。
追いかけはじめて、すぐにエリックはこの小さな生きものに夢中になった。森に入ってはいけないという注意を、忘れるほどに。
半刻程して白猫に導かれた先は、花の生い茂る広々とした一帯だった。
公爵領の森の一角。そこだけが木々がなく、ぽっかりと陽のあたる場所ができている。見渡す限り白い花が咲き乱れる様は、圧巻の一言に尽きる。エリックはわぁと歓声をあげた。
「これを見せようとしたんだね」
猫に向かってそう言えば、ミャアと得意そうなひと鳴きが返ってきた。
「お母様にあげたら、よろこんでくれるかな」
レオンハルトから花を贈られた時のシェイラは、いつもとても幸せそうな顔をしていた。その時の様子を思い出して、エリックは自分も母を喜ばせたいと考えた。
エリックは選りすぐりの一本を探そうと、真剣な顔になる。しばらくうろうろとしながら花々とにらめっこをした後で、これだという花を手折るとエリックは顔をあげた。
「あれ?」
周囲を見れば、ここまで案内をしてくれた猫がいなくなっている。
そこでようやく、エリックは来た道が分からなくなっている事に気がついた。そもそも、ここは一体どこだろう。
自分の置かれている状況に、小さな不安が胸をせり上がってきたが、この時点ではまだエリックは楽観的だった。まあなんとかなるだろうと、そう思っていたのである。
多分こちらから来ただろうという方角にあたりをつけると、エリックはずんずんと歩き出した。右手には一輪の花が、しっかりと握り締められている。
太陽の位置はまだ高い。この時間ならば多少時間はかかっても、夕食前には戻ることができるだろう。マクシミリアンから待っていなかったことを怒られるかもしれないが、一生懸命謝ればきっと許してくれるはずだ。なぜならエリックがクレアを可愛がっているように、マクシミリアンもエリックをとても可愛がっているからだ。
そんなことを考えながら、エリックは森を進んでいく。
けれどエリックがどれほど歩いても、森から抜け出すことはできなかった。城館の姿さえ、エリックのいる場所からは見えない。
次第に薄闇がたちこめ、肌寒さを感じるにつれ、エリックの不安は増していった。
「……どうしよう」
すっかり周囲が暗くなった頃、ついにエリックはへたり込んだ。聞こえるのはざわざわと揺れる葉ズレの音と、悲鳴のように不気味な鳥の鳴き声ばかり。
空腹を覚え、ずっと歩き続けて足も痛い。この暗闇では先に進むのも怖かった。
「お父様ぁ、お母様ぁ」
遂にエリックは泣き出した。えぐえぐと滂沱の涙が頬をつたう。
このまま誰にも見つけてもらえなければ、自分はどうなってしまうのだろう。今更になって、勝手に森に入るなという忠告を思い出した。もしかしたらここで自分は死ぬのかもしれない。そう思ったら涙はとめどなく流れ続けた。
膝に顔を埋めて泣いていたエリックだが、ガサリと背後から音がしてびくっと顔をあげた。
「エリック!」
その声に振り返れば、ランタンを持ったレオンハルトが立っている。
手を伸ばせば、レオンハルトはエリックを持ち上げると、そのままぎゅっと抱き締めた。
「こんな所で何をしていた! 探し回ったぞ」
「ごめんなさい」
見つけてもらえた安堵で、また涙が止まらない。
「怪我はないか?」
一度地面に降ろされると、レオンハルトはエリックの手足を検分した。痛いところはないかと聞かれ首を横に振ると、レオンハルトはほっとした顔になる。
「さぁ、帰ろう」
レオンハルトに背負われ、エリックはその体重を預ける。心地よい体温を頬に感じながら、エリックはぽつりぽつりと話しはじめた。
「ねこがいて……ついて行ったら、帰れなくなって」
しゃくりあげながら言うと、「そうか」とレオンハルトは相槌を打つ。
「お母様に、お花をあげたいと思ったの」
広い背中に守られている安心感で、エリックは今日一日の出来事を洗いざらい話してしまった。ところどころ要領を得ない説明はあったものの、おおむねレオンハルトはエリックの身に起こったことを理解したようだった。
2人が城館の前までつくと蒼白な顔のシェイラが待っていた。隣には、マクシミリアンの姿も見える。
謝っておいでとレオンハルトの背中から降ろされると、エリックはシェイラの前でぎゅっと服を握り締めた。
「お母様、ごめんなさい」
しょげかえったエリックの身体を、ふわりとあたたかい腕が包み込んだ。シェイラはエリックを抱き寄せると、言葉を紡ぐ。
「どれだけ心配したか。本当に無事で良かった」
ーーあなたにもしもの事があったら、私は生きていけない。
絞り出すような言葉に、罪悪感で胸がぎゅっと苦しくなった。自分はどれほど心配をかけたのだろう。
「あのね、これお母様に」
そう言って、エリックは服の中にしまっていた花を取り出した。花びらは半分近くが落ち、見るも無惨な有様になっている。
花をエリックから手渡されたシェイラは、一瞬驚きに目を見開いた後、泣き笑いのような顔をした。
「ありがとう。綺麗ね」
その表情を見ながら、先程までの恐怖も忘れて、花を取ってきて良かったとエリックは思った。シェイラはそれはそれは嬉しそうに白い花を見つめている。
次はせめてマクシミリアンと一緒に行こう。食べ物も持っていくといいかもしれない。愛する人を泣かせる冒険は、二度とすまいと心に誓う。
エリックの摘んだ不格好な一輪の花は、しばらく城の花瓶に飾られた。その後押し花へと姿をかえ、シェイラの栞として長く愛用される事になったのだった。




