番外編 父と子
クリスティーナがペルデュ山脈の麓町に姿を見せたとの一報が王宮に届いた時、エリオットはその一団の中にレオンハルトがいることを疑っていなかった。
しかしクリスティーナの側にその姿がないと知るに至り、彼が浮かべた表情は、その場にいた人間全てを震え上がらせた。
見し人曰く、鬼の形相であったという。
「わ、私が許したのよ」
エリオットの憤怒の表情に、目の前に座るクリスティーナは青ざめる。帰国してはじめて父王との対面を果しながら、クリスティーナの言葉は王ではなく、傍らに立つエリオットに向けられていた。
「きっと無事に帰ってくるから」
だから怒りを鎮めてくれとそう訴えるクリスティーナに対して、しかしエリオットはこれには答えなかった。
「ーー殿下の無事のお帰りを、心よりお喜び申し上げる」
レオンハルトの不在に一言も触れないところに、逆にエリオットの怒りの深さが見えるようで、クリスティーナはびくりと肩を震わせた。威圧感たっぷりのこの宰相が、クリスティーナは苦手であるーー否、得意な人間などいるのかとさえ思っている。
いつもより深くなった眉間の皺が、場の空気を凍りつかせていることを認識しながらも、それをどうにかしようという気はエリオットにはない。その瞳に帰還した者達を映しながら、考えていたのは全く別のことだった。
『情に流されるな。国とスペンサー家にとって最良の選択をしろ』
レオンハルトが幼い日より、ことあるごとに口にしてきたスペンサー家鉄の掟である。レオンハルトがその言葉を忘れたはずがない。にもかかわらず、レオンハルトは自ら囮役に志願したという。
何故そんなことをしたのかという疑問は、すぐに解けた。
囮になった者達の中に、かつて婚約関係にあったイングラム家の娘の名があったからだ。二人が恋仲だという事実は少なからずエリオットを驚かせたが、それ以上の怒りがエリオットの頭から離れない。
誰に対する怒りかといえば、決まっていた。
ーーあの馬鹿息子が!
本人がいれば間違いなく怒声になっていたであろう言葉は、音にはならなかった。
翌日、王宮の回廊を歩くエリオットに声をかける者はいなかった。誰もがエリオットを見るや、ぎょっとして道を開ける。
肩で風を切って歩きながら、エリオットは昨日から続く怒りに支配されていた。
情に流され、判断を誤った息子に一夜明けてもエリオットの怒りはおさまらない。
囮とはそもそも、少数を犠牲にして多数を生かす、或いはより重要な人物を生かすために行われる作戦だ。本来の目的を考えれば、公爵家の一人息子であるレオンハルトは安全な道を行くべきだった。それが、当然の判断だったはず。
エリオットの苦々しげな呟きは、浮かんでは消えていく。
この時点で、帰国後のシェイラとレオンハルトの扱いをどうするか、エリオットは決めかねていた。
アルタニア王フレデリックは二人の結婚を認める考えであるようだった。フレデリックは、信賞必罰をその信条としている。罪ある者には罰を、功績ある者には相応の褒賞を。王の人心掌握術の一つである。
フレデリックは功が大きければ大きいほど、それに見合うものを与えねば臣下の心が離れていくことを知っていた。
王家のために尽くしても何の見返りも得られないとなれば、当人以上に周りで見ている貴族が以後国の為に尽くそうとは思わなくなってしまう。たかが結婚の許可で次期公爵とその夫人の忠誠を得られるのであれば、安いものだというのがフレデリックの考えだった。
一方、エリオットの考えは少し違う。確かに労に報いねばならないだろうが、その相手がレオンハルトである必要はないと考える。確かに女性のシェイラへの褒美に、条件の良い縁談というのは悪くない考えだ。実家のスキャンダルを考えれば、嫁ぎ先を探すことは簡単ではないはずだから。
シェイラへは条件の良い適齢期の貴族をあてがう、という考えはこの時エリオットの頭に確かにあったのだった。
レオンハルトの結婚相手を決める時、エリオットが重視するのは、公爵家に恩恵をもたらす程の家柄と、その者の人品であった。
実はこれは、貴族社会ではいささか珍しい。貴族女性に求められるのは、一に家柄、二に容姿だと考える者が多いからだ。
けれど若くして公爵となったエリオットは、爵位が高ければ高いほど品性が重要になると知っていた。権力欲に溺れず、己を律することができる者。それが、エリオットがレオンハルトの相手に求めた条件だった。
権力は、魔物だ。スペンサー公家の名に、容易く人はひれ伏す。家の権力を己の力と誤認した時から、家の凋落がはじまるのだとエリオットは思っている。当主やその妻の無軌道ぶりが、家を没落させた例は枚挙にいとまがない。度を越した好色、浪費、そして野心。
ジョン・イングラムがいい例だった。現状に満足していればいいものを、更なる権力を求めて破滅した。
スペンサー家の力は人を狂わせるだけのものがある。
故に、レオンハルトの婚約を決めた後も、エリオットはシェイラに注視してきた。
婚約が成立した時、シェイラの家柄は申し分なかった。イングラム家は由緒正しい名家であったし、彼女がスペンサー家にもたらす莫大な持参金は魅力があった。
一方、性格については未知数といえた。
婚約当時、シェイラは10歳。この先、如何様にも変わり得る。
かつて、値踏みをされているようだと感じたシェイラの認識は正しい。エリオットは事実、シェイラを品定めしていたのだから。公爵家に相応しくないと判断すれば、いかなる手段を使ってでも婚約を破断に持ちこんでいただろうし、そうするだけの力がエリオットにはあったのだ。
6年間を通して、エリオットがシェイラに下した評価は「まずまず及第点」というものだった。傑出したものはないものの、真面目にレオンハルトの妻となるべく努力する上、周囲の評判も悪くない。
イングラム家の醜聞がなければ、エリオットはシェイラを公爵家に迎え入れていただろう。
しかし、イングラム家は失墜した。
かつてシェイラがスペンサー家にもたらすはずだった利益。それと同等の価値が今のシェイラにあるのか、エリオットは測りかねていた。王の意向があってなお、シェイラにその価値がないと判断すれば、二人の結婚を認める気はエリオットにはなかったのである。
「なかなか手厳しいな」
執務の手を止めて、フレデリックはそう言った。西日さす王の執務室にいるのは、今は二人だけである。レオンハルトが戻ってきたら二人の仲を認めるのかという問いに、裁可を待つ書類を持ちながらエリオットが口にしたのは、「まだ判断がつきかねます」という言葉だった。
「命をかけてもまだ足りぬと? 私もお前が駄目だと言うものを、無理に押し通そうという気はないがね」
やれやれといったようなフレデリックの言葉に、エリオットは溜息をついた。
「陛下は随分と、二人の肩を持っていらっしゃる」
「未来の公爵に恩を売っておくのは悪くないからな。おまけに二人とも忠誠心がある」
それでも自分の意向を無理強いするつもりはないというフレデリックに、静かにエリオットは頷いた。まさかそれから三カ月以上もレオンハルトが消息を絶つことになるとは、この時は考えもしなかった。
クリスティーナ達から遅れること三日。囮役の者達が帰国した際、そこにレオンハルトの姿はなかった。
その事実がエリオットに及ぼした影響は、思いのほか大きかった。その時になってはじめて、レオンハルトが帰ってこないという想像を自身が一切していなかったことにエリオットは気が付いたのである。
王宮の謁見の間で、陽動作戦を決行した者達が王を見つめる。
「此度の働き、誠に大儀であった。まずはゆっくりと身体を休めるといい」
フレデリックが彼らの労をねぎらう中、シェイラだけが蒼白な顔でエリオットを見ていた。
まるで裁きを待つ罪人のようだと、その顔を見ながらエリオットは思う。その瞳はエリオットの言葉を待っているようであったが、目の前の娘を責めるつもりはエリオットにはなかった。
彼らもまた命がけで使命を果たしたのだ。この娘が、決断を迫られて囮役を引き受けたのは想像に難くない。
それを責めるほどエリオットは狭量な人間ではなかった。
命がけの作戦において、8人中7人が生還した。通常なら称えられてしかるべき功勲である。残りの一人が、自分の息子でさえなければ。
「……よく無事に帰還した。皆の忠心に感謝する。褒賞については、追って知らせがあるだろう」
本来であれば言葉を尽くして彼らの労を称えるべきだった。しかし、その時エリオットが口にできたのは、最低限のねぎらいの言葉だけだった。
***
「なんだと?」
ぴくりと眉を上げたエリオットに、目の前の男が居心地悪そうに肩を揺らした。公爵家の書斎で、親類と呼ぶのがはばかられるほど遠縁の男が、おどおどと口を開く。
「ですから、そろそろ公爵家の跡継ぎ候補を選んではと……」
レオンハルトが消息を絶ってから二ヶ月。隣国の混迷は深まる一方で、レオンハルトの行方は杳として知れない。生死さえ分からない状況に、エリオットの周囲は俄に騒がしくなっていた。
万一レオンハルトが戻らなかった場合に備えて、跡継ぎ候補を立てるべきだとの声が上がり始めていたのである。
アルタニアでは、跡継ぎの男子がいない場合、爵位の継承方法は大きく分けて二つある。一つは女性相続人を認める方法である。シェイラの義姉アンネの実家がこれにあたる。
もう一つは、男子に限って継承者を何代も遡って求める方法。息子がいなければ甥、それがいなければ叔父、それもいない場合は一代前までどんどん男系を遡って継承者を求めるのだ。
どちらの継承方法をとるかは、家によって異なる。
スペンサー家は後者で、もしレオンハルトが戻らない場合、男子の継承者を新たに見つける必要があった。
スペンサー家の広大な所領と、国内屈指の財産が転がり込むかもしれない。その可能性に、周囲の者は目の色を変えた。
そうして、公位継承権の正当性を主張する者が五人も現れたからたまらない。
自分こそが公爵位を継ぐにふさわしいと、本人やその親族が入れ代わり立ち代わり公爵邸を訪れる。
連日の攻勢に、さすがのエリオットの顔にも疲れが見え始めていた。
その本音が私欲にまみれているという点を除けば、確かに彼らの言い分には理があるのだ。理はあるのだがーー。
「今、新たに継承者を定める気はない」
抑えた声であったが、そこにエリオットの怒りを感じて、目の前の男がすごすごと退散する。また来るという、一言を残して。
男のいなくなった書斎で、エリオットは溜息をついた。
跡継ぎを失う。
その事実は、想像以上に堪えていた。レオンハルトの才覚にエリオットは期待していたし、父親の期待に応えるだけのものがレオンハルトには確かにあったのだ。最初にレオンハルトに抱いた怒りは、既に消えていた。代わりに、暗澹たる思いが胸に押し寄せる。
公爵家の事を考えれば、レオンハルトが戻って来ない場合の次善策を考えておくべきだった。
ーーレオンハルトが帰らなかったら。
また、エリオットの口から溜息が落ちる。
「馬鹿息子め……」
口から漏れた言葉に、いつもの覇気は見られなかった。
それからさらに2週間が過ぎ、周囲の者は益々醜悪な一面を見せるようになっていた。
口ではレオンハルトの無事を願いながら、本心ではレオンハルトの死を望み、ライバルへの中傷は止むことがない。剥き出しの欲望に、こういう時こそ人の本性が出るのだとエリオットは思う。
その日も、自分こそが正当な継承者だと主張する親族を追い返した後、エリオットは書斎で領地の報告書に目を通していた。
遅くなるからもう下がっていいと家令に伝えると、彼は扉に手をかけようとして振り返った。
「ーーそういえば」
とエリオットの方へ向き直る。
「シェイラ様は、ベルファースト港でゴルゴナからの船を待っているそうでございます」
唐突にそう告げられて、エリオットの眉がぴくりと上がった。
「何が言いたい?」
「あの方は、レオンハルト様のお帰りを信じているのだとーー」
「私は、その事を尋ねたか?」
聞かれていないことを言う必要はないと、言外に伝えると家令は深く頭を下げた。
「出過ぎた真似を致しました」
お許しくださいと謝罪を口にした後、彼は部屋を出て行く。家令の出ていった扉を見つめながら、エリオットは視線を手元に落とした。
スペンサー家に仕えて40年以上になる家令が、エリオットの虚を突くような事を口にするのは初めてだった。あの娘はいつの間に、この家で味方を増やしていたのだろう。彼女がこの家に足を踏み入れる機会は、それほど多くはなかったはずなのに。
レオンハルトの行方が分からぬまま三ヵ月が経った頃、王宮でシェイラの姿を見かけたエリオットが思い出したのは、先の家令の言葉だった。
シェイラへなぜあのような質問をする気になったのか、はっきりとしたことはエリオットにも分からない。ただ知りたかったのだろうと思う。まだ、この娘はレオンハルトの生存を信じているのだろうかと。
「ーー君は、まだあの港に行っているのか?」
そう尋ねたエリオットに、「はい」とシェイラは頷いた。緊張で掠れた声が耳に届く。青ざめながらも、シェイラはエリオットから目を逸らさなかった。彼女がレオンハルトの生還を信じていると知った時、確かにエリオットは安堵したのだと思う。
これまでエリオットはレオンハルトに対して、常に厳しい態度を崩さなかった。父親らしい言葉を息子にかけたこともない。国のため、公爵家の為に励めと口にしてきたのはそればかり。
けれど、愛情がなかったわけではないのだ。国家と家の繁栄を第一としながらも、エリオットなりにレオンハルトのことを気に掛けていた。レオンハルトが外交官になりたいと口にした時、エリオットは反対しなかった。
レオンハルトにはレオンハルトの道があると思ったからだ。いつか息子が自分を越える日が来ることを、エリオットは心待ちにしていたし、それができると信じてもいた。
だから近しい者でさえレオンハルトの生存を絶望視する中、シェイラがその帰還を信じているという事実に、エリオットの心は少なからず救われたのだった。
この時にはもうクリスティーナや囮役の者達の脱出劇は、美談として国中に広まっていた。
いまや家名でシェイラを非難する者はいない。確かに、家柄だけならシェイラ以上の娘は山のようにいた。では、人品はどうか。昔から変わらぬ一途さであの娘はレオンハルトを愛し、帰還を信じている。そう思った時、己の中の天秤が片側に大きく傾いたのを、エリオットは自覚した。
レオンハルトが帰国した時、二人の結婚を認めるというのは、エリオットの中では決定事項になっていた。
謁見の間で父親から許しを得た時のレオンハルトの顔は、秀逸だったとエリオットは思う。冷静沈着な息子の、唖然とした表情はなかなかに珍しい。その後かなり時間が経ってからも、なぜ結婚が認められたのかとレオンハルトは不可解そうにしていたが、エリオットはその疑問に答える気はなかった。
父親の全てを、息子に明かす必要はない。
自分は厳しい父として、レオンハルトが超えるべき壁であり続けたいとエリオットは思う。
二人が結婚して十年近くが経っても、その考えは変わらずエリオットの胸にあり続けている。
「おじい様のまねをしてみたのですが、似ているでしょうか」
そう言った孫のエリックの額には、三本綺麗な皺ができていた。五歳になる二人の次男坊は、よく言えば自由奔放、悪く言えば怖いもの知らずであった。
エリオットの書斎に連日のように通うエリックに、最初は当主の怒りを買うのではと青ざめていた使用人達も、今では「お二人は仲が良い」という妙な評価で落ち着いてしまった。
「一体、これは何の遊びだ」
孫の顔を見ながら、エリオットが疑問を口にすると「おじい様のまねっこです」と答えが返ってきた。眉間に皺を作ることの何が楽しいのかエリオットにはさっぱり分からなかったが、「額のしわがかっこいいのですよ!」とエリックは力説する。
優しい言葉などついぞ口にしたことがないにも関わらず、なぜかエリックはエリオットを慕っている。エリオットの後をついて歩き、その振る舞いを真似るのだ。
一度、レオンハルトの真似はしなくてよいのかと尋ねたことがある。
「お父様はもちろんかっこいいですが、おじい様の苦みばしったお顔もまた目標なのです」
お父様のまねは兄様にまかせましたと、意味の分からぬ事を言っていた。この噛み合っているようで噛み合っていない孫との会話を、存外エリオットは楽しんでいた。
人生とは不思議なものだと、ふとした時エリオットは思う。自分が孫との他愛ない会話を楽しむようになるなど、想像もしていなかった。
厳しい表情を崩したことはなかったにも関わらず、エリックの瞳に映るエリオットは別の顔をしているようだった。
エリックと会話をしていると、いつかレオンハルトとの関係も変わる日が来るのかもしれないと思うことがある。ずっと厳しい父親であり続けたいと思っていたが、関係性が変わるのも悪くはないと思い始めていたからだ。
エリオットがエリックの頭を撫でると、にこにこと青い瞳を輝かせて、エリックが笑う。
その手が、表情に反して優しく柔らかいのだと、この時エリックだけが知っていた。




