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後日談 十年後

 白大理石造りの謁見の間。朗々とした官吏の声が響く。


おもてをあげよ」


 その声に顔を上げたレオンハルトの視線の先に、玉座に座る王の姿が映る。双頭の鷲が描かれたマントを羽織り、レオンハルト達を見つめる若き王。


「久しいな。十年ぶりか」


 その姿に、幼い日の面影は既にない。

 

 ーー随分、お変わりになられた。


 かつての姿を思い出し、レオンハルトは感慨にふける。

 目の前の若者の表情からは、為政者としての厳しさが滲んでいる。かつて愛らしかった顔からは丸みが消え、今では引き締まった精悍な顔立ちの青年に成長していた。


「陛下におかれましては、ご健勝で何よりです」

「堅苦しい挨拶はいい」


 滞在中どこかで酒でも飲もうと、そう言って笑うラウールはどこか達観した雰囲気を纏っていた。親しげに国王と話すレオンハルトに、隣にいる部下が目を見開いている。


「長旅の疲れもあるだろう。ゆっくりと休むといい」


 他の皆も歓迎しよう、とラウールが告げる。その言葉に恭しく頭を下げて、一同は退出した。


 長い混乱の後で、アルタニアとゴルゴナの交易が本格的に再開されてから一年あまり。両国の国交回復を祝う式典に出席するため、レオンハルトは十年ぶりにこの国を訪れていた。

 

 この十年のゴルゴナの歴史は、筆舌に尽くしがたい。

 内乱が始まって一年後、ラウールはジャクリーヌの生国へ亡命した。国王不在のまま、政府軍と反乱軍の戦いは続き、その最中、ナヴィドは身内からの反発にあい失脚する。

 泥沼の内乱は結局三年も続き、反乱軍の貴族勢力が宮殿に入城して、一旦は幕を下ろしたかに思われた。

 しかし、一枚岩と思われていた反乱軍は、政権を手にした途端内部分裂を起こす。貴族と庶民の利害が対立したのである。

 不安定な政権によって、国は荒れに荒れた。

 そうした中、国王の帰還を願う民の声は次第に大きくなってゆく。

 十四歳になった時、ついにラウールは帰国を決意する。ジャクリーヌの生国の後ろ盾を得て、国内の王党派をまとめ上げたのである。

 王都ドゥールへ帰還した時、迎え入れた民の歓声は地鳴りがするほどだったという。親政を開始したラウールは、苛烈だった。国を立て直す事に心血を注ぐ一方、歯向かう勢力には容赦がなかった。

 長い亡命生活の間に、ラウールが何を見てきたのか、レオンハルトは知らない。身体の弱かったジャクリーヌは亡命中に心労がたたって命を落としたと聞いている。

 逞しくなった青年王の顔に浮かぶ翳りが、ここまでの道程が平坦でなかったことを示していた。

 

 十年ぶりに再会を果たした国王のことをつらつらと考えていると、与えられた客室まではすぐに着いてしまった。

 扉に手をかけると、微かな鼻歌が内側から聞こえてきて、レオンハルトは頬を緩ませる。


「随分楽しそうだな」


 扉を開けたレオンハルトに、振り返ったシェイラは柔らかく微笑む。


「おかえりなさい。ラウール陛下はお元気そうでしたか?」

「ああ。ーーでもやはり変わられていた」


 テーブルに腰を下ろした後、そう言って思考の海に沈んだレオンハルトを、シェイラは静かに見つめる。こういう時、彼が戻ってくるまでしばし時間を要するのだとシェイラには分かっていた。

 やがて目の前にそっと紅茶が置かれ、レオンハルトの意識はそちらへ向かう。


「すまない。少し考え事をしていた」


 気にしていないというように、シェイラは微笑を浮かべる。


「何を考えていたのか、聞いても?」

「ラウール陛下はこの十年で何を見てこられたのだろうかと。口にできないような陰惨なこともあったのではないだろうか」


 十年という年月は長い。

 レオンハルトにとってさえそうなのだから、幼かったラウールにとっては人生観を変えるほどの歳月だろう。

 結婚をし、子供に恵まれ、レオンハルトにとってのこの十年は間違いなく幸福であったと言える。けれど、全く違う人生の歩み方をした者もいるのだ。


「ーー私にとっての十年は、幸せでした」


 まるでレオンハルトの考えを読んだかのような言葉に、レオンハルトは目を瞠る。

 シェイラは真っ直ぐに、レオンハルトを見つめていた。

 その瞳の奥に、静かな決意と意志の炎が見えて、レオンハルトは妙な既視感を覚える。


 ーーそうだ、この目だった。

 

 十年前、彼女が見せた表情によく似ていると思った。あの時、自分はこの瞳にとらわれたのだ。

 穏やかな彼女がすべてを捨てる覚悟で父親の罪を告白したあの時。まるで見知らぬ女性を見ているような錯覚に陥った。強い意志の光を帯びた瞳に、目を逸らせなくなった。


 家の罪を白日のもとに晒すことでどれだけ辛い道が待っているか、シェイラが知らなかったはずはない。父親の処刑、家の没落、貴族社会からの冷遇。

 それでも彼女は、決断した。

 あの告発によって、シェイラが直面するであろう不遇。そのことに耐えられなかったのは、彼女自身よりむしろ自分の方だったと、レオンハルトは思っている。

 だから王妃がクリスティーナ付きの侍女を探していると知った時、彼女の話をしたのはレオンハルトにとっては当然の行動だった。

 シェイラを救いたいという親愛の情からくる思いの他に、もう一度会いたいという極めて個人的な感情があった事は否定できない。妹のように思っていた彼女を、あの時既に一人の女性として意識していたのだと、今なら分かる。

 彼女が出仕の話を受けたと聞いた時、言いようのない安堵が胸を占めた。

 

 王宮で久しぶりに再会を果たしたシェイラからは、少女のあどけなさが薄れ、代わりに澄んだ湖面のような静けさが漂っていた。その紫の双眸の奥に、芯の一本通った強さを秘めていることを、既にレオンハルトは知っていた。自分に話しかけてはレオンハルトの評判に傷がつくと、そう言った彼女の憂いを帯びた表情を見た時には、胸が締め付けられるようだった。

 

 再会してからは、惹かれていくのはあっという間だった。


 自分の境遇を嘆くことなく前を向く彼女の、これまで知らなかった側面を知っていく。

 同時に、それまでの六年間でレオンハルトが見てきた穏やかで優しい性格もまた、シェイラの本質の一つなのだと気がついた。

 新しく知る姿と、これまでの彼女の姿がレオンハルトの中で線を結び、ストンと胸に落ちたのだった。


 それからのシェイラからは時折、大人の表情が覗くようになっていた。はっとするような表情に、何度胸がざわついたことか。それでいて、本人はレオンハルトにだけ全幅の信頼を寄せた笑顔を向けるのだから、反則というものだった。

 あんな顔を自分にだけ見せられて、惹かれずにいられる男はいるのだろうかとレオンハルトは今でも思う。


 回想に沈んだレオンハルトに、少し心配そうにシェイラは声をかける。


「レオンハルト様?」

「……昔の事を思い出していた。私にとってもこの十年は幸せだったなと」


 ーーそれに今も、と続けるとシェイラはふわりと笑う。

 そんな彼女の頬をそっと撫でると、うっとりとシェイラは目を細めた。


「これからもお傍を離れません」


 しっかりとした声音に、彼女の意思の強さが垣間見える。

 あらゆる憂いから彼女を遠ざけたいと、そう思う。

 けれど彼女は、簡単にはレオンハルトの庇護下に収まってはくれなかった。大切なものを自分の手で守ろうとする彼女に、かつてはもどかしさを覚えた事もある。けれど今は、それも彼女の尊い資質の一つだと思うようになっていた。


「これからも手を離すつもりはないよ」


 そうレオンハルトが言うと、シェイラは嬉しそうに頷いたのだった。

 

 その日の夜、アルタニアからの使節を歓迎する舞踏会が開かれた。レオンハルトの妻として、今回ゴルゴナへ訪問していたシェイラは、ラウールへの挨拶を済ませた後、口を開いた。


「ご立派になられましたね。あの姿をご覧になったら、ジャクリーヌ様もきっとお喜びになるはずです」


 どこか切なげにそう呟く。

 レオンハルトがゴルゴナに訪問することになったと告げた時、はじめシェイラを連れて行く事は考えていなかった。彼女にとっては辛い思い出が残る土地だと、そう思ったからだ。

 けれど、シェイラは自分も行くと言い張った。理由を聞けば、ジャクリーヌの願いを見届けたいからだと言う。

 かつてシェイラはジャクリーヌと間近で直接会っているのだと、その時レオンハルトは思い出した。


『あの子が名実ともにこの国の王になったら、また我が国と縁を結んでいただきたいのです』


 あの消え入りそうに儚げな太后が最後に告げた願いを、シェイラは忘れていなかった。

 クリスティーナもエイミーも結婚して既に王宮にはいない。自分が見届けるべきなのだと、シェイラは言った。

 

 シェイラ自身の希望に、レオンハルトも拒否する言葉を持たなかった。

 流石に幼い子供達を連れて行くことは躊躇われ、二人が不在にする三週間は公爵邸で留守番をしている。


 逞しくなったラウールの成長ぶりに少しだけ目尻に涙を溜めた後、シェイラは呟いた。


「なんだか、あの子達に会いたくなってしまいました」


 少し目を離しただけで、どんどん成長してしまう可愛い子供達。寂しそうに呟いたシェイラを見て、レオンハルトは愛おしげに目を細める。


「すぐに会えるさ」


 そう言って彼女の肩を抱き寄せると、シェイラもレオンハルトの胸に頭を預けたのだった。


 行きと帰りの日程を入れると、宮殿での滞在期間は一週間程しかない。主要な式典が全て終わった後、レオンハルトはラウールから呼び出しを受けた。

 彼の執務室に入れば、部屋の隅に酒の用意がしてあるのが目に入る。なるほど初日の約束の件かと、レオンハルトは合点した。


「私の事は、覚えてはいらっしゃらないのだと思っていました」

 

 ラウールの前に腰を下ろし、レオンハルトが最初に口にしたのはずっと不思議に思っていた疑問だった。

 レオンハルトと会ったのはラウールが7歳の時である。クリスティーナは別にして、従者の一人に過ぎなかったレオンハルトの事をラウールが覚えていたのは意外だった。

 レオンハルトの言葉に、ラウールはどこか遠い目をした。


「あの頃の事はなぜか鮮明に覚えているのだ。多分余にとって、あれが最後の穏やかな日々だったからだろう」


 淡々と話しながら、酒に口をつける。それを黙って見ていたレオンハルトに、そういえばとラウールは目を向けた。


「クリスティーナ王女はーーいや、もう王女ではないのだったな」

「はい。既に嫁がれてから五年ほどでしょうか」


 五年前、クリスティーナは他国の王家へ嫁いだ。皇太子妃として、国民から慕われていると聞き及んでいる。

 クリスティーナは元気にしているのだろうかと聞いたラウールに、そう聞いておりますとレオンハルトは答えた。


「明るく楽しい方だったな。懐かしいものだ」


 どこか感傷的な声音でラウールが言う。

 ラウールにとって最後の平穏な日々の中にいたクリスティーナの記憶は、特別なのかもしれないとレオンハルトは思う。

 ラウールはそれ以降、クリスティーナについて尋ねることはなく、代わりに口にしたのは謝罪の言葉だった。


「そちには随分迷惑をかけた。すまなかったな」


 意外な言葉に、レオンハルトは目を瞠る。


「陛下が謝罪する理由はございません」

「いや、謝らせてほしい。そちにも奥方にも、アルタニアの人々にした事は許されることではない」


 ラウールがレオンハルトを酒に誘ったのは、このためなのかと思い至る。

 しかし、レオンハルトとしてもラウールに謝って欲しかったわけではない。当時ナヴィドがレオンハルト達にした仕打ちを許すつもりはないが、それはラウールへの怒りではなかったからだ。


「ーーもう、よいのです」


 レオンハルトの静かな声にラウールが目を見開いた。


「我が国と貴国は既に手を取り合っております。ですからもういいのですよ」


 アルタニア王が許した事を、再び蒸し返すつもりはレオンハルトにはない。

 レオンハルトの言葉に、ラウールは少し顔を伏せた。「そうか」と呟いて、それきり黙したラウールに、今度はレオンハルトが口を開く番だった。


「陛下に、お伝えしたかった事がございます」


 十年前、シェイラがジャクリーヌから聞いた願いをレオンハルトは彼に伝える。レオンハルトの話を聞き終わった後、ラウールは手を口に添えて呟いた。


「教えてくれて礼を言う」


 その目尻に光るものがあった事を、レオンハルトは見なかったことにした。語るべきことが無くなって、レオンハルトは席を立つ。ラウールが一人になりたいだろうと思ったのだ。部屋を出たレオンハルトは、深く息を吐き出した。この先の人生がラウールにとって心穏やかなものになるとよいのだが。


 執務室を出た頃には、既に夜中といえる時刻になっていた。客室に戻ると、シェイラがベッドで寝息をたてているのが目に入る。

 彼女を起こさないようそっとベットに腰をかけ、その寝顔を見つめる。彼女の安らかな寝顔を見ていると、先ほどの緊張が溶けていくのが分かった。

 眠っている時の彼女の顔は、少女のようなあどけなさがある。起きている時は、年々内側から輝くように美しさを増していくのに、眠っていると幼くなるのが不思議だった。

 以前その事を本人に伝えると、「贔屓目に過ぎます」と顔を真っ赤にしていた。そんな姿も可愛らしいと思ったが、あまり言ってからかわれたと思われるのも困るので、レオンハルトの胸の内に留めている。


 シェイラの頬に口付けを落として小さく「おやすみ」と呟くと、彼女が少し微笑んだように見えた。

 そのまま隣に身体を横たえると、レオンハルトは目を閉じる。彼女の規則正しい寝息を耳にしていると、眠りにつくのはあっという間だった。


 ***

 

 アルタニアに帰国した二人は、帰国の報告もそこそこに公爵邸に帰った。早く子供達に会いたいと、気持ちがはやっていたのである。

 馬車から降りた時、広い庭園に佇むエリオットの姿を見つけ、目を丸くしたのはレオンハルトだけではなかった。


「お義父様。まぁ、クレアも一緒にどうされたのですか」


 シェイラが声をかけると、胸にすやすやと眠る幼子を抱きながらエリオットが振り返った。


「ぐずっていたから、しばし外であやしていた」


 眉間に深い皺を刻んだまま、そう口にするエリオットは、とても子供をあやす顔には見えない。

 エリオットはそのままシェイラにクレアを渡すと、屋敷の中へと入っていった。三歳になる末娘のクレアは、自分が受け渡されたことに気づきもしないで、彼女の胸で安らかな寝息をたてている。

 金色の髪がふわふわと風に揺れ、シェイラの胸に顔を埋めていた。彼女そっくりの紫の瞳は今は閉じられていて見ることはできない。その目尻に涙の跡が溜まっているのを見つけて、レオンハルトはそっと指先で拭った。


「驚いた。父上が眠らせたのか」


 クレアを見ながらレオンハルトが言うと、シェイラは微笑んだ。


「お義父様は、子供達の事を大切にしてくれていますよ」


 にこにことそう言う。結婚したばかりの頃も、同じようにシェイラはレオンハルトに言っていた。エリオットはレオンハルトの事を大切にしているのだと。

 その言葉が信じられずに首を捻った覚えがある。不可解そうなレオンハルトの表情を見て「近すぎて気付かないのかもしれませんね」と当時シェイラは言った。


『お義父様は、国と家の事を第一に優先する方ですが、決してそれだけの方ではありません』


 レオンハルトの瞳を覗き込みながら、あの時シェイラはそう言ったのだった。


『自分の父を見てきたから分かるのです。無関心と遠くから見守っていることの違いが』


 お義父様はレオンハルト様の事を見守ってらっしゃるのですと、そう言った彼女の顔はどこか嬉しそうだった。


 正直、記憶のどこを探しても、レオンハルトの父に関する記憶の中に大切にされた覚えはない。思い出すのはどれも厳しい表情の父の姿ばかりだ。公爵家の跡継ぎとして相応しい人間になれとそう言われて育ってきた。

 けれどシェイラが言うならそうなのかもしれないと、今ではレオンハルトも思うようにしている。人には様々な側面があるものだと、彼女を好きになった経緯からレオンハルトは学んでいた。

 

 庭園で話をしていると、突然レオンハルトの足に小さな腕が絡みついた。


「お父様、お母様。おかえりなさいませ」

「早く屋敷に入ってこないから待ちくたびれました」


 後ろを振り返ると、レオンハルトの足に五歳の次男エリックが絡みつき、その後ろに八歳になる長男マクシミリアンが立っていた。

 マクシミリアンは金髪碧眼に落ち着いた性格をしており、エリックは黒髪に青い瞳を持つやんちゃざかりである。顔立ちはどちらも父親譲りの二人は、とかく仲が良い。

 一人息子だったレオンハルトからすると、公爵家の庭で冒険をしている二人の奇想天外な遊びに日々驚かされている。


「二人ともただいま。元気にしていた?」


 シェイラが微笑むと、マクシミリアンとエリックの笑顔が零れる。


「はい。お母様もお元気そうでなによりです」

「クレアは寝てしまったのですか?」


 シェイラの腕を覗き込んでエリックが言う。末の妹を二人は大層可愛がっている。

 かがみ込んだシェイラの腕の中で眠るクレアを見て、頬を緩ませる三人の姿にレオンハルトの表情も自然と緩む。


 これまでの十年を思う時、隣には常にシェイラの姿がある。

 彼女がレオンハルトに与えてくれた様々な感情は計り知れない。これほど豊かな感情を持つようになることを、彼女を好きになる前は想像もしていなかった。

 この先どれほどの困難があろうとも彼女がいれば乗り越えられるだろうとレオンハルトは思う。自分の帰る場所はここなのだと、そう思える存在を得たことは、レオンハルトを変えていた。

 

 風そよぐ庭で幸せそうに微笑む家族を見て、幸福だとそう思う。何度季節が巡っても自分はこの笑顔を守っていこう。その為の努力は惜しむまいと、心に刻む。


 レオンハルトの耳に家族の楽しげな笑い声が届く。

 澄み渡る青空の下、ひたすらに穏やかな時間が過ぎていった。

ここまで、お付き合いいただきありがとうございます。

これ以後は不定期となりますが、番外編を投稿予定です。

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