耳に響くは
再び港に戻ってから、十日が過ぎた。
その日も朝から侍女に厚着をさせられ、シェイラは港で一人海を眺めていた。
厚い雲の合間から、雪がはらはらと舞い落ちる。
舞い落ちる雪を視界に入れていながら、思考は霞がかかったようにはっきりしなかった。ぼんやりと空を見上げれば、灰色の雲が上空を覆っているのが目に入る。
その時ふと、誰かに呼ばれたような気がしてシェイラの意識が浮上した。
「ーーラ」
はっとして耳を澄ます。声の主を探して、シェイラはきょろきょろと辺りを見回した。
振り返った視線の先に、その姿を見つけた時、一瞬遂に都合のよい幻を見はじめたのではないか、とシェイラは思った。
どれほど、会いたかったか分からない。その姿に、どれほど焦がれたか。
「シェイラ」
レオンハルトの姿を捉えて、シェイラの唇が震える。口を開こうとして言葉が出ないシェイラに、彼は微笑んだ。
「ただいま」
その声が聞こえた時には、駆け出して彼の胸に飛び込んでいた。シェイラがいきなり首に飛びついたにもかかわらず、レオンハルトはしっかりとシェイラを抱き留めた。確かな感触が、彼はここにいるのだとシェイラに告げる。
「待たせてすまなかった」
力強くシェイラを抱きしめたまま、レオンハルトが言葉を紡ぐ。
幻ではないのだと告げるように、シェイラの名を何度も呼ぶ。目を潤ませたシェイラが、レオンハルトの首に回した腕を少し緩めると、自然と二人の視線が絡み合った。
目元を赤く染めたシェイラの頬にそっと触れると、次の瞬間、レオンハルトはシェイラに情熱的に口付けた。熱情のこもった深い口付けに、シェイラもその熱を必死で受け止める。
互いの吐息さえ奪うような口づけの後、シェイラは真っ赤になってレオンハルトの胸にもたれかかった。
うっすらと瞼を開けたシェイラの瞳に、彼の金色の髪が映る。
シェイラの頬に手を添え、その紫の瞳を覗き込みながら、レオンハルトは口を開いた。
「愛している。私と結婚して欲しい」
突然の言葉に、驚いてシェイラは目を瞬かせる。シェイラの視線の先、青い瞳が愛おしそうに向けられていた。レオンハルトがシェイラの答えを待っていると分かって、気づけば言葉がするりと零れていた。
「ーーはい」
それ以外の言葉を、シェイラは知らない。
シェイラの返答に嬉しそうに頬を緩ませると、レオンハルトは再びシェイラの背に腕を回して抱きしめた。
しばらくそうした後で、腕をほどいたレオンハルトの顔をシェイラはまじまじと見つめた。
「よくご無事でーー」
感極まって、涙声のシェイラにレオンハルトは朗らかに笑った。
「一ヶ月程、レージュの牢に囚われていたんだけど。ドゥールへ護送される途中で反乱軍の襲撃にあったんだ」
レオンハルトと一緒に護送された者の中に、反乱軍の幹部がいたらしい。彼の救出のために護送中の馬車が襲われ、そのどさくさに紛れて逃げ出したのだとレオンハルトは言う。
「それでどうやって帰って来たのですか」
目を丸くして聞き返すシェイラは、レオンハルトの話に聞き入っている。
「ペルデュ山脈はもう冠雪していて山越えは無理だったから、何とか海から帰国しようとしたんだがーー」
アルタニアへ向かう船は数が激減していた上監視も厳しく、乗船を諦めたレオンハルトは、ゴルゴナから他国へ出る船を乗り継いでアルタニアに戻ることにしたという。
「船乗りや通訳として雇ってもらいながら、西周りで三ヵ国を経由した。あの時ほど外国語を学んでいて良かったと思ったことはない」
見ればレオンハルトはこれまでより日に焼け、精悍さを増したようだった。爽やかに話すレオンハルトからは辛苦の影は感じられないが、簡単な道のりではなかっただろう。シェイラを抱きしめた腕に、うっすらと見えた裂傷の跡は、かつてはなかったものだった。
ペルデュ山脈の雪が溶けるまで待てなかったのだと笑うレオンハルトの頬に触れ、シェイラはその顔を見つめる。
「真っ先に君の家に行ったら、ここだと教えてくれた」
会いたかったと、彼の穏やかな声が告げる。
雪はいまだ降り続いていたが、もうシェイラは寒さを感じなかった。
死んだと思われていたレオンハルトの帰還は、市民に熱狂的に受け入れられた。名門公爵家の跡継ぎによる生還劇は、帰国して大分経った後も人々の口に上ることになる。
悲恋だと思われていた話はロマンスに変わり、アルタニアの娘達を楽しませた。勇敢なクリスティーナ王女とその従者達の物語は、王家の人気を更に押し上げる。
「王家としても、真の忠誠を示してくれる者は得難い。将来の公爵夫人がそういう者であれば、この国の未来も安泰だと思わないか?」
なあエリオット、と問う国王の顔は楽しげだった。
王宮の謁見の間で、シェイラは頭を下げながらこっそりと国王の様子をうかがった。亜麻色の髪に、エメラルドグリーンの瞳を持つアルタニア王。性格は随分と飄々とした方なのだと、シェイラは意外に思った。
レオンハルトの帰国後、謁見があるから同席するようにと言われ、シェイラはここにいる。バーナード達も一緒なのかと思いきや、呼ばれたのはレオンハルトとシェイラの二人だけだという。
国王と王妃を前に、シェイラは緊張した。
「既に市民達は二人のロマンスに夢中だわ。これを引き裂いては、公爵家の名にも貴方自身の名にも傷がつくのでなくて?」
榛色の瞳をエリオットに向け、そう言ったのは王妃である。
「イングラム家は伯爵家だし、家格が著しく釣り合わないということもあるまい。結婚の持参金は今回の褒賞金で代わりになろうよ」
国王と王妃から口々に言われ、エリオットは深いため息をついた。ーーそのように根回ししなくとも、と彼は口を開く。
「私は二人の結婚を反対するつもりはございません」
ですからこのような茶番は不要です、とピシリと言い放つ。
それ以上黙して語らず、謁見が終わるまで、王の傍らに立ち続けたのだった。
あっさりと結婚の許可が下りたことに、一番驚いていたのはレオンハルトだった。唖然とした顔が珍しく、シェイラと目が合うと「信じられん」と呟いた。
後で聞いたところによると、あの謁見の間でのやり取りは、レオンハルトが仕組んだものらしい。父親の前に国王夫妻を懐柔するという電光石火のやり口に、シェイラは目を丸くしたが、レオンハルトは「私は本当の事しか言っていない」と笑った。
二人の結婚式はそれから四ヶ月後に決まった。貴族の結婚準備期間としては最短の部類だが、婚約期間はもう十分だろうということになったのだ。
結婚の報をとりわけ喜んでくれたのは、クリスティーナだった。
「本当に良かったわね」
シェイラの手を握り、嬉しそうに微笑むクリスティーナに、シェイラの顔にも笑顔が溢れる。
その後も旅で苦楽を共にした仲間や、王宮の人々に祝福を受け、シェイラは自分は本当に人との出会いに恵まれていると感じた。
レオンハルトが帰国してから、二ヶ月後。
公爵邸の庭園で何かを見上げるシェイラを見つけて、レオンハルトは声をかけた。
「何を見ているんだ?」
振り返ったシェイラは、花が綻ぶような笑みを見せる。そうして「あれを」と目線を動かして目的のものを示した。
傍らに立ったレオンハルトがシェイラの視線の先を辿ると、やがて木々の間に、芽吹く蕾を見つける。
「ーー春なのか」
レオンハルトの穏やかな声が、シェイラの耳に届く。その心地良い響きに耳を傾けながら、シェイラは思う。
ーーどんなに冬が長くとも、必ず春は訪れる。
木漏れ日の中、幸せそうに微笑むシェイラに、レオンハルトは目を細める。
命芽吹く季節。アルタニアは、まもなく春を迎えようとしていた。
これにて本編は完結です。
ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
完結できたのは、ひとえにお読みいただいた皆様のおかげです。
後日談を一篇投稿後は、番外編は不定期となります。




