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厳冬

 粉雪舞うアルタニアの冬。しんしんと静かに降り積もる雪を見て、シェイラは白い息を吐いた。


「お嬢様、ここは冷えます。中に入りませんか?」


 侍女の声をどこか遠くに聞きながら、シェイラは首を振った。


「いいの。ここでこうしていたいの」


 海が見える埠頭に佇みながら、シェイラは心ここにあらずといったように呟く。そんなシェイラを心配そうに見つめながら、しかし年嵩の侍女は何も言わなかった。


 ゴルゴナから決死の生還をして三ヶ月。

 シェイラ達より数日早く帰国していたクリスティーナと再会を果たした時のことを、シェイラはあまりよく覚えていない。

 ごっそりと表情が抜け落ちてしまったシェイラに、クリスティーナもかける言葉を見つけられないようだった。


「シェイラが無事でよかったわ」


 そう口にしたクリスティーナに、一体何と返しただろうか。しばらく侍女の仕事を休ませて欲しいと、かろうじてそう言ったのは覚えている。


 帰国直後、国王に謁見をした際の会話も何を言われたのか、ほとんど分からなかった。それよりも、アルタニア王の傍らにいるレオンハルトの父エリオットの存在が気にかかった。

 エリオットには、どれほど詰られても仕方がない。

 そう思っていたのに、バーナードの説明の最中、エリオットは一言も喋らず、最後に労いの言葉をシェイラ達全員に口にしただけだった。


 クリスティーナのペルデュ山脈越えの生還は、庶民に人気の冒険譚となっていた。囮役となったシェイラ達の話も、忠義の臣として、市民の間に広まった。特にレオンハルトとシェイラの話は悲恋として彼らの涙を誘っていたのだが、シェイラはその事を知らない。

 ゴルゴナの内乱は泥沼の様相を呈していた。三ヶ月が経つ頃には、近々ラウールが亡命するのではないかという噂がアルタニアまで流れはじめる。


 帰国の報告を終え、兄夫婦の家へ帰ったシェイラを二人はいたわるように迎え入れた。いくらでも休めばいい、と口にした兄アルフレッドに、シェイラはある望みを口にした。


 ーー港の見える街に、部屋を借りたい。


 シェイラ達が帰国した後、ゴルゴナとの交易は本格的に少なくなり、アルタニアでは一港のみが、ゴルゴナから来る船が停泊するだけになっていた。

 レオンハルトが帰ってくるかもしれないから、そこで待ちたいのだと口にしたシェイラに、最初アルフレッドは反対した。

 しかしすぐに前言を撤回せざるを得なくなる。シェイラが食事を口にする理由が、レオンハルトの帰りを待つというその一点のみにある事に気づいたからだ。それでも、やもすると自棄になりかねないシェイラに、年配の侍女をつけたのは兄として当然の配慮だった。


 シェイラは港町に借りた部屋から、毎日埠頭に通った。日の出とともに部屋を出て、日が落ちて暗くなるまでその場に留まった。船を降りる人々の中にレオンハルトの姿を探す日々。毎日埠頭に通う少女の姿は人々の目に止まったが、彼らがシェイラに話しかける事はなかった。


 シェイラは泣かなかった。

 ゴルゴナから帰る船の中でも、帰国した後も。表情が消えてしまったようにその瞳に何も映さなくなっても、心のどこかで希望を捨てられなかったからだ。彼は必ず帰ってくると。泣けば自分がレオンハルトの生還を信じていないような気がした。


 帰国して三ヶ月が経つ頃、再び王宮に呼ばれた。一日でもここを離れがたかったが、断るわけにもいかなかった。


「そろそろ戻ってこない?」


 躊躇いがちなクリスティーナの言葉に、シェイラは目を瞬かせた。


「レオンハルトの事を待ちたいのは分かるのよ。でも、王宮の中でも待つことはできるし、こんな寒空の中を毎日外で待っていたら凍死しちゃうわ」


 クリスティーナが、シェイラの事を考えてそう言っているのだと分かった。けれど、出てきたのは否定の言葉だった。


「申し訳ありません」


 何度も「申し訳ありません」と繰り返すシェイラに、クリスティーナはおろおろと視線を揺らしている。シェイラのためを思って言ってくれている。それでも、今、日常に戻ることはできなかった。

 結局、クリスティーナが「もう言わないから謝らないで」と引き下がった。不敬なことこの上なかったが、この時のシェイラには、周りに目を配るだけの余裕はなかったのである。


 クリスティーナの部屋を退出して、王宮の廊下を歩いていると、角を曲がったところで向こうからエリオットが歩いてくるのが目に入る。

 シェイラが硬直していると、近づいてきたエリオットがシェイラの目の前で立ち止まった。


「君は、まだあの港に行っているのか?」


 なぜその事を知っているのだろうと思ったが、出てきた言葉は質問ではなかった。


「……はい」

「そうか」


 そう呟くと、それ以上何も言わずにシェイラの横を通り過ぎる。この時も、エリオットはシェイラを責めなかった。

 雰囲気は似ていないが、エリオットの落ち着きのある声はレオンハルトのものによく似ているのだとぼんやりとシェイラは思った。


 港町に戻り、再びゴルゴナからの船を待つ。

 船が港に到着する度に、息をつめて陸に降り立つ人々の列を見つめる。

 あの中に、レオンハルトがいるかもしれないという期待。

 全員が船を降り終わった時の失望。

 それが澱のように、シェイラの中に積み重なってゆく。

 今日もレオンハルトの姿を見る事はできなかったと、すっかり暗くなった周囲を見てシェイラは思う。

 日々積み重なってゆく失望が、少しずつシェイラを蝕んでいた。この時、シェイラが極めて危ういバランスで精神の均衡を保っていたことを、シェイラ自身でさえ気づいてはいなかった。


 どこをどうやって帰ったのかも分からないまま、部屋に辿り着いたシェイラを迎え入れた侍女は、その身体が芯から冷え切っていることにびっくりした。少しずつ、シェイラの顔から生気が失われていく事を、一番感じていたのはこの侍女だったのかもしれない。

 彼女は急いでシェイラの身体に毛布を掛けると、暖炉の前に座らせる。

 そうして、妙に明るい声でシェイラに話し掛けた。


「今夜はシチューを作りました。身体がぽかぽかとしますよ」


 口にしたシチューの味は、温かかった。こんな時でさえ、食事を美味しいと感じることがシェイラには不思議だった。

 食後すぐにベッドに潜ったシェイラは、暗闇の中、瞳を閉じる。彼が戻ってくるまで泣かないと、そう決意していた。思うのは、たった一つの願いだけ。


 ーー会いたい。


 心の声は、いまだ叶うことはない。レオンハルトの姿を見ぬまま、今日も夜が更けていった。


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