最後の一日
急峻な海岸線上に作られたレージュの街並みを海側から眺めると、丘の頂上まで赤い屋根の家々が密集して並ぶ、巨大な一つの山のように見える。
埠頭を一望できる丘の上から、下を覗き込んだバーナードは舌打ちをした。
「まずいな。検問が敷かれている」
埠頭には、既にゴルゴナの軍服に身を包んだ男達が幾人も集まり、船に乗り込む人々に検問を敷いていた。街の入り口で馬車を乗り捨てたシェイラ達は、まずは港の様子を見ようと丘の上まで登っていた。
シェイラも同じく下に目をやると、一人の軍人が目に入る。長身に茶色の髪を後ろに撫で付け、他の人間に指示を出しているところだった。あの中でも地位が上の人間のようだとシェイラは思う。
ふいに、その軍人が目線を上に向け、シェイラ達がいる丘の方を見上げた。向こうからは、フードを被ったシェイラの顔は見えないはずだ。それでもシェイラは、何故かその男と目が合ったように感じた。
一瞬、その獲物を狙うような視線に全身が総毛立つ。
「……行きましょう」
上擦った声がシェイラの口から漏れる。「シェイラ?」とレオンハルトが心配そうに聞き返したが、この感覚をどう説明すればいいのか分からなかった。
正面からの乗船は難しいと判断した一行は、アルタニア行きの船の乗組員を探すことにした。水夫が出入りする酒場へ入り、奥のテーブルに座る。
「ビールを」
酒場の主人に不審がられないようバーナードが酒を注文すると、主人はにこにこと笑いながらシェイラ達の前にジョッキを置いた。しばらく周囲の会話に耳を傾けていると、アルタニア語の会話が壁際のテーブルから聞こえてきた。
「検問のせいで三日も足止めだよ!」
苛々とした口調で、40代の水夫が声を荒げる。
「まあまあ。やっと渡航許可が下りたんだしいいじゃないか。今夜にはこの国ともおさらばさ」
「しかし内乱とはな。しばらくこの国に来る機会はないかもしれんなぁ」
「それはどうかな。戦争でも市は立つ。こんな時こそ大儲けのチャンスかもしれんぞ」
「マルセルさんなら戦争も商売にしちまいそうだ」
「雇われ船乗りの身としては、雇い主の商売繁盛で結構結構」
向かい合って座る男が酒を煽りながら笑う。
男達の会話に、バーナードとレオンハルトは頷き合った。
バーナードがゆっくりと立ち上がって、男達に近づく。
「失礼。少し話をさせていただきたいーー」
突然見知らぬ巨躯の男に話しかけられて、水夫達が怪訝そうにバーナードを見上げるのと、数人の警吏が慌ただしく酒場に入ってきたのがほぼ同時だった。
「人相書きの者達が現れたというのは本当か!」
「ええ、あそこにーー」
酒場の主人が言い終わる前に、先に動いたのはアルタニア兵だった。
テーブルを横倒しにして盾にすると、奥の厨房へシェイラを連れて駆ける。バーナードは先ほど話しかけた水夫達の首に両腕を回し、彼らの耳元で囁いた。
「悪いが、俺達についてきてもらおう」
「なっ?!」
訳も分からぬまま巨漢の男に引きずられ、二人の水夫がふらふらと歩き出す。
厨房の奥にある扉を開けると、細い裏路地に出た。シェイラ達が左右どちらに行くべきか逡巡していると、表から回り込んだ警吏が左手から姿を見せる。
「こっちだ!」
レオンハルトの言葉に、シェイラは警吏がいるのと逆方向に走り出す。足止めをするために最後尾のピートが銃を構え、警吏に発砲するところだった。
「中尉殿を呼べ!」
警吏の叫び声を聞きながら、シェイラ達は細い路地を駆ける。発砲音が何度も空に響いたが、構わず路地を奥へ奥へと進んだ。足の痛みに耐えて、シェイラはひたすら走った。ようやく追手を引き離したと分かった時には、シェイラはぜぇぜぇと荒い息を吐き出していた。少し開けた石畳の広場で、アルタニアの面々はようやく息をつくことができたのだった。
「クソッ! 人相書きが出回っているのか。思った以上に手が回るのが早い」
苦々しくそう言いながら、バーナードがピートの方をちらりと見る。最後尾を守っていたピートは、腕に怪我を負っていた。息を呑んだシェイラに、「かすり傷だから問題ない」と彼は笑ってみせる。とてもかすり傷とは言えないほど血が出ていたが、ピートは布を当てて止血した後は平然としていた。
「あんたら、一体……」
無理やり連れてこられた水夫達が、息を荒くして呟く。その男達に向かい合って、バーナードは口を開いた。
「すまん。先ほどの会話を少し聞かせてもらった。君達はマルセル・コーガンの船乗りだろう?」
マルセル・コーガンは、アルタニア屈指の貿易商である。貿易を使用人任せにせず、自ら商船に乗り込んで交渉をする変わり者として有名だった。
バーナードの言葉に躊躇いがちに男が頷く。
「そうだが……」
「君らの雇い主に会わせてもらいたい」
バーナードの言葉に、今度こそぽかんとして、水夫達は顔を見合わせた。
シェイラ達が追手を巻いて、水夫達と話をしているのと同時刻。先ほどの酒場には、捜索隊の男達が到着していた。
「中尉殿!」
警吏の呼びかけに、ミリアムは口を開く。
「逃げた者達はどちらへ?」
「路地を北東へ進みました。見失ってしまったため、詳しくは……」
ミリアムはもごもごと説明する警吏の顔を一瞥する。功を焦って数人で踏み込んだ警吏達を罵倒したくなるが、ここは苛立ちをぐっと抑える。
一つ息を吐いて、手を揉むようにしてミリアムの方を見ている酒場の店主へ顔を向けた。
「あの……それで懸賞金の方は」
「心配せずとも出してやる。それで、彼らと一緒にいた人間が誰が分かるか?」
「はい、ここ三日ほど来ている水夫達でして。マルセル商会のところの船乗りです」
「……マルセル商会」
考えるように顎に手を置く。
呟いたミリアムの瞳には、鋭い色が浮かんでいた。
***
マルセル・コーガンは70歳の老人であったが、老いてなお矍鑠としていた。
水夫達に半ばむりやり案内をさせ、シェイラ達はマルセルの宿泊する宿へ来ていた。
「断る」
商船に乗せて欲しいと頼んだバーナードに、マルセルが返したのはにべもない返事だった。
「何故です」
「そもそも断られると思っとらん事が気に食わん。政府の人間なら誰でも頭を下げると思ったら大間違いじゃ」
バーナードが身分を明かしてから、この老人の不機嫌はずっと続いている。
「しかし、ここで協力をしてくれたら政府は決して悪いようにはしませんよ」
「権力を笠に着て、人にものを頼む態度ではないな。これだから貴族は!」
まさかの貴族嫌いかとバーナードは内心舌打ちをした。しかし、引き下がる訳にもいかなかった。こちらも後がないのだ。
「どうか、お願いします。私達にできることはなんでもしますから」
堪らず口を挟んだのはシェイラである。膝を折ってマルセルへ懇願するシェイラに、マルセルは片眉を上げた。
「ほお。なんでも?」
上から下まで舐めるようにシェイラを見つめ、下卑た笑いを浮かべたマルセルに、シェイラは固まる。
「シェイラは危ないから後ろにいなさい」
マルセルの視線に不快そうに顔を顰めたレオンハルトが、シェイラを自分の後ろに隠す。と、その言葉にマルセルが反応した。
「シェイラ? お前さん、家名は何という?」
先ほどまでと違う口調に、困惑しつつもおずおずとシェイラは口を開いた。
「……イングラムです」
シェイラの答えに、小さく「お前さんがねぇ」とマルセルが呟いた。どういう事だろうと内心首を傾げたシェイラだが、次にマルセルが口にした言葉に心底驚く。
「……分かった。船に乗せてやろう」
「よろしいのですか?」
何故急に、と驚くシェイラにマルセルは表情を和らげた。
「お前さんが告発した貴族の中に、マルセル商会を買収しようとしていた輩がいたのさ。あくどい方法で手に入れようとしていたから苦慮してたんだが、例の事件で処刑されたわい」
そういう意味ではお前さんは恩人じゃな、と言われ、シェイラは困惑を深めた。シェイラには全く与り知らぬ事で感謝されても困るというものだった。そもそも何故シェイラが告発したことを知っているのだろう。公には、スペンサー家が告発したことになっているのに。シェイラが疑問を口にすると、「わしの情報網を舐めてもらっては困る」と笑われた。
「あの貴族が処刑されたのは自業自得だが、お前さんの告発がなければ商会はどうなっていたか分からん。船に乗せるくらいで恩が返せるなら、乗せてやらんこともない」
「……ありがとうございます」
戸惑いが残りつつも、シェイラは礼を言った。とにかくアルタニア行きの船に乗せてもらえることが重要だった。レオンハルトの方をちらりと見上げれば、優しい顔でシェイラを見つめ、頷きを返される。
「積み荷を装って船に我々を運んでいただくことはできますか?」
レオンハルトの言葉にマルセルが頷く。
「検問を突破するにはそれがいいじゃろうな。家具や絨毯なんかを入れる木箱は人が入れる大きさだ」
出港は、荷の積み込みが終わる夕刻。まだ少し時間に余裕がある。
シェイラ達はマルセルが借りている宿の一室で、ささやかな休憩を取ることになった。
「なんとか無事に帰れそうだ」
レオンハルトの言葉に、シェイラの顔にも笑顔が浮かぶ。
「はい。クリスティーナ殿下もご無事だと良いのですが」
「あの方も姫君らしからぬ逞しさがあるから大丈夫だろう」
隣に座るシェイラの方を見て、レオンハルトが目を細めた。
「アルタニアに帰ったらーー」
その呟きにシェイラが小首を傾げると、レオンハルトは曖昧に笑って首を振った。「帰ってから言うよ」という言葉に、シェイラは彼の顔を見つめる。
「最後まで気を引き締めないとな」
真剣な表情になったレオンハルトに、シェイラもしっかりと頷いた。
夕刻。マルセルの幌馬車の中で、積荷の箱に入ったアルタニアの面々は息を潜めていた。埠頭ではマルセル商会の人間が、船に荷を次々と運び込んでいる。
男達が四人がかりで、人の入った木箱を運び入れる頃には、薄闇が辺りに満ちてきていた。
続々と船に運び込まれ、最後にシェイラとレオンハルトのいる木箱に男達が手をのばそうとしたところで、騎馬の一団が埠頭に入ってきた。
「待て! 船を検める」
顔を青くしたマルセル商会の男達に、馬を下りながらミリアムが言い放つ。
馬車の中、表情を険しくしたレオンハルトは、シェイラに小声で囁いた。
「シェイラ。私が合図をしたら、船まで逃げ込むんだ。できるかい?」
「はい。レオンハルト様は?」
「奴らを足止めして、すぐに後から追うよ。後ろを振り返るな」
音をたてないように木箱から出ると、レオンハルトは馬車の入口で様子を窺う。ミリアムが荷馬車の中を調べようと幌に手をかけた瞬間、レオンハルトが中から躍り出た。
「走れ!」
その言葉を合図にシェイラは駆け出した。
「その少女だ! 捕まえろ!」
レオンハルトと揉み合いながらも、ミリアムが鋭く叫ぶ。その言葉に、兵達がシェイラの方へ走り出した。
「こっちだ!」
バーナードが船の中から、シェイラに手を伸ばす。ダグラス達はゴルゴナ兵の乗船を阻むため、銃を構えている。
それを視界に入れながら、船に向かって走った。風でシェイラの被っているフードが外れる。長い黒髪が、潮風に舞った。
船に飛び込んだシェイラが後ろを振り返った時、目に飛び込んできたのはレオンハルトが五人の兵士に組み敷かれているところだった。
驚愕に目を見開いたシェイラの耳に、バーナードの怒声が響く。
「急げ! 奴らが乗り込んでくるぞ!」
接岸していた船がゆっくりと動き出すのと同時に、シェイラは叫んだ。
「待って! レオンハルト様が乗っていないわ!」
シェイラの叫びを無視するかのように、船はどんどん岸から遠ざかる。
「戻って! お願い!」
今にも海に飛び込まんばかりのシェイラを、バーナードが必死に抑える。レオンハルトは男達に押さえつけられながらも、シェイラの方を見つめていた。
「離して!」
戻らなければ。彼を助けなければ。
シェイラの耳には、バーナードの制止の声は聞こえていなかった。レオンハルトを助けなければと、そのことだけしか考えられなかった。
そうしている間にも、レオンハルトの姿はどんどん遠ざかる。やがてその姿が完全に見えなくなっても、シェイラは彼のいた一点だけを見つめ続けた。
「止すんだ」
やがてバーナードの声を認識して、シェイラはゆるゆると振り返った。
「……どうして!」
なぜ彼を置いていったのだと、詰る言葉は声にならなかった。
バーナードもまた悲痛な顔をしていたからだ。立っていることができなくなって、シェイラはその場にペタンと座り込んだ。もはや何も考えられなかった。
レオンハルトを残して、船はアルタニアへ進路をとる。
ーーそうして、レオンハルトの消息がわからぬまま、三ヶ月が過ぎた。




