陽動作戦
「シェイラ……」
エイミーが呆然と呟く。その琥珀色の瞳に、罪悪感が滲んでいるのを見て、シェイラは眉を下げた。
「なんて顔してるの。クリスティーナ殿下のことを命に代えてもお守りするのでしょう? エイミー、殿下のことは貴女に任せたわ」
ゴルゴナへ向かう道中に、彼女が言った言葉はきっと本心だったはずだ。泣き笑いのような表情のシェイラに、エイミーはくしゃりと顔を歪ませた。
「陽動作戦は私も加わろう。何せこの身体では、かなり目立つだろうから」
どこに行っても抜きん出て大きなバーナードは追いやすい的のようなものだ。人相書きが出回れば、まずその特徴的な長身が目印になるだろう。
「なにより私が言い出した作戦だしな。外務局長を囮に使うとは思うまい」
そう言ってシェイラを見ながら口元だけで笑ってみせる。謝罪とも感謝ともつかない、曖昧な笑い方だった。
「私も陽動に加わります」
横からきっぱりとそう言ったレオンハルトに、「おい」とバーナードが眉を顰める。公爵家の跡継ぎが何を言っている、とその目が語っていた。
レオンハルトはそんなバーナードの視線を受け流して、クリスティーナに顔を向けた。
「クリスティーナ殿下。どうかご許可を」
「待ってください!」
焦ったのはシェイラである。
「レオンハルト様はクリスティーナ殿下とともに」
「ーーそれで、君がどこでどうしているかも分からないまま、自分だけが安全な道を行けと?」
私がそれを喜ぶと思うのかと、シェイラへ問う瞳には、いつもの穏やかさはない。鋭い瞳には常ならぬ激しさが浮かぶ。
シェイラはレオンハルトの瞳を見つめながらふるふると首を振った。そうじゃない。大切だから危険な道へ巻き込みたくないのだ。共に歩んでいきたいと願ったが、命までかけて欲しかったわけじゃない。
シェイラの懇願するような表情に、気付かなかった訳がないのに、レオンハルトは折れなかった。激情に耐えるように、固く拳を握りしめている。
「殿下。必ず生きてアルタニアに戻るとお約束します。ですからどうか、お許しいただきたい」
絶対に引かない、とばかりにクリスティーナを見つめる。
何度か瞬きをした後、クリスティーナは口を開いた。
「絶対に生きて帰る?」
「お約束します」
その言葉に、じわりとクリスティーナの目尻に涙が溢れる。クリスティーナが泣くところを見たのは、これが初めてだった。恐ろしい事件の後でさえ、涙を見せたことはなかったのに。
自分の為に命を掛けろと命じなければならない立場は、年若い王女の心をどれだけ傷つけていたのだろう。
「みんなよ。みんな生きて帰るのよ」
「はい」
滂沱の涙を流すクリスティーナに、堪らずシェイラもその手を取った。
「生きて必ず御前に戻ります」
シェイラにしがみついて泣くクリスティーナの背中を、優しくさすって落ち着ける。お約束します、と何度も何度も繰り返した。
しばらくしてやっと落ち着いたクリスティーナは、涙で赤くなった目元のまま口を開いた。
「いいわ。シェイラ達と一緒に行くことを許します」
「ありがとうございます」
深く頭を垂れるレオンハルトの事をシェイラはじっと見つめる。どうしてこうなってしまったのだろう。安全な所にいて欲しかったのに。
そう思う一方で、彼が一緒にいてくれることが本当に心強かった。弱くなる心を奮い立たせてくれるのは、いつだって彼なのだ。
「兵士の人選は私に任せていただこう」
ピアースはそう言うと、立ち上がって部屋を後にする。残された面々の間で、決行が翌日の夜中に決まった。準備に残された時間は少ない。誰もが各々にできることをしようとその場を後にしたのだった。
翌日、慌ただしく準備をするクリスティーナの居室を意外な人物が訪ねてきた。太后ジャクリーヌである。
この場に外務局の面々はいない。どうしよう、と三人は顔を見合わせた。
「お断りするわけにもいかないわね。分かったわ。お通しして」
部屋を整えた後、クリスティーナは取り次いだ衛兵に声をかけた。間もなく部屋に通されたジャクリーヌは、クリスティーナの前に腰を下ろす。ゴルゴナ語の通訳は、シェイラが行うことになった。
「こんなところまで、いかがなされましたか」
クリスティーナの問いかけに、紅茶に口をつけた後、ジャクリーヌは口を開いた。
「お逃げ下さい」
前置きも何もない唐突な言葉に、その場にいた三人は目を丸くする。一瞬、なにかの罠だろうかという疑いが頭を掠めた。
「どういうことです?」
「ナヴィドは危険な男です。貴女を利用しようとしています」
なぜ、それを自分に伝えるのだろうとクリスティーナは首を捻る。
アルタニアからの援軍は、ジャクリーヌにとっても必要なものではないのか。そう聞くと、ジャクリーヌは首を振った。
「この状況は、武力で抑えつけてなんとかなるものではないでしょう」
「どうして助けようとしてくれるのです?」
「元々、一官吏に過ぎなかったナヴィドを取り立てたのは私なのです」
後悔の滲む声で、ジャクリーヌは言葉を紡ぐ。
「宰相のカロンは、ラウールの成人後も摂政政治をしようと目論んでいました。自分の娘とラウールの婚約を推し進めようとしていたのです。私は、カロンの野心に対して危機感を持っていました」
だから、「自分を取り立ててくれれば、カロンを何とかする」というナヴィドの甘言に乗ったのだ。
「ですが、私のやった事は第二のカロンを作ったに過ぎなかった」
約束通り、カロンは宮殿から消えた。しかし、ナヴィドという別の野心家を引き入れてしまった。
「どうかお逃げ下さい。この居室のダマスク織の裏に隠し通路があります。そこから、宮殿の西端へ出ることができます」
クリスティーナは目を丸くした。国賓公賓の滞在する部屋に隠し通路。緊急時の逃げ道だろうか、それとも別のーー、そこまで考えて背筋を冷たいものが伝った。暗殺や間諜、という言葉が浮かんだからだ。
クリスティーナの硬直に、ジャクリーヌは少し困ったように目尻を下げた。
「ナヴィドは隠し通路の事を知りません。時間は稼げるはずです」
「……なぜそこまでしてくださるのですか?」
クリスティーナの疑問に、ジャクリーヌは微笑んだ。打算です、とジャクリーヌは言葉を紡ぐ。
「ラウールが成人したらーーあの子が名実ともにこの国の王になったら、また我が国と縁を結んでいただきたいのです」
そう言ってジャクリーヌは部屋を後にした。
ジャクリーヌが去った後、バーナード達を部屋に呼び、先程のやり取りを説明する。外務局の面々は、クリスティーナの話に耳を傾けた後、すぐに隠し通路の探索を始めた。
ジャクリーヌの言葉通り、奥のダマスク織の壁紙の下に隠し扉が見つかる。
「信じてもいいのかしら?」
「騙すつもりならわざわざ隠し通路のことを言う必要はないでしょう」
クリスティーナの疑問にバーナードが答える。
「強行突破するより、よほど助かる確率が上がります」
我々は天に見放されてはいないようです、とバーナードが笑うと、クリスティーナも小さく笑った。
一通り隠し通路の確認が終わると、バーナードは真剣な面持ちで告げる。
「予定通り、今晩決行しよう」
頷いた面々には、覚悟の色が浮かんでいた。




