王都炎上
放火されたのは、複数の政府の建物だった。
モーリス・デメルの釈放を求める市民の一部が暴徒化し、政府の建物に火をつけたのだ。
宮殿にいるシェイラ達にその事実は知るべくもなかったが、街中に上がるいくつもの黒煙が異常事態であることを告げていた。
「これは益々まずいな。もはや一刻の猶予もーー」
バーナードの言葉を、扉をノックする音が遮る。
「今度はなんだ!」
怒気を孕んだバーナードの声に、扉の向こうで衛兵の声が答える。その声は、やや上ずっていた。
「ナヴィド補佐官がお見えです!」
バーナードは咄嗟に周囲の面々に視線をやった。彼らの顔にも緊張が走る。この状況で一体何を言いに来たのか。
入室の許可を受けて、ナヴィドが居室に入ってきた。
「これは補佐官殿、いかがなされました?」
その問いに、ナヴィドは立ったまま口を開く。
「既にご存知かもしれませんが、民衆の一部が騒ぎを起こしています」
「外に見えるあれですね?」
「ええ。すぐに鎮圧できるでしょうが、皆様には安心して過ごしていただきたいと思いまして。こうして参った次第です」
「そのことですが、できるだけ早くゴルゴナを発つつもりです。このような状況では、交渉どころではありますまい」
バーナードが首を振ると、ナヴィドは冷然とした口調で言い放った。
「いいえ。皆様方にはこの国にいていただきます」
反論を許さぬ強い口調に、バーナードは眉を顰める。
「今、外に出るのは危険です。接受国として、皆様の安全を確保する義務が私にはある。心配なさらずとも、すぐにおさまるでしょう」
安全が確認でき次第、必ず港まで送り届けるとの言葉に、その場にいた者達にも迷いが生じていた。確かに暴徒化した市民のいる街を抜けるのは、危険だと思ったからだ。クリスティーナの安全を考えれば、拙速に事を運んで何かあっては目も当てられない。
バーナードは逡巡した後、クリスティーナへ視線をやった。聡明な王女は、その視線の意味を理解して頷きを返す。
「……分かりました。しばらく様子を見ましょう」
溜息とともにバーナードは言う。この選択が正しいのか、彼自身にも分からなかった。
***
それから、じりじりとした一週間が過ぎた。ナヴィドの言に反して、ドゥールの街の混乱は深刻度を増していた。
民衆と高等法院の貴族が手を結び、反乱軍として政府に激しく抵抗をはじめたのだ。重税に喘ぐ市民と利権を奪われた貴族。反乱は地方にまで飛び火し、国中に内乱の影が忍び寄っていた。
そんな中、再びクリスティーナの部屋にやってきたナヴィドの顔からは、これまでの余裕が消えていた。
「アルタニアに助力を請いたい」
開口一番そう言ったナヴィドに、皆の表情が強張る。真っ先に反応したのは、クリスティーナだった。
「それは、アルタニアの兵をゴルゴナへ差し向けろということ?」
「はい。アルタニアの援軍と政府軍が手を結べば、反乱軍を鎮圧するなど容易いことです」
「そんなの無理よ」
震える声で、クリスティーナは言う。「兵を送る理由がないわ」と口にした彼女に、ナヴィドはゆるく首を振った。
「理由ならあるではありませんか。ーー第一王女を反乱軍に囲まれた街から救い出すという理由が。慈悲深いと評判の国王陛下なら、自分の娘を見殺しにはできないでしょう」
貴女が助けて欲しいと父上に伝令を送ればそれで済むのですと、ナヴィドが囁く。その表情に狂気の色が含まれているのを感じて、クリスティーナは慄然とした。
絶句するクリスティーナの代わりに、バーナードが口を開く。
「しばし、考える時間をいただきたい」
その言葉に、「できるだけ早い決断を期待しますよ」と言い置いて、ナヴィドは部屋を退出した。
部屋に残された者達の顔には、苦渋の色が浮かぶ。
「……お父様は、兵を動かしたりはなさらないわ」
シェイラに背中を支えられながら、口を開いたのはクリスティーナだった。顔色は悪かったが、口調はしっかりしていた。
「あの補佐官はお父様の事を誤解している。感情を優先させて、人命を犠牲にする方ではないのに」
国王の人柄を知るバーナードとレオンハルトも頷く。名君と呼ばれるのには、理由がある。時に身内さえ切り捨てて、国と民の利益を優先させるからこそ、アルタニア王の名声があるのだ。
「ですができないと断って、それで帰してくれるのでしょうか」
不安げな呟きはエイミーのものだ。その疑問に、バーナードは難しいだろうと首を振った。
「断れば、軟禁される可能性もある。殿下の名を騙ってアルタニアに伝令を送ることもするだろう。アルタニアの人々には我々の状況は分からないからな」
「ナヴィド補佐官は、アルタニアからの援軍を断られたらどうするつもりなのでしょう」
そう言ったレオンハルトの顔は険しい。援軍が得られないと知った時、ナヴィドがどういった行動を取るのか予想ができなかった。
「それにーー、カロン宰相は生きておられるのでしょうか」
レオンハルトの問いに場に沈黙が落ちる。国がこんな状況になっているにも関わらず、何故宰相は宮殿に戻ってこないのか。それは、他の面々も感じていた疑問だった。
姿を見せない宰相と、自害した6人の男達。ナヴィドが先ほど見せた狂気の色。それらを結びつけて、誰もが疑惑を抱いていた。彼が都合の悪い人間を、排除しているのではないかと。
「逃げましょう」
そう提案したのは、オリヴィアだった。
「あのナヴィドという男は危険です。何をするか分からない。一刻も早くこの国を脱出するべきです」
一週間前、決断を先送りにしたことで既に後手にまわっている。この時、バーナードの決断は早かった。
「ああ。このままではいずれにせよ八方塞がりだ。ユアン、ゴルゴナの地図を」
バーナードの指示でテーブルに地図が広げられる。
「ここから一番近い港は往路で使ったロワン港だ。ここからアルタニア行きの船に乗れれば、これが最も早い」
「しかし、距離が近い分、ここへ行く主要街道は一つだけだ。追手がかかればすぐに見つかるぞ」
ピアースも地図を覗き込む。アルタニアとゴルゴナを結ぶ港町は全部で4つ。どこを目指すべきか、それが問題だった。
「ーーいや、まだ他にも道がある」
地図に目を落としながら、バーナードが呟く。彼が指し示したのは、北に位置するペルデュ山脈。
「殿下の足で山越えなんて無茶だ」
ピアースの言葉に、バーナードは真剣な表情を作る。
「誰もが王女を連れてペルデュ山脈越えするとは考えない。だからこそ盲点をつける」
「だが」
「心配は分かるが、この道が最も追手に見つかりにくい」
「大丈夫よ。私、やるわ」
クリスティーナは頷く。その顔は、不安よりも決意に満ちていた。
「ですが、港町へ続く街道に一切我らの姿がなければ、ナヴィドもそのうち気づくのでは?」
オリヴィアの懸念に、バーナードは考え込む。
「……囮がいるか。二手に分かれるべきだろうな」
「ならば、その役は私がやりましょう。外務局に入局した時からいざという時の覚悟はしております」
バーナードはちらりとオリヴィアを見て、小さく首を振った。
「いや、オリヴィアでは殿下と身長が違いすぎる。顔はフードで隠せても身長は隠せないからな。別人だとすぐに気づかれてしまう」
バーナードの言葉に、その場の視線が自然とシェイラとエイミーに集まった。この中で、クリスティーナとそれほど身長の変わらない者は二人しかいなかったからだ。
正直に言って、この時シェイラにはなんの心の準備もできてはいなかった。
クリスティーナに尽くそうとはしてきたが、いきなり命がけの任務に就くことなど考えてはいなかったのだ。視線に身を震わせたシェイラはそこで気づいてしまった。
向けられる視線の中に、声なき声があることを。
ーーお願いだから、自分から手を上げてくれ。
ーー家の罪を償うための機会じゃないか。
それは、シェイラへ向けられた期待だった。無言の圧力にぶるりと心臓が冷える。
けれど、シェイラだって恐かった。すぐに決断などできず、うろうろと視線を彷徨わせる。隣に座るクリスティーナは蒼白で、エイミーはかたかたと小刻みに震えていた。
レオンハルトの姿を探して、彼を視界に捉えたシェイラはびくりと目を見開いた。レオンハルトは強い瞳で、シェイラを射抜くように見ていたのだ。
シェイラと視線が合ったレオンハルトは、声を出さず口だけを動かした。「よせ」とその唇が動く。
ーー止せ。言うな。
シェイラを引き留めようとするその視線に、ざわついた気持ちが凪いでいくのが分かる。自分が囮になれば、クリスティーナとレオンハルトが助かる確率は上がるのだ。
本当はレオンハルトに相談したかった。一人で悩まないと、約束したばかりなのに。
けれど、今この場で二人にそんな時間は与えられなかった。
レオンハルトなら、きっとこうする。臆病な心を叱咤して、もう一度彼を見た。シェイラの唇が小さく動く。唇の形を追ったレオンハルトは、意味を理解して顔を歪めた。
ーーごめんなさい。
約束を守れなくて。これからの事は二人で決めようと言ったのに。
シェイラはレオンハルトを見つめたままゆっくりと口を開いた。
「その役目、私がお引き受け致します」




