エリオット・スペンサー
唇が離れると、レオンハルトはそっとシェイラの肩を抱き寄せる。二人の隙間を埋めるように背中に腕が回され、ぎゅうと強く抱きしめられた。シェイラもレオンハルトの背に手を回し、その胸に顔を埋める。長い抱擁の後で、レオンハルトが口を開いた。
「泣き止んだ?」
「……はい」
シェイラの目尻に残った涙を指先で拭うと、レオンハルトは微笑した。
シェイラの隣に腰を下ろしたレオンハルトは、前を見据えて口を開く。
「アルタニアに戻ってからの一番の難敵は父だろうな」
「公爵閣下?」
レオンハルトの父エリオット・スペンサーは、辣腕で知られた政治家である。宰相としても、十年以上に渡ってその手腕をふるい、国内で彼の名を知らぬ者はいないほどの人物だ。
「目的の為には手段を選ばない人だから。真っ向から説得しても、無理やりにでも引き離されるだろう」
シェイラは威厳に満ちたレオンハルトの父親の顔を思い浮かべる。顔立ち自体は親子でよく似ており、レオンハルトにあと三十年、歳を重ねさせたらこうなるだろうと思わせる、金髪碧眼の堂々たる偉丈夫である。
ただし、人に与える印象はまるで違った。
レオンハルトが冷静沈着で落ち着いた雰囲気を纏っているのに対し、エリオットは眉間に深い皺を刻み、眼光鋭く他を圧倒する雰囲気を纏っている。公爵邸で彼に挨拶をする時などは、シェイラは値踏みするように眺められ、常に緊張を強いられる人物だった。
「父のやり方は近くで見てきたからよく分かる。私が君と結婚したいと言えば、すぐにでも君に縁談の話をあてがって他の男に嫁がせようとするだろう」
「私は他の方との結婚など」
「兄君の出世や、義姉君の実家を潰すと脅されたら?」
ひゅうと、シェイラの喉が鳴る。
「父はそういった事を平気でやるし、やるなら一切容赦しないだろう」
だからすまない、とレオンハルトは口にした。彼の謝罪の意味が分からずシェイラは戸惑う。
「どうして、謝罪など」
謝るべきは、むしろシェイラの方だというのに。自分がその手をとれる立場でないと分かっていて、彼の手をとったのだから。
「君を苦しめるかもしれない。それでも、私は君と共にありたい」
だから君を茨の道に引きずり込む事を許してくれと、レオンハルトは言った。罪悪感の滲む声に、レオンハルトもまた、シェイラに想いを告げるまでの間、葛藤があったのだと悟る。
その手をそっと握り、シェイラは静かに首を振った。
「謝ることなど、なにも」
共に生きる道を探ることがいかに困難か、よく分かっていた。それでも、レオンハルトが二人の前に横たわる障害を越え、シェイラに手を差し伸べてくれた時、彼の手を拒むことはどうしてもできなかった。
例えば彼の側にいるだけならば、他にも方法はあった。貴族達の恋愛遊戯と呼ばれる、愛人関係。妾という立場ならば、エリオットは許すのかもしれない。けれど、冷たい家庭で育ったシェイラにとって、それは受け入れられない選択肢だったし、レオンハルトにとっても同じだろう。それでは、不幸な子供を増やすだけだ。
「貴方の傍にいたいという願いは、私には過ぎたものなのでしょう。でも細い糸でも、貴方と生きられる未来があるなら、私はそちらの道を選んでしまいます」
それをレオンハルトも望んでくれているならば。もう一度同じ選択をしろと言われても、きっと同じように彼の手を選んでしまう。
だから、謝らないでほしいと、そう言ったシェイラにレオンハルトもその手を握り返した。
「これから先の事は二人で考えていこう。何かあったら、もう一人で悩まないで。私には言うんだよ」
「はい。レオンハルト様も私には教えて下さい」
分かったと、レオンハルトは頷いた。
「私はどうも一人で事を進めてしまうから。これからはシェイラに相談するよ」
私の欠点だな、とレオンハルトは苦笑した。
「レオンハルト様にも欠点があるんですね」
これまで彼自身が、そういった事を進んでシェイラに話したことはなかった。
「沢山あるさ。シェイラにはこれから少しずつ話していくけれど。後からやっぱりついていけないと言われても、もう離すつもりはないからね」
だから諦めてくれと、熱を帯びた瞳で覗きこまれ、シェイラは頬を染めた。
「離れません」
恥じらいつつもそう言えば、レオンハルトは嬉しそうに頬を緩ませた。
帰りは、行きよりもゆっくりと歩いて帰る。ぽつりぽつりと懐かしい思い出話に花を咲かせていると、衛兵の間まではあっという間についてしまった。「おやすみ」「おやすみなさい」と互いに挨拶を交わして、部屋に入る。
以前よりも、名残りおしいと思ってしまうのは、気のせいではないだろう。レオンハルトに触れられた感触がまだ残っている。
まだ何も解決してはいないと分かっていても、シェイラの心は火が灯ったように暖かかった。




